02 大国主
ぱわぁ のあるうちに、どんどんいきます~。読みやすくを念頭にね。(^^)
芽吹き始めた畑を両側に、馬を駆る男たちの姿があった。
土の匂いのする中、働いていた人々は目を上げ、韓渡りの見事な馬が二頭、駆け抜けて行く様を見送った。
「国主様だ」
「大国主様がお通りになる」
「国主さま」
「根のクニの大国主、ナムジ様!」
先を行く馬を御す男は、堂々たる体格の持ち主であった。
身の丈はそう高いわけではないが、胸が厚く、がっちりとした体格をしている。
生え揃った髭が色濃く口元を覆い、当たる風になびく。眉も太く、額は広い。
ごわごわとした髪は角髪に結われ、唇は厚く引き結ばれていた。
美男とは言えないだろうが、印象的な面である。
袖の半ばをひもで結わえた簡素な上衣と、膝下をひもで締めた袴をまとい、腰には実用的な太刀が下げられている。
後から馬を走らせるものは、なりや様子からして従者と知れた。
面長な顔に、皮がはりついたかのような印象を与える男である。しわが刻まれた面が実際以上の年齢に見せているのかもしれないが、前をいく主とはへたをすると親子ほどの年の差を感じさせた。
主ももはや若くはないが、一見したところその年齢は不詳である。
猛々しいほどに頼もしげな外見にも関わらず、濃い眉の下の瞳は意外なほどに澄んで、穏やかである。
この男こそ大八島の西に位置する、根のクニをまとめあげた大国主、ナムジと呼ばれる国主その人であった。
主のためらいのない馬の進め方に、従者の方はどこか案ずるような、いささか心配気なまなざしを注いでいた。
平地を抜け、垣のように面なる山々の裾野にかかると踏み固められた道も細くなり、馬の足並みは自然と落ちた。
海の方へと向かう道筋からは離れると、国主は神備とも呼ばれる山の頂きへと向かう細い道に馬を進ませた。
さして高くもない山の、それでもそれなりに見晴らしのきく頂きの端が見えると、国主はそこで馬を止めた。
「どうなされたのですか」
主より手綱を受け取ると、木の枝へと結びつけながら従者は声をかけた。
「今日はなにか…、どうかされたように思われます」
「何がだ」
うねる緑の山々の先に、わずかに切れ込んだ海が見える。
それを睨みつけるように見る国主の様子は、常になく不機嫌にすら見えた。
「何事か、お心にかけていらっしゃるのでしょう。だから、お一人で馬を出されるなど」
「一人ではない。おまえがいるではないか」
大国主はため息をもらす。
「この根のクニの内で、国主であるオレを傷つけられる存在など、そうはおらぬぞ。いないとは言わぬがな。素戔鳴神の起こしたこのクニの内ならば、大抵の事には対処できるだけの『力』が、まだオレにはある」
「その点に関しては、疑いを持つものなど誰一人としておりませぬよ、ナムジ様」
従者は少し呆れた様子だった。
「国主様が行き先も告げずふらふらと出歩かれると、周りのものが気を揉むというだけのこと。もしも万が一、無法なものにでも出くわしたならばどうなさいます」
「国府の在るこのオウの地でか? そんなものがおるようならば、よほどに国主が無能なのだな」
人ごとのように言い、国主はそのがっちりとした肩をすくめた。
「無法なものがおるとでもいう話があるのか?」
「いいえ。そのようなものがもしもおれば、ハヤト様が黙ってはおられますまい」
「ハヤトか」
苦いものでも噛んだように、大国主は顔をしかめた。
「まあよい。エダよ、このところ何か変わった事は起きてはおらぬか」
「変わったこと、ですか」
従者はしばし考えこんだ。
「そうですね。西の海ぎわのムラで『バケモノ』が出たという話は聞きましたが」
「バケモノ?」
国主は聞き返す。
「なんだそれは。地の主、ではないのか?」
「地の主は、人を喰らったりいたしますまい」
従者の言葉に、国主はあっけにとられた。
「喰らったのか、人を?」
