《Rain Shed》
泣き止んだユキナによってシヲンは部屋に案内された。つい先ほどまで泣いていたユキナは、部屋に設えた台所の前に立って何かを用意している。
手伝おうか、と申し出てみたのだがやんわりと断られた。シヲン君はお客様なんですよ、と言われるままに腰を落ち着けてくつろがせてもらっていた。
手持ち無沙汰になって、部屋中を見回せば、一見奇妙な部屋の様子が眸に飛び込んできた。
シヲンたちがいる部屋は、五階建ての建築の三階の端で、十畳ほどの広さがある。部屋に置かれた家具はどれも木製で、赤・緑・青の三原色に塗装されて色彩豊かだ。
天井にぶら下がったシャンデリアに類似した照明、一方に湾曲したテーブル、幹が捩れた観賞用植物や楕円形の窓。まるで絵本の中から飛び出してきたような部屋だった。
「ほんと、見苦しいところを見せてすみません。いつもだったら、ヒューカさんかカジュマさんが応接してるんですけど、今日は留守で……」
申し訳なさそうに事情を語りながら、ユキナはお茶を注いだ二人分のマグカップを持ってきた。立ち昇る薫りはミントのようなメントール臭を含んでいる。
ユキナは片方のマグカップをシヲンの前に置くと、隣に腰を下ろした。ユキナの身体は、ソファーのようなクッション性に富んだ椅子に沈んだ。ユキナとシヲンの肩が僅かに触れる。
ユキナの言い方だと、これまで何度も彼らは訪れているようだ。その理由が気になった。
「あの男たちは何であんなにもしつこく頼み込んでたんだよ。いくらなんでも、ユキナを恐がらせるぐらい強情になるってのは、何か訳があるんだろ? 状況が切迫してるとかさ」
シヲンはマグカップを両手で持ち上げると、口をつける前に問うた。
余程の理由があるのだろう、と見当をつけてみる。部外者に気兼ねなく話せるような話題ではないかもしれない。が、ユキナは弱々しく首肯すると、話し始めた。
マグカップに口はつけず、その言葉に耳を傾ける。
「来月に迫ったタブー攻略の援助支援です。あの人たちは、石像の剛拳っていうギルドのメンバーで、ゴーレムハンドは攻略組ギルドの一つなんです。タブー攻略には、他に二つのギルドが合同参加する予定で、えっと、そのどれもがこの街では最大規模で有名どころですね。その人たちが攻略に必要な物資や資金提供を、タブー攻略に参加表明してないギルドに交渉してるんです。または、攻略に参加しろって」
なるほど、自分たちが戦うのだから物資や資金を提供しろ、というのか。
はた迷惑な話ではあるだろうが、彼らが行おうとしているタブー攻略は、しなくてはならないことだ。魔王を倒すことが、旅人である自分らに与えられた使命だ。
しかし、ユキナたちがタブー攻略に参加するつもりじゃなくて、ほっとしている自分がいた。タブー攻略は、内部状況など未知数なことばかりにも関わらず、敵陣に飛び込むようなものだ。今のところ彼女たちが死の危険に際しないことに、安堵した。
シヲンはマグカップから一口分のお茶を口に含んだ。
鼻から抜ける爽気に気持ちがスッキリする。 清涼感のある紅茶は、初めて飲む味だった。
「お茶はどうですか? この街のお茶の専門店で見つけた一つなんですけど、ペパーミントティみたいなんです。気分が悪いのを改善させる作用があるそうです。あたしはあの人たちが来るたびに飲む習慣がついちゃって」
そう言って、自嘲気味に笑うユキナは痛々しく見えた。
やはり心労などが嵩んでいるのだろう。どうにかしてあげたいところだが、その手段が思いつかない。
感情が面に出ていたらしく、ユキナはシヲンを見て微笑んだ。
「シヲン君が悩むことじゃないですよ。これはあたしたちの問題ですから……あ。そうじゃないですかぁッ、シヲン君があたしたちのギルドに……って、カジュマさんとトーマさんが認めないですね」
急に眸を輝かせたかと思えば、一気に気持ちを萎ませるユキナだった。コロコロと変わる表情に、シヲンは堪らず吹き出した。
ユキナがシヲンの挙動に慌てふためく。
「な、なんで笑うんですかぁ。あたし、何か変なこと言いました?」
「いや、表情がよく変わるなって思って」
その言葉に顔を赤くして俯いたユキナは、じっと手元のマグカップを凝視した。
