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大出雲紀  作者: あずみ さき
炎の章
3/9

03 誘拐

 重い……。

 熱い、痛い、苦しい。

 いずれも、かつて身に覚えのある感覚だった。

 赤い、灼熱した石が、落ちてくる。山の斜面を、木々をなぎ倒しながら。


 『オレはまた、異母兄たちに殺されかけたのか?』


 そうだ、オレは、ナイキは最初から知っていた。

 狩りに異母兄たちとともに行ってはならないということを。

 エダは、母は、最初からあんなにとめていたじゃないか。


 異母兄たちが、自分を殺すために狩りにともに誘ったのだということを、ナイキは最初からわかっていた!


 それでも…、行かずにはいられなかったのは。


 『異母兄たちに嘲られることに、オレの傷つきやすい精神(こころ)が耐えられなかったから』


 『何一つ思い通りにならないことに、死んだっていいさとうそぶいていたから(本当は、誰よりも貪欲に生きたがっていたくせに!)』


 『身の内を焼け焦がす憎しみに、何かせずにはいられなかったから』


 「ナイキ……!」


 誰かの呼ぶ声がする。

 そうだ。オレはナイキだった。呼ぶのは母か、それともかつて妻だったあの女か。


 黒髪と、美しい顔と白い手を持っていた、女。

 静かで、内面を決して現さなかった、最後まで何を考えていたのかわからない女。

 もしかしたら、自分を憎んでいたのかも知れない女。

 あれだけ美しい女を、過去も現在もナイキは他に見たことがない。


 『ヤガミヒメ』


 そう、呼ばれていた女。


 オレは、まだあんなことにこだわっているのか。

 おかしいな。だんだんと時が戻っていくようだ。

 オレは誰だ。ナムジか、国主にもうなったのか。異母兄たちをもう殺してしまったのか。


 追い立てて、殺して、血まみれの遺体が幾つも幾つも目の前に無造作に転った時、その虚脱感の中で。

 初めて、ナイキは自分でも気が狂ったようだと感じていた恨みや憎しみから、解放されたのだ。


 母はどうした。いや、母はもう死んだのだ。

 今はいつだ。オレは誰だ。


 オレは、オレ……は……。




 ぱしゃん、と水が跳ねた。

 重い闇がのしかかっている。胸を刺し貫かれるような劇痛に『ナイキ』は呻き、身動ぎしようとして倍加した苦痛に喘いだ。


 目に入るのは赤い色、炎の色だ。


 「気づいたか」


 誰かの声がした。

 大国主の目にはぼんやりと炎が映っていた。目の前の情景は、一度見分けられぬほどにぼやけてから像を結んだ。

 ナムジは苦痛の中で横たわり、少し離れた炎をぼんやり見ている自分に気がついた。

 頬を流れ落ちる生ぬるい感覚があり、唇の端でなめると水だった。

 頬も唇も、炎にあてられたように乾いていて熱かった。胸が痛む。のどが渇いた。


 ここはどこだ?


 現状がわからず、大国主は苦痛を増やさぬように周囲に目をやる。

 皮も剥いでいない木の枝を荒く組み合わせ、狩りの時に作るような仮御屋の中にいるようだ。小枝で雑にふかれた屋根が、手を伸ばせば触れそうな近くに見えた。

 土の上に乾いた枯れ葉が敷かれており、その上に横たえられているようだ。


 混濁した過去の夢に心はいまだに乱れていたが、国主として永年培ってきた自我が、揺るぎなく自己を支えるのを感じた。

 年をとるというのは、いいものだ。かつて『ナイキ』と呼ばれていた男は、ぼんやりとそう考えた。


 頭を動かそうとしてみたときに、誰かの手が痛んでいない箇所に触れた。


 急に、意識が明晰に澄みわたる。

 触れた箇所から、強力な『気』が流し込まれるのを感じた。

 『力』が身の内にたぎり、清涼剤のようなその快さに大国主ははっきりと意識を取り戻した。


 傍らに誰かいる。目をはっきりと見開き見上げてみて…驚いた。

 金色に輝く、人のものではない目が見返していた。


 思い出したのは、眼だけが金色に光る夜に獲物を狩る獣の姿。

 そういえば、エダが光る眼を持つ『バケモノ』の話をしていなかったか?


 「運のいい男だな。素戔鳴(スサノヲ)の血がおまえを守っている」


 乾いた声は男のものではない。

 女か? 大国主はいささか意外な思いに目を凝らした。


 ばさばさの長い髪が周囲を縁取る姿は小さく、屈み込む姿は背後の火明かりだけではよく見えなかったが、なんとはなしに柔らかい存在感がある。

 身体からは、土の草と匂いがした。

 エダは…何と言っていた? 人を喰らう、バケモノ?