「そのように聞いております。日が十と幾つかめぐる前、海の際のムラで男が一人、手足をバラバラにされて喰われたそうです。目にしたものの話によれば、毛がぼうぼうと生え目が炎のように燃えた、二足で歩くバケモノだっただとか」
国主は眉をひそめたが、そこでふと何か気づいた様子で従者を見る。
従者は視線をそらせた。
「エダよ、そういえばここ幾日か見かけぬが、ハヤトはどうした?」
「海の方に」従者は仕方無さそうに答えた。「バケモノ狩りに行かれたご様子です」
「愚か者が!」
国主は、はっきりと顔をしかめた。
「いつまでたてば、もう少し頭を使うということを覚えるつもりだ! 仮にも国主の長子が、断りもせずバケモノ狩りに飛び出して行ってどうする!」
「あのお方の武勇は、誰もが認めるところでありましょう」
従者が低くとりなすのに、国主は深くため息をつく。
「武勇があればいいというものではないぞ。アレはもてはやされ、大概いい気になっておるのだ」
「ナムジ様」
苦々しい主の口振りに従者は面を振る。
「ハヤト様には、よいところがたくさんおありですよ。オオドシ様と比べられるのは酷というものです」
「オオドシ?」
出て来た名前に、国主はあっけにとられる。
「エダ、オレがアレと、オオドシを比べているように見えるか?」
「はい。私の目にはそのように見えます。何よりも、ハヤト様がそのように感じておられます。私の見る限りでは、あなたさまがオオドシ様を最も慈しまれていると、そのように周りのものが受けとっても仕方のないことと思われます。このままでは、遠くない先に御子どうしでいがみ合われることとなりましょう」
従者の言葉は手厳しく響いた。国主は困ったような顔になる。その様は、叱られた熊のようにも見えた。
「ハヤトもオオドシも、どちらもオレの子。どちらをより慈しむなどということはないものを…。ただな、オオドシは、あれは『違う』のだ。あれはオレよりも色濃く素戔鳴神の血を受け継いでおる。あれの『力』は、もはやオレをも凌ぐものだ」
「そんなことは有り得ません」
従者は、主の言葉を一蹴した。
「オオドシ様は先行き頼もしい、優れたお方。ただ、まだお若い。周囲のものとの軋轢を起こさぬよう守って差し上げるのが、年を経たものの務めでありましょう。ハヤト様の剛く優れた部分を認め、褒めて差し上げて下さい。あなたさまがハヤト様を多少甘やかされたところで、オオドシ様は気になさいませんよ」
「…そういう問題なのか?」
主の困った顔に従者はうなずき、その後で丁寧に頭を下げた。
「差し出口を挟みまして、申し訳ございません」
「いや。今となってはおぬし以外、誰がそこまで言ってくれる。…わかった。ハヤトには言って聞かせることもあるが、褒めてやることにしよう。ところで、そのバケモノだが」
「はい」
「捨てておけ」
「は?」
従者は怪訝そうに見返した。
「そのバケモノ、続けて人を喰らっておるのか」
「いいえ、そのような話はきいておりません」
「ならば、捨てておけ。地の主であれば、よほど立腹しているのでない限り、それ以上人にかかわろうとはするまいよ。地の主でなければ、それこそハヤトがしとめてくるであろう。今は、そのようなものにかかわっているヒマはない。このクニにはバケモノのことなどより、よほど心にかけねばならぬ事柄が山ほどあるのだ。
…オレはな、このところ心が落ちつかぬのだ。知らぬ間に衣の端から火がついて、焦げ始めているような、そんな差し迫った心持ちがしてならぬ。何かが起ころうとしておるのだろうな」
大国主はまなざしを暗くした。
根のクニ始祖たる素戔鳴神からは、六世の孫にあたる血筋である国主は、超常的な領域にまで及ぶ先見の才を有していた。それを知る従者は面を緊張させた。
「何か、災いが?」
「だろう。でなければ、こうも心が騒ぐまい。問題は何が起ころうとしているかなのだが…。答えは、案外と近くに来ておるのかも知れぬ。
そこの御方、いい加減に出てこられてはいかがかな」