「ほらまた変わった」
「シヲン君は意地悪です」
恨めしそうな目でシヲンを一瞥したユキナは、それからは黙々と紅茶を飲むことに没頭した。無理にシヲンと顔を合わせないようにしているようだった。
話し声のなくなった部屋には、時間を刻む時計の音がひきりなしに響いていた。
チクチクとリズミカルに続く音は、心を和ませ落ち着かせる。
音の発信源を探したシヲンは、壁に掛けられた額縁の中に風変わりな絵が描かれているのを見つけた。
一つ目が泪を零しているイラストだ。その横に綴られたゴシック体は、《Rain Shed》。意味は何だろうか、そんなことをふと考えた。
シヲンが見ているものに気づいたユキナが、微笑を浮かべた顔で説明を始めた。
「あたしたちのギルドの紋章のデザインと、ギルド名なんです。レインシェッド、流れる泪って意味で付いたみたいです。あたしが泣き虫だから、カジュマさんが考えたんですよ。泣いてりゃ良いこともあるさ、って言われました」
「泣いてりゃ良いこともあるさ、か。その通りかもな」
その後も時間が過ぎるのを忘れてシヲンとユキナは、今までの出来事について語り合った。シヲンを残して出発したユキナたちは、ヒューカが高所恐怖症で例の吊橋を渡るのに半日かかったといった、笑い話を二人して続けた。
シヲンはこの時間が何よりもかけがえのないものだと感じた。何一つ気後れすることない会話が出来る相手の存在に感謝さえしていた。
どれほど会話を続けていただろうか。
「さてと、そろそろ俺は撤退するかな。うっわ、結構時間が経ってる。逢えて良かった、ユキナ」
絵画の隣に掛けられた時計が、既に夕刻であることを示していた。少しばかり長居をし過ぎたかもしれない。席を立つと、ユキナに別れを告げる。
「暫くは街に居るんですよね?」
ユキナの期待する視線を受けて、今回は罪悪感抜きで頷けた。
「うん、そのつもり。さてと、これっから宿探しかなー。まぁ、近いうちに逢おうな」
そう言い残して、シヲンは部屋のドアノブに手をかけたところで、近づいてくる足音に気づいた。早足でシヲンとユキナの居る部屋へと近づいてくる。
足音の大きさと間隔で、相手が男だと分かった。脳裏にバンダナ男、カジュマの顔がよぎる。死神であるシヲンに対して、嫌悪感を露骨に表した表情。思い出して足が竦んだ。
どうしようもなく自分は臆病なのかもしれない。それでもいい、と思った。
後ろでユキナが顔を青くして慌てふためいている。
「大変、カジュマさんが帰ってきちゃったみたいです。シヲン君が見つかるわけには行かないですし、あわわわわ」
「顔を合わせたくないな……。仕方ないか、非常用出口を借りるよ」
ユキナの脇をすり抜けると、部屋の窓に駆け寄って開け放った。楕円形をした窓だったため、素直に開いてくれるか心配だったが、それは杞憂だったようだ。部屋の中に吹き込む風に、カーテンが大きく膨らんだ。
頬を撫でる風が夜の冷気を含み始めていた。
「危ないですよッ」
「じゃな、ユキナ。みんなと頑張れよ」
シヲンは窓枠に足をかけずに飛び越えると、暮れなずみだした街並みへと飛び出した。
三階からの飛び降りは身の毛がよだつほどだったが、着地時の怪我は心配じゃなかった。本能的に飛べる予感がしていた。
急速に迫るのは石畳が綺麗に敷き詰められた地面。膝を曲げることで衝撃を和らげると、怪我なく地面に着地した。やはり死神と吸血鬼としての身体能力の向上は侮れない。短く息をつくと、今さっき飛び出した窓を見上げる。
窓辺で下を覗き込むユキナが安堵して、泣きそうな表情を浮かべていた。怪我をしないか心配だったのだろう。心配をかけたことに、ごめんと呟いてシヲンは踵を返した。
そろそろ足音の主が部屋に踏み込む頃だ、見つかるわけにはいかなかった。
自分の職業がいつまでも枷となって、旅人同士の人間関係は上手くいく気配がない。最大のネックは、やはり死神の事実だろう。
シヲンは一人溜息をついて、仕事帰りで賑わう街中へと紛れ込んでいった。
「行っちゃったな……。また、逢えるよね」
部屋に残されたユキナは哀愁が滲む顔色で、シヲンが消えた街並みを窓辺から眺めていた。
