act.40
夢さえも届かない、深い深い眠りの底にいたような気がする。
目を覚ました瞬間、最初に感じたのは眠気による強い倦怠感だった。前日の疲れをすべて残したまま一晩経過してしまったかのような、妙な錯覚さえ起こしてしまいそうになる。
頭に靄がかかったような心地だ。頭の回転が鈍い。
(とりあえず、起きなくちゃ)
身体に纏わりつく重苦しい眠気を振り払うように、無理矢理身体を起こす。
両手のついた部分から、ぎしりと音がして軽く身体が揺れる。少し顔を動かせば肩からずり落ちた毛布と手に触れる白いシーツの存在を認めることができ、私は今、見覚えのないベッドの上にいるのだということがわかった。
頭を上げ、きょろきょろと周囲の様子を確認する。
見知らぬ部屋だ。宿の部屋より一回りは小さく、木目調の壁が四方を囲んでいる。調度品などは本当に必要最低限のものしかなく、かなり殺風景な印象を受ける。部屋の出入り口となるものは、黒い取っ手のついた木製の扉のみ。窓はあるようだが、臙脂色の厚いカーテンに覆い隠されており、この場所からは外の様子を知ることはできなかった。それ以外に特筆すべきものはなさそうだ。
「……ここはどこ?」
呟く声に、答えるものは誰もいない。だって、ここには私しかいないのだから。
だんだん思考がはっきりしてきて、私は意識を失う前のことを思い出す。
単独行動中に迷子になった私が助けを求めようとしたのは怪しい二人組の男で、そのうち片方が使った不思議な力で私の意識は強制的に落とされた。そして目覚めた私は、まったく知らない場所にいる。大方、私は彼らに捕まってしまったのだろう。
(これは……やばい状況、だよね?)
これが非常にまずい状況であることは、嫌でも理解できた。
しかしながら、今の私にできることなんてあるのだろうか。
仲間達に助けを求めたくとも、彼らへの連絡手段が無い。私は魔法が使えないし、元の世界の電話に相当するようなものがこの世界にあるのかすらわからない。考えられるのは迷子防止用にと渡されたベル型のシルバーアクセサリーくらいだが、鞄ごとどこかに行ってしまったようで私の手元にはない。
逃げられるだろうか――そう思い、唯一の出入り口を見やる。
ここがどこだかわからない以上、やみくもに動き回るのは危険だし、正直怖い。こんな風に自分の意志とは無関係に連れ去られた経験などそうあるわけでもなく、頼れる仲間もいない。だが、行動しないことには何も始まらないのだ。
幸い、ベッドの傍に自分の靴が揃えて置いてあるのが確認できたので、それを履いて極力物音を立てずに扉へと近付いてみる。
(大丈夫かな……)
恐る恐る黒い取っ手に触れ、ゆっくりと動かしてみる。
けれど、押しても引いても扉が開くことはなかった。どうやら鍵がかけられているようだ。
(うーん、やっぱりダメかあ……そりゃそうだよなあ)
何か目的があって捕らえた人間をむざむざと逃がすわけがない。
ため息を吐きつつ、今度は窓の方に歩み寄った。窓からであれば外の景色を確認することもできると踏んでのことだが、カーテンをいきなり全開にするのも躊躇われたので、隙間からそっと覗くだけにする。
(うわあ……なにこれ。緑しかない)
窓一枚隔てた先に見えたのは、一面の緑の木々だった。
周辺に建物らしきものは他に見当たらず、緑の葉を生い茂らせた木々だけが雑然と並んでいる。よく見ればところどころ木漏れ日が降り注いでおり、その明るさに少しだけほっとした。
もしかして、ここは森の中なのだろうか。少なくとも、私が今までいた王都の中ではなさそうだ。
「窓から逃げることも考えたけど……ちょっと無理っぽいかな」
窓に顔を近付けて下を覗き込んでみたけれど、地面はかなり離れた場所にあった。この部屋は一階より上に位置しているのだろう。付近に足場となりそうなものはないし、私自身も高いところから飛び降りる勇気など持ち合わせていない。どう考えても、窓からの脱出は望めないだろう。
それに、もしここから出られたとしても一人では森の中で迷子になるのが関の山である。
このままじっと蹲っていることしかできないのだろうか――そう思い、ため息をついた瞬間。
かちり、と鍵の回る音が静かな部屋に鳴り響いた。
「――っ!?」
どくん、と心臓が嫌な音を立て始めた。
一瞬にして不安と恐怖の色に塗り替えられた心を無理やり鎮めるように、胸元を押さえる。
それとほぼ同時に、突然扉が開かれた。
「……!」
部屋の中に入ってきた人物と、視線が交わった。
「あぁ?……お前、起きていたのか」
低い声でそう呟きながら、その人物はずかずかと遠慮なく私の方へ歩み寄ってきた。
それは、右目に黒い眼帯を付けた長身の男だった。背丈はロイドやクロノスよりも大きく、程よく引き締まった体格をしている。明るい赤茶色の髪から覗く深緑色の瞳は真っ直ぐに私をとらえており、思わず一歩後ずさってしまいそうな眼光を放っていたけれど、堪えた。