従者の背後に向かって穏やかな調子で、大国主は声をかけた。従者はぎょっと振り向く。
背後には、誰もいない。だが大国主は揺るがぬまなざしを向けていた。
不意に眼前の空が揺らいだかと思われ、確かに誰もいなかった場所に人が唐突に立っていた。
従者は反射的に腰の太刀に手を伸ばしたが、大国主が手を伸ばして抑えた。
「どなたかな。幾日か前より、こちらをうかがっておられただろう」
現れたのはほっそりした体格を、見慣れぬゆるやかな衣に包んだ若者だった。
亀の甲を思わせる風変わりな胸当てを胸から腰に掛けをまとっている。
若々しく美々しい顔立ちだが、その面は生真面目で、どこか張りつめたものが浮かんでいた。
ゆったりした足どりで近づくと、武器を持たないことを示すように両手を広げてみせた。
「私の存在に気づいておられたか、ナムジ殿」
「害意はないようだったのでな。放っておいたが」
若者の声には歌うような抑揚があった。軽く礼をとる。
「こそこそと伺うような真似をした無礼はお詫び申し上げる、大国主のナムジ殿。素戔鳴神の血筋のお方の人柄を見極める前に、こちらの存在を知られたくはなかったのだ。故あって、私は用心深く振る舞うことにしている。私は、天の若日子と申すもの」
「天の…、天界より降りられた方か」
ナムジの問いに、若者はうなずいた。
「いかにも」
エダは息をのむ。
天…とは、またの名を高天原とも言う。この地上には存在しない、神々の住まわれるいい伝えの地である。
虹色の橋を越えた向こうに存在するというその地は、始祖神たる素戔鳴がもともと産まれた故郷である。彼の地では季節は常に春であり、人々は老いることを知らず、素戔鳴神の姉君である太陽神のもと、幸せに暮らしているのだという。
まるで子供に語って聞かせる、おとぎ話であった。
大八島に暮らす人々にとっては、天界は伝説の中にしかない異界であったが、国主はその言にも驚いた様子は見せず「そうか」とうなずいた。
「で、若日子殿は、このナムジに何か御用かな」
「根のクニ全てを統べられ『大穴持』の尊称で呼ばれるあなたは、まさにお血筋に相応しい偉大なお人柄とお見受けする。私が天よりもたらす言葉を受けとめるに足る器量のお方。天界の主である方の御子息のお一人、天の菩卑能様より地上へと伝えるように私が預かってきたお言葉、聞いていただけようか」
「いかにも。私で役に立てるようならお聞きしよう」
天の若日子は、まなじりを鋭くした。
「地上に大いなる災いをもたらすであろうもの、その降臨を、むかえ撃つに足るだけの霊力を備えた素戔鳴神のお血筋の方に伝えよと、私は菩卑能様より命を受けた。天より下り災いを起こすであろう存在についての、これは警告だ。その男は名を…、ニニギという」
「ニニギ」
大国主は面を振った。
「聞いたことがない」
「これからいやでもお聞き及びになることだろう。ニニギは海を越えた西の地、山々の連なるヒムカのクニにすでに降りたっております。あの男は天の主たる方の御長子、天の忍穂耳様の御子の一人であり、天孫……を名乗ります」
「そのニニギという男、なぜ天より下ったのかな」
「天では得られなかったものを得るために」
「得られなかったものとは、何か」
「己れ自身のものとなる、クニを。それを築くために、あの男は地上に大いなる戦を起こすつもりでおります」
若日子の表情は次第に険しくなった。
「もともとは、あの男は天界に破壊と混乱をもたらそうとしました。自らを誇示し、争いを求め、あげくに人を殺めたのです。それらのことにより、お父上からもはや血の絆はないものと思えと言い渡され、天を放逐されました。
地上に降りた後は、霊力をもってクニや民を従わせることを続けております。いずれは、この根のクニにも戦を仕掛けてきましょう。太刀打ちできるものは、おそらくは素戔鳴神のお血筋の方のみ」
「そのニニギという男はどれほどの、どのような力を持つ者か」