唐突に背後で、勢いよくドアが開かれた。案の定、入ってきた人物はギルドリーダーであるカジュマだった。
赤い下地に紫のチェック柄のバンダナがまず目につく。その下には日に焼けた浅黒い肌とこけた頬の顔がある。向こう側では、工事現場の作業関係を務めていたらしい。そのおかげで腕っ節だけは自慢できる、と言っていた。
カジュマは、ここまで急いできたらしく、息が荒々しかった。暫く肩で息を続けたあと、ユキナの姿を確認したカジュマは勢いよく口を開いた。
「おい、大丈夫かぁッ、ユキナ。石像の奴らが囲んでたって聞いたぞ」
カジュマの慌てぶりにユキナは苦笑いしつつ、窓を閉めた。ガラス越しに見えた景色に、あの黒服姿はもう見当たらない。彼が同じギルドに入ってくれればどれほど嬉しいことか。小さく溜息を吐いて、ユキナは部屋の中央に視線を戻した。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。よくあることですし、あたしも対応に慣れましたから」
「ホントわりぃな。もう少し早く戻るつもりだったんだけどな。すまねぇ、オレがかたくなに拒んでるせいで、お前をつらい目に合わせちまってる」
「どっちにしろ、あの人たちが来ることは避けられなかったと思いますよ。参加するにしろ、物資を提供するにしろ」
「そうかもな。まぁ、なんだ。気分が悪くなったら、オレやヒューカに相談しろよ。トーマの野郎は使えねぇからなぁ。あとはな……悪かったな、ホント。ユキナはアイツのことが忘れられねぇんだろ?」
カジュマが眉を下げて視線を余所に向けて口にした。出会った当初であれば、到底考えられないことだったが、カジュマはギルドメンバーのことを第一に考えている。
最近では、ユキナの表情が晴れない理由が、シヲンに起因していることを理解して、彼の中でも心境の変化が起きているのかもしれない。
それでも、まだまだ彼がシヲンを受け入れる日は遠そうだが。
「居なくても寂しくない、と言えば嘘ですけど……でもあたしはもう弱虫でも泣き虫でもないです。それにギルドのみんながいますし」
「泣き虫は変わんねぇだろ。オメェの目元は真っ赤だぞ。それにギルドのみんなっつっても、全員で四人だけどな。石像の剛拳や深緑騎士団の奴らはざっと三〇人近くだろ。規模がちげぇよな」
ふてくされた様子のカジュマに対し、ユキナは首を激しく左右に振った。
「あたしは泣いてないですよッ。それと、あたしたちは少数でもそこそこ有名ですよ。それもカジュマさんやヒューカさんのおかげです」
ユキナたちが所属するギルド《レイン・シェッド》は、地道な宣伝活動や周辺地域の魔物退治によって、結成当初から急速に名を知らしめていた。
スムーザの街の住民の間にその名前はすでに浸透している。地域との密接な関係を築くことに成功を収めていた。
知名度がそこそこで、メンバーが腕に自身があるのであれば、タブー攻略の誘いが執拗なのも頷ける要因だった。
その立役者はリーダーのカジュマとサブリーダーであるヒューカの存在だろう。
二人がいたおかげで《レイン・シェッド》はギルドとして成長し、ユキナの居場所になっていた。しかし、実のところこのギルドは存続の危機の瀬戸際に立たされている。理由は一つ、スムーザの街最大規模のギルドの要求をはねのけ続けているからだった。
実際に反抗したために潰されたギルドもある、という噂だ。メンバーがどうなったのかまでは知らない。
「奴さんらが脳筋連中なだけだろ。ちょっと頭を使えば魔物だって人間だって、簡単にひねり潰せる。まぁ、あいつらがオレをただの剣士だと思ってるのもあるけどな」
カジュマが愉悦の笑みを口端に湛えて、くっくっと声を押し殺して腹を揺すった。ユキナは呆れ半分の顔で溜息をついた。
《レイン・シェッド》ギルドリーダー、カジュマの職業は【剣闘士】だ。
カジュマの出で立ちが、夜盗と化した剣士の姿のために多くの人間が彼を剣士と誤認する。剣士は剣術しか使えない打撃系ジョブのため、相手は油断してしまうのだ。彼が魔法を使えるとは知らずに。
「それも長くは続かないですよ。誰かがおかしいことに気づきますよ?」