顔の造詣は整っているものの、鋭い目つきと眼帯の存在からやや怖い印象を受ける。まるで海賊のような男だと、私は思った。
「きっちり二時間ってとこか」
男はじろじろと無遠慮に私を見下ろすと、満足気に頷いた。
「目立った外傷もねえな。魔法の巻物ってのは存外使えるらしい……おい、お前」
「……は、はい!」
「気分はどうだ。どこか悪いところはねェか」
「えっ!?……えっと」
唐突な質問への回答を、私はすぐに用意できなかった。
どう答えるのが正解なのか、瞬時に判断できなかったというのもある。
けれど最たる理由は、目の前の男がまるで私を気遣うような言葉をかけてきたからだ。彼は、私を捕らえた二人組の男の仲間である可能性が高い。だからこそ彼の言葉は予想外で、単純に驚いてしまったのだ。
「おい、どうなんだ」
なかなか返答しない私に、男は焦れた様子で問いを重ねてくる。
このままでは男の機嫌を損ねてしまうかもしれないと考えた私は、適当な答えを口にした。
「たぶん、ないです」
「ああ?自分の身体のことだろうが。しっかり答えろ」
真っ当な意見だ――などと口を滑らせたら怒られそうなので黙っておく。
「言えねえってんなら、こっちで勝手に調べさせてもらうが」
「ごめんなさい全然ないです!どこもおかしなところはありません!」
勝手に調べる、という言葉に不穏な響きを感じた私は慌てて首を横に振った。
すると男は片手を腰に当て、ふんと鼻を鳴らしてみせる。
「ならいい。手間が省けて何よりだ」
「……あなたは、誰ですか?私は、どうしてここに連れてこられたの?」
恐怖に負けないように精一杯の勇気を振り絞って、今度はこちらから問いを投げかける。
――彼の腰に装着されたホルスターらしきものの存在は、必死に気付かないふりをした。
「あ?俺の部下共が勝手にやったことだ、知らねえよ」
「し、知らないって……じゃあ今すぐ私を帰してください!」
「それはできねえ相談だな。お前は俺らの顔を見ちまってる。万が一にでも俺らの情報を売られちゃ困るんだよ。だから処分は検討中ってとこだ」
「私はあなたが誰かもわからないし売るとかそういうつもりもありません!帰してくれさえすれば、私はっ」
「うるせえ」
なおも言い募ろうとした私を、重く低い声が遮る。
すっと細められた目に浮かぶ感情はこちらからは読み取れない。それがとても怖くて、私はびくりと身体を震わせた。
「どれだけ喚いても俺の決定は覆らない。女、生きて帰りたければ俺の機嫌を損ねないことだ」
「……っ」
――恐ろしいと、思った。
それはモンスターを前にした恐怖とはまた違うものだけれど、命の危険を感じるには充分すぎた。私は冒険者ではなく、別の世界で安穏と生きてきたただの小娘だ。護身術の心得すらない私が武器を持つ男相手に、いったい何ができよう。
俺の決定は覆らない――男はそう言った。
そこから推察されるのは、目の前の男の地位はそれなりに高いということだ。私の知らないこの場所で、彼は命令権を持つ男なのだろう。
ならば、私が今どれだけ願っても。男の許可がなければ、外にすら出られない。
(どうしたらいいんだろう……)
良い考えは浮かばない。どうすれば私は仲間のもとへ帰ることができるのだろう。
(諦めて、この人の言う通りにするしかないのかな……)
悩みながら、足元に視線を落とす。
その時、ふいに男が動く気配がした。気になって顔を上げてみると、男は部屋の出入り口を見つめ、小さくため息をついていた。
彼は何をしているのだろうか――そんな素朴な疑問を打ち消すように、開け放たれた扉の向こうから誰かが走ってくる音が聞こえてきた。徐々に大きくなってくる足音からは、その人物がかなり急いでこちらに向かっていることが窺い知れる。
「――兄様っ!」
走る勢いはそのままに、誰かが私達のいる部屋に飛び込んできた。
息を切らしたまま、私の目の前の男をきっと睨み付けるその人物は、明るめの赤茶色の髪と深緑色の目を持つ若い女の人だった。新たに現れた女性と男は、どこか似ているような気もする。
戸惑いながら二人の姿を見比べていると、いつの間にか呼吸を整えた女性がまた男を「兄様!」と呼んだ。男は面倒くさそうに表情を歪めながら、彼女の方に向き直る。
「なんだ。騒がしい」
「ええ、騒がしくもなりますわ!兄様、これはいったいどういうことですの!?」
声を荒げた女性が男に詰め寄る。男は涼しい顔でそれを受け流していた。
「あぁ?ウェティ、お前にゃ関係ねえ話だ」
「関係大ありですわ!何故このようなところに女性がおられるのです!」
「俺だって知るかよ。部下が勝手に拾ってきちまったんだから仕方ねえだろ?」
「拾った?拾った、ですって!?」