口にされる不穏な事柄にもかかわらず、大国主の口ぶりは変わらず穏やかだった。
「風を呼び、火を起こし、天候をも動かします。水もおそらくは使えましょう。霊力だけならば…、天の主たる御方の尊い血筋に属するものとして、天界でも恐らくは随一のものです。しかしながら…、天では『鬼子』とも呼ばれておりました」
「『鬼子』か」
若日子の言葉に、大国主は眉を潜めた。
「ふむ。それほどの力を帯びたものは、もはや地上には滅多におりますまい。上に立つものとしての器量はどうかな」
「ニニギには、賛同者が天より幾たりもつき従ってきました。ニニギを主として仰ぐものたちの中でも、特に強い『力』持つものたちは二人。雷の使い手である建御雷と、剣をとらせればならび立つものがないという、経津主」
大国主は目を細めた。
「その警告、確かに承った。ニニギという男の動向、今後気をつけていくことにしましょう。若日子殿はこの後、どうされる。よろしければ根のクニに暫くとどまられぬか。このナムジにもてなさせていただきたいが」
「私はこれより、今お一人の素戔鳴神のお血筋の方、木のクニの主殿の所へと向かう所存です」
生真面目に言うと、若日子は面を振った。
「お気持ちだけありがたくお受けいたしましょう」
「木のクニの主殿…、主の名を長臑彦といったか」
「ナムジ殿とは知己の間柄か」
「いや、直接のやりとりはしたことがない」
大国主は面を振り、木のクニへ旅立つという天界の若者を見やった。
「では、気をつけて行かれるがよい、天の若日子殿。そう…木のクニの主殿との会見が済んだ暁には、再び根のクニを訪れてはいただけないかな? もしも、天へとすぐさま帰参されるのでないのであれば」
若日子はやや考えて、うなずいた。
「今のところは、天へと帰参する心つもりはありません。ニニギの為すこと、今しばらくは地上にて見守りたい。喜んで、再び根のクニへと寄らせていただきましょう」
「大禍なく行かれよ」
「では」
軽く礼をし、現れた時と同じように天の若日子の姿は掻き消えた。
黙って見守っていた従者は、詰めていた息を吐いた。
「どのように、姿をくらましたのでしょう?」
「見えなくなったように『見える』だけだ。気配も去ったから、行かれたな」
ぎょっとしたように周囲を見まわした従者に、こともなげに大国主は漏らした。ため息をつく。
「落ち着かなんだのはこのためかな。…ニニギか。やっかいな男のようだ」
「本当に、そのような者がいるとお思いですか」
懐疑的に従者がつぶやく。
「本当でなければよいとは思うがな。本当にいるのだろうよ、天界人がわざわざ訪れて告げた言葉だ。しかも天界の主神の直系とは、素戔鳴神よりもさらに上位に位置する神のお血筋ということだ。その霊力をもってすれば、地上にクニを築くなどわけもなかろうよ。いずれはこの根のクニにも、木のクニにも、必ずや目を向けてこよう。もしもニニギが若日子殿が言われたような存在であるのならばな」
「ヒムカの地に、海を越え人をやりましょう」
「よい考えだ。オオドシにも意見を聞いてみねば。あれの方がオレよりもよく『見える』…しかしな、エダよ」
大国主の見せた表情は、どこか苦いものを含んでいた。
「本当に若日子殿の言う通りに、そのニニギと言う男は、災いをもたらす存在なのか?」
「ナムジ様ならば必ずや、その男の本質、見極められると思われます」
「買い被るなよ、荷の重いことだ。…『鬼子』か。かつてはオレもそう呼ばれたぞ、エダよ」
「存じ上げておりますよ」
従者は重々しく相槌を打つ。
大国主は思案に沈むように面を伏せて、あごをなでた。
「先に戻れ。しばらく一人で考えたい」
「じきに、暗くなりますよ」
忠実な従者は、明らかにその命に従うことを拒みたそうであった。
「わかっている。そう遅れんさ。ただ、どうしてもしばらく一人になりたい」
主の様子に、仕方なくエダは自らの馬の手綱を解いた。
「エダ」