 

 「おまえは、生きのびるだろう」


 すっと、双の瞳だけが輝いていたぎらついた光が落ちた。

 腹のあたりに置かれた手が引かれ、その存在が傍らから離れたのがわかった。


 狭い御屋の内で、炎をはさんだ場所に移った姿に、大国主は首をまわして相手を見極めようとした。

 人の肌の色合いをした手足が目に入る。


 素戔鳴神のような天から来った神々とは異なり、大八島の地そのものより生じた主たち…、(あやかし)ともカミとも呼ばれる力あるものたちは、その力も在り様も千差万別である。人に近い姿を持つものの方が稀とも思われたが、逆に天から降りた神々にも近い人に近い姿を持つものは、たいていは強大な『霊力』を有していた。


 先ほど流し込まれた『気』の感触はただ者ではなく、根のクニに古来より住まわうオオヤマツミや、海を制するワダツミなみに、強い霊力を持った存在だと大国主には感じられた。


 「…コロシタ、だろう」


 しゃべろうとすると、うまく声がでなかった。のどがからからになっていたのだ。


 「海のそばで、男を」


 それが、自分に注意を向けるのがわかった。やはり、とても小柄で、腕と足がむきだしの粗末な衣らしいものを身にまとっていた。


 「ヒトを…、喰らったのか」


 「喰らった? 私がか」


 水の匂いがたち、女のような姿をもつそれは、膝をついたまま再び寄ってきた。

 手入れした様子のない長い髪が地面に這った。


 「海の際で、確かに男を一人手にかけたが。腕と足をばらばらに引きちぎってやっただけだぞ。誰があんなもの喰らうか。まずそうな」


 嫌悪したように、女はつぶやいた。


 水の入った器が唇に押しつけられた。

 大国主は、水を飲もうとして、むせた。

 かろうじて流し込んだわずかな水が、かさかさになった口を癒したが、それ以外は髭から首にかけてじわりと濡らしただけだった。

 ようやく一息つくと、改めて女を見上げた。


 「なぜ、オレを助ける」


 人外の存在には、人の規範など通用しない。

 古来より在り、こちらに血が混じっているヤマツミならば、あるいは助けてくれることもあるかも知れないが。

 こんな女の姿を持つ、強大な『霊』の存在を、国主である自分が知らなかった。

 つまり、間違いなくこの女は根のクニの外から来たのだろう、と大国主は考える。


 火明かりが当たる女の顔が、横たわった不自由なナムジの視界からも見えた。

 大国主はゆっくりと目を見開いた。


 「キレイな顔をした…バケモノだな」


 女には角も生えてはいなかったし、目が三つあるわけでもなかった。

 獣面でもないし、唇の上下より牙が突き出しているわけでもない。

 ぎらぎらと輝いていた肉食獣を思わせる目の光も消え、そこにいるのは小柄な、ごく普通の人間の女にも見えた。

 頬も腕も汚れていたし、櫛を入れた様子もない髪はぼさぼさで小枝がからまっていた。

 それでも、くっきりとした顔立ちの美しさは見て取れる。


 「バケモノ……、私のことか?」


 耳慣れぬ言葉でも聞いたように、女はかすかに首を傾げた。


 「まあよい。私は別段、おまえにかかわるつもりはなかった。…悪かったな。巻き込むつもりはなかったとはいえ、山を崩したのは私だ」


 「おまえが?」


 山雪崩を起こした、という女の言葉を、大国主は信じた。確かにこれだけの『霊力』を持つ存在であれば、山くらい容易く崩すに違いない。


 「すぐに掘り出したんだがな。おまえの馬は死んだ」


 「仕方があるまい」


 山雪崩に埋まったのであれば、自分が生きていることの方が、おそらくは運がいいのだ。覚えているかぶさってきた土の壁を思い、ナムジは自らの身体の痛みと併せてそう判じた。