「気づいても対処のしようがないだろ。オレ自身も、剣闘士の能力を把握しきれてねぇんだぜ?」
「とりあえず分かってるのは、多様な状態異常魔法を使用出来るってことですよね。てか、ちゃんと把握してくださいよ、カジュマさん」
「へいへい、任せとけ──」
ユキナとカジュマが会話する最中、部屋のドアが再度開け放たれた。二人は会話を切り上げて、開いたドアの向こうで息を切らした女性を見た。
肩が上下する度にポニーテールが左右に揺れている。黒縁の眼鏡がずりおち、かろうじて鼻先に引っかかっている状態だった。
カジュマと同じようにここまで全力疾走してきたらしい。
「んな慌ててどうしたヒューカ? アイツらならオレが来たときにはいなかっ──」
「そのことなのよッ。ユキナ、何が起きたの? 石像の幹部三人が大慌てで逃げてくって、巷ではすごい話題になってるわよ。しかも三人のうち二人は気絶してたって。ユキナじゃ戦闘能力はないから、誰かがやったんでしょうけど……。ユキナ、あなたなら知ってるわよね。うちはユキナたちが言い争ってたって聞いて、急いできたのよ」
ヒューカが早口でまくし立て、カジュマは思わず身体を仰け反らせた。ユキナもヒューカの問い詰めるような態度に後退っていた。今日のヒューカはどことなく恐い。
「えっと、通りすがりの……方でした、よ?」
「ユキナって、ホントに嘘つくのが下手よね。ちょっと強気に問いただすと、簡単に表情に出るものの」
「そんなッ」
慌ててユキナは自分の顔をペタペタと触れた。冷たい掌に頬の温かさがじんわりと伝わった。
それを見てヒューカとカジュマが揃って腹をよじった。心底おかしい、といった風に笑いを続ける二人。
「あはは、そんなの嘘に決まってるじゃない」
「鎌かけたんですね?!」
「うん、そうよ。ユキナは可愛いわね、やっぱ。それで、ユキナのピンチに駆けつけた騎士は誰だったのかしら?」
「ヒューカさん、絶対分かってますよね?」
ユキナの問いにヒューカは知らぬ顔を作って首を傾げる。すごくわざとらしい。白々しいヒューカの動作で、ユキナは確信した。
シヲンが一週間後にスムーザに来ることを、ヒューカは知っている。嬉々としてその事を話したのだから。予定が前倒しになったと考えられても仕方がない。
「もしかして、あいつか? あいつが来たのか」
隣で手を叩く音がした。カジュマさえも感づいてしまったらしい。
ユキナはどうしようもなくいたたまれない気分になった。
きっとカジュマはシヲンを拒絶してしまうだろう。頼れる仲間となったカジュマから、シヲンを拒絶する言葉を聞くのは耐え難かった。この場から逃げ出したい、と思った。
ふと視界に映り込むヒューカが余裕の笑みを浮かべていた。全てを手玉にとったように誇る顔のように見えた。
「全身黒ずくめの少年だったっていう目撃情報があるもの。それとユキナの表情を見たら確信したわ。それで、うちからの提案があるのよ。シヲンをうちらの仲間に入れないかしら? 実力は確かでしょ。石像の三銃士を力で負かすくらいよ。……まぁ、判断はカジュマに任せるわよ」
「……………………」
ヒューカの問いかけにカジュマは無言だった。
固く険しい表情で、考え込んでいた。顎に手を当てて、唸り声を上げている。
この時間はユキナにとって、非常に永く感じられた。生唾を飲み込んで、カジュマの言葉を待つ。本当ならば逃げ出したかったが、出口はヒューカに塞がれてしまっていた。
視線の先で、カジュマの口がおもむろに動いた。
「……トーマの意見も聞きたい。あいつに良い印象を与えてねぇのは、トーマの野郎もおんなじだ」
「僕だったら賛成だよ」
ドアの前に立つヒューカの背後から、栗色の髪をした青年剣士が現れた。青年の名は山越冬馬。向こうの世界では大学三年だった、と聞いた。彼女いない歴=年齢、というどうでもいいことも話された気がする。いや、どうでもよくはないか。
その話をヒューカに一蹴されたトーマはその日一日を部屋に篭りっぱなしだった。
トーマはカジュマの前に立つと苦く笑った。後ろ髪を掻き乱して、腹心を全て吐き出すように話し出した。