男の言葉を機に、女性の目じりが思い切り吊り上がる。彼女のことをまったく知らない私から見ても、怒りのゲージがさらに上昇したのがわかった。
「それは拾ったんではなく、攫ったというのですわ!女性は犬猫と違うんですのよ!庇護されるべき、かよわい存在なのですわ!それなのに!レオ兄様はこんな狭苦しいところに女性を閉じ込めて!それが紳士のすることですか!」
「なんだよ、別に手は挙げてねーだろ……」
「手は挙げてなくとも、この女性にとっては恐怖以外の何物でもありませんわ!かわいそうに、さぞかし怖い思いをしたことでしょう!」
――立て板に水、とはこのようなことを言うのだろうか。
男はウェティと呼ばれた女性の勢いに完全に呑まれている。彼女に兄と呼ばれていることから、二人は兄妹なのかもしれない。力関係は不明だが、今は女性の怒りの方が強いように思える。
「……まあっ!」
ぼんやりと考え事をしつつ事の成り行きを見守っていた私と、憤慨する女性の視線がばっちりと合ってしまった。女性は口に手を当てて短く声を上げると、両手で男をぐいぐい押してその場から退かそうとする。男は「おい」と女性に声をかけたが聞く耳を持たないため、彼は大きなため息をつきつつ自主的に部屋の隅まで歩いていった。
「お客様の前で感情的になってしまいましたわ……お恥ずかしい」
男が部屋の隅で壁に背をつけて腕組みをすると同時に、女性は居住まいを正し、こほんと一つ咳払いをした。
それから彼女は胸に片手を当て、ぺこりとお辞儀をしてみせる。
「愚兄とその仲間達がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
愚兄と女性が言い放った瞬間、男は顔をしかめていたけれど、彼は無言のまま。
女性に何と声をかけようか迷っているうちに、彼女はゆっくりと頭を上げ、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「随分怖い思いをされましたね。ですが申し訳ありません。すぐにここから出してさしあげますと言いたいところなのですが……愚兄の取り決めでそれは叶いません」
「そ、そうなのですか……」
顔を曇らせる私に、女性は安心させるように微笑んだ。
「でもきっと、すぐに出してくれますわ。兄に限って、無関係な善良そうな女性に無体を働くようなことはしないでしょうし。それに、ずっとこんな場所にあなたを置いておくわけにもまいりません。そうですわね、あなたは人質ではなくお客様。わたくしのお客様というのはどうでしょう!?」
「おいウェティ、お前何を勝手に」
「あら、別にかまいませんでしょう?」
さすがに口を挟む男に、女性はさらりと言ってのける。
「彼女が何も知らないのは明白ですわ。偶然彼らの密談に居合わせた、ただそれだけの話なのです。それでもすぐに解放できないのであれば、それまでは誰かが彼女の傍にいるべきでしょう。ここに同性はわたくししかいないのですから、わたくしが適任ですわ。そうでしょう?」
「………………好きにしろ」
たっぷりの沈黙の後、男が吐息とともに言葉を吐き出した。
女性はそれを確認すると、私の方に向き直り、にっこりと笑みを浮かべる。
「決まりですわ。あなたがここを出るまで、わたくしがあなたの傍におります。なるべく不自由はさせないつもりですから、安心してくださいませね」
「あ、ありがとうございます。ええっと、あなたのことは何と呼べば?」
「そうでしたわね。わたくしはウェティリカ・リレイバール。どうぞウェティとお呼びくださいませ。それからあちらの怖い顔をした男はレオニール・リレイバール。わたくしの実の兄ですの。短い間ですが、どうぞよろしくお願いいたしますね?」
女性――ウェティリカは私の両手を包み込むと、そのまま顔をじっと覗き込んできた。
「羽を怪我した小鳥さん。あなたの手に以前の傷は見当たらないようで何よりですわ。今日はどこにも怪我はありませんか?」
「……!もしかして、あなたはこの前の」
小声で紡がれたウェティリカの言葉に、私は目を見開いた。
脳裏にラウスリースでの出来事が蘇る。不注意でぶつかった相手に魔法で怪我を治してもらったことがあったけれど、それを知る彼女はその時の女性本人なのだろう。
「あの時はありがとうございました。おかげですっかり傷は消えました」
「うふふ、どういたしまして。ではあなたのお名前も教えていただけるかしら?」
まだ警戒心を解いたわけではないけれど。
まだ恐怖はすべて拭い去れないし、信頼していいのかもわからないけれど。
それでもウェティリカのおかげで、ほんの少しだけ、怖くなくなったような気がするから。
「コトハ・ミヤヅキです。コトハと呼んでください」
私はウェティリカに向かって、今日初めての笑顔を見せたのだった。