 同時に、改めて思いもする。

 いや、自分はそう簡単には死なない。

 素戔鳴神の血は、異母兄たちが何度殺そうとしても、常に黄泉のクニから自分を引きずり戻して来たではないか。


 「へたに動けば折れたあばらが心の臓へと刺さりかねん。仕方がないから、動けるようになるまでは、私が面倒を見てやる」


 「…ありがたいがそれより、家のものにオレがここにいることを伝えてくれぬか。騒ぎになっていることと思う」


 どんな騒ぎになっているか、考えただけでも頭が痛みそうだった。

 確実にわかるのは、エダは怒るだろうということだけだ。


 女は肩をそびやかし、じろりと見下ろした。


 「私に、使い走りをしろというのか。いやだね」


 「おい」


 子供のような言い様に、大国主は当惑した。

 見上げると、女は本当にムッとしたような顔をしていた。


 「動けなくしてくれたのは、誰だ」


 「巻き込まれるようなドンくさい奴も悪い。動けるようになるまで、面倒は見ると言っている」


 「その間、オレが被る迷惑はどうしてくれる」


 「そんなことまで知らん」


 女はもつれた髪を払う。


 「生かしておいてやると言っているんだ。あとは私の知ったことではない」


 おいおいおいおい。

 置かれた状況に、ナムジは血の気が引くような思いに捕らわれた。


 「ふざけている場合ではないぞ!」


 「こっちもふざけて言っているわけじゃない。おまえが動けるようになればすむことだ。さっさと身体をなおせ」


 むちゃくちゃを言う。

 ナムジがあぜんとする間にも、女は話はもう終わったというように火の傍らへ戻った。

 これは自分に何とかできる状況ではないことを、否や応もなく自覚させられる。


 火のそばに在る小柄な姿は、ほとんど気配を発していなかった。

 ここまで完璧に『気』を隠すことができるのであれば、自ら姿をあらわさない限りは、国主である自分にもこのような存在が、クニの中に在ることに気がつかなかったに違いない。


 「おまえを、何と呼べばいい」


 人を殺し、自分もまた殺されかけたバケモノに、ナムジは問いかけた。


 「人に名を尋ねるならば、その前に自らが名乗ったらどうだ」


 思いもかけぬほどの正論で、ぴしりと言い返された。

 『霊』にとってはもっともな話である。

 大国主はしばし考え、今では呼ぶもののほぼいなくなった、自らの最初の名前を名乗る。


 「オレは…、ナイキ」


 そうだ。オレはナイキだった。

 父を恨み、異母兄たちを殺し、ヤガミを愛した。

 オレはそういう男だった。


 女は火の傍らで振り向き、バケモノらしからぬ美しい面がくっきりと火明かり照らされた。


 「ミヤコだ。私のことはそう呼べ」


 むきだしの腕が、足が、照り返しで赤く染まる。このように小さい女の形をしていても、人ではないことわりで動く、もの。


 「ミヤコ、か」


 響きを吟味して、小さく笑みを浮かべた。


 「キレイな響きの名前だ」


 「そうか」


 女はどうでもよさそうに応えたが、急にまなじりを鋭くすると腰を浮かせた。


 「どうした」


 答えず、かき消えたかと思われるほど唐突に女はいなくなった。

 狭い御屋の口にかけられていた獣の皮が、ぱっとひるがえった。


 変わった経験だな。


 夢と現の狭間にいる心地をまだ引きずりながら、女がいなくなった場所をみやり、身の痛みを確認しながらも、大国主はそう思うことにした。


 国主たる存在は、その属するクニと深いところでつながっている。

 だからこそ、大国主には自らがまだ根のクニの内にあることは感じとるこよはでき、またクニからある種の『力』を引き出すこともできた。

 問題は、自らの身体が今はほとんど動かすことができぬことと、クニとつながるようにはヒトと意思を交わすことはできないということだ。


 つまり根のクニの主は、自らのクニに内で行方知れずということになる。


 自分がいない間にどういうことが起こるかを想像すると、胸の痛みにもかかわらず、深い深いため息がもれるというものだった。




 御屋から飛び出した女は、険しい顔で山の斜面を音もたてずに駆けた。

 ぴたりと身体をとめたのは、山間の谷底ともいうような場所で、そこには夜の中にわだかまるように、黒い、一抱えもありそうな巨大な胴のくちなわが存在していた。


 大国主の前に姿を現した同じくちなわに違いないが、ナイキが目にしたならば、倍ほどにも膨れあがったその姿には驚いたに違いない。

 もたげられた鎌首の上で、その目だけは血の冷たい生き物の持つものではない。

 人に似た…、意志と悪意のこめられた、それだけが浮き上がる、気味の悪い目。


 けわしい表情で持ち上げた女の手中に、光が生じた。

 その光を投げつけるかのように女は手を掲げたが…、目を細めるとすっと下ろしてしまった。手の下で、生じた光は輝きを落とし消えた。


 「母神が産んだ呪詛の塊か…、見るだにおぞましいモノだが、毒虫が毒虫であるという理由で打ち殺しても仕方があるまい」


 不快そうに顔をしかめ、女は舌打ちした。


 「去ね。我慢できずに私が打ち殺す前にな。…先ほど撃とうとした時に、おまえ、ことさらにあの男を巻き込んだな」


 女の瞳は再び、ぎらぎらとした金色の光を帯び始めた。


 「私にナイキを殺させようとしたこと、覚えておくぞ」


 くちなわは女の姿をとる『霊』に対して「シュ」と威嚇めいた音をもらすと、身を低くして藪の狭間へと滑り込んで行った。

 嫌悪のこもったまなざしで、女はそれを見送った。

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