「はい」
わびしそうに、大国主は本来は幾つかしか年は違わぬはずの、しかし外見は親子ほども年が違って見える馬上の従者を見上げた。
「オレたちは、子供の頃からのつきあいだ」
「はい」
ありがたいことに。やや誇らしげにエダは笑む。
「おまえはもう、オレを『ナイキ』とは呼んでくれんのだな」
「ナムジ様……」
従者は驚いた顔をして、面を振った。
「もはや、御身分が違いましょう」
「ああ」
大国主はうなずて、手を振る。
「わかっているさ。行ってくれ」
振り返りながら、従者は去っていった。その気配がなくなってから、ナムジは呟いた。
「身分などくだらん」
それは、口にしても仕方のないことであった。
乳飲み子の頃からのつき合いで、従者であるとともに友であるエダは、分を越えたふるまいをして国主の立場を危うくするような真似は、決してしないのだ。
「ニニギか……」
まだ『ナイキ』と呼ばれていた若造の時分に、大国主は自らも『鬼子』と呼ばれた記憶があった。
あれは、まだ何の先行きも見通せず、異母兄たちに幾度も殺されかけていた頃のことだ。
母の生んだ子を、最初は自らの息子と認めなかった、先の国主である父。
国主の子を産んだことで自らの望みのすべてを、息子へと押しつけた母。
何ひとつ思い通りにはならないという無力さを抱え、全てに対してやり場のない怒りと、身を焦がす鬱屈した恨みを抱えていた頃のことだ。
エダが変わらずいてくれたことだけが救いであった、若き日の自分。
自らを容れない今ある世を、破壊したいという衝動。
全身全霊をあげてのただ憎むためだけの『憎しみ』を、大国主は知っている。
記憶の中の木霊でさえも、蘇ったその感情は、省みて背筋が寒くなるようなものであった。
その感情を叩きつけるだけの『力』を『あの頃』の自分が手にしていたならば、何をしでかしていたものやら。
それこそ、見当がつかぬほどにそれは大いなる災いとなったのではないだろうか。
ならば…、ニニギという男も、そうなのではないのか?
「話してみたいものだな。ニニギという男とは」
かつての自分の有りようを知るからこそ、大国主はそう思う。
それで分かりあえるのかは、また別の問題だろうが。
大体、あの頃の自分に、理解を示されてそれを容れるだけの度量があったものかどうか。
思い起こした、あまりにもひどい若き日の自分の姿に、大国主は喉で笑みを噛み殺す。
あれは…、あの憎しみがなくなったのは。
いつのことだっただろう?
漆黒の髪に静かな目をした女の面影がよぎり、大国主は急に笑いを収めた。
冷え込んできた周りに急に気づいて見まわすと、思ったよりも時がたっているようだった。
山間の夕暮れは早く、夕暮れは茜色から瞬く間に夜へと変わりつつあった。
エダの渋面を思い起こし、いかんいかんとナムジはあわてて自ら馬に向かう。
細い下り道を馬にまかせるように手綱を緩めると、帰路を急ぎたい気持ちは馬も一緒で、だく足は自然と早まった。
山影の落ちた細い道で、急に怯えた様子で馬が立ち止まった。
黄昏にそそり立つ木々と深まる影の中、唐突に背筋をつらぬいたまがまがしい気配に、大国主は腰の太刀に手をかける。
何かが、そこにいた。
黒い影が、道のくらがりにわだかまっていた。
長い胴を這わせ鎌首をもたげた姿が宵闇に溶けながら見て取れる。
それは、くちなわ。目を疑うほどに大きく…、ざっと見ても、人の丈ほどもあるかと思われる。
大国主が身を強張りつかせたのは、その大きさのためではなかった。
黒い影のような形の中で、くちなわにはあるはずのない…悪意の込もった『目』と視線が合った。
白目の中に黒目のある、まるで人の…目?
地鳴りのような音と共に、突如として地面が突き上げた。
山の斜面が崩れ落ちてくる様が、薄暗がりの中でひどくゆっくりと見て取れる。
自分がそれに巻き込まれるのが否応なく見て取れた。
遠くで馬が甲高くいななき、唐突にそれは途絶えた。