「あれからちょっと後悔してたんだよ。アッシュの村を出るときに、村の住人は見送りに出てきたけど、彼はいなかったよね。それで気を使ったんだなって思ってさ。やっぱり大人げなかったかなって、後でいたたまれなくなっちゃって。
死神が職業でも、一番に大事なのは、その人間自身だと思うんだ。だから、僕は賛成する。シヲンを迎え入れることにね。それに、そんなに強いなら手合わせを願いたいしね」
「えらく饒舌だったな、トーマ。はぁー、全く調子のいい奴だなオメェも。ったく、オレもどうしようもない性格だぜ。わーっかったッ。あいつを迎えてやろう。オレも、ちと良心が痛でたんだ」
トーマの言葉に背中を押されるように、カジュマも首を縦に振った。
カジュマ自身も本当は素直に頷いていたかったのだった。しかし、皆の前でシヲンに対して敵意を剥き出した態度をとり続けたため、引っ込みどころがつかなくなっていた。
「全く初めから素直になってればよかったのよ。そうすればユキナ寂しい思いをしなくてすんだのに」
ヒューカの責める口調に、珍しくカジュマは首を竦めていた。
「おう、悪かったな。んじゃ、あれだな。ちゃっちゃとシヲンを連れてくるかって、あいつはどこにいったんだ?」
「分かんないです。シヲン君はこれから宿探しって言ってました」
「まじか……。トーマ、ユキナを連れて街を捜索しろッ。ヒューカも別行動で行けッ。多分、他の連中もシヲンを捜してるだろうな。即戦力になるなら尚更だろ」
ヒューカたちが部屋から飛び出すのを見て、ユキナは慌てて彼らを呼び止めた。
ユキナは、手分けして捜索するよりも手っ取り早い方法を知っていた。
「あの、あたし……シヲン君を登録してます」
ユキナは首元に吊るしたマナクリスタルを取り出して見せた。
橙色に煌く水晶に息を吹きかけると、水晶から映像が飛び出し、シヲンという名前を皆の眸に映し出した。
*
茜空の美しさが目に沁みた。
地平線に沈みかける陽光の色が、空を雲をスムーザの街全体を深い紫色に染め上げようとしていた。この世界に来て、何度感動しただろう。そして、何度溜息をついただろう。
最後の残照によって、濃紺と朱色に輝く街並みの中、シヲンは何故か疲れた表情を浮かべていた。右手には串に肉や野菜を刺した食べ物を持ち、時折それを頬張っている。
全身から疲労困憊な様子がありありと伝わっていた。
──宿を探す暇がなかった……。なにがどうしてこうなったッ。
シヲンは串に残った肉をすべて食すと、眼下を見下ろした。石畳の上を駆け回る人影が散見できる。彼らの狙いはシヲンの身柄の確保らしい。その理由を聞く暇も与えられず、逃亡を余儀なくされた。
今現在、シヲンがいるのは三階建ての赤レンガの建築の三階ベランダだ。外に設置された非常用階段を駆け上がって、なんとか追手を振り切ったところだった。
そう、追手だ。
ユキナに絡んでいた三人衆が可愛く思えるくらいの、明らかに堅気じゃない連中や全身鎧の完全武装の騎士団に追われていた。捕まったら最期、というのが冗談に聞こえないほどに恐ろしい。
幸いだったのは、シヲンの戦闘能力が彼らを凌駕していたことか。
ガイアスのやり方に賛同するわけではないが、確かに魔物との戦闘訓練は実戦に役立っていた。と言っても、毎度のようにシヲンが相手の攻撃を躱していただけだ。おかげで無傷だったが、さすがに長時間の逃走劇は心身に堪えた。どれくらいの時間を逃げていたのかは分からないが、酷く永く感じた。
とりあえず、夜になって街に闇が蔓延るのをこの場所で待つことにしよう。
夜目の利く人間でも、暗闇の中で人の顔を識別するのは難しいだろう。全身黒ずくめでフードを被ってしまえば尚のこと。
というわけで、シヲンは一人で人様のベランダに潜伏していた。この三階建てからして明らかに豪邸の建築で、庭には手入れの行き届いた植木などが見える。家の主に発見された場合、強盗と間違えられそうで恐い。では早く移動すべきだ、と思ったのだが、捜索人数が増えてしまったため、下手に動けなくなっていた。
このままだと、不法侵入したベランダで一晩を過ごさなければいけなくなるのではないか。まんざら冗談に思えない。
「何か、不憫な自分に泣けてくる……」
今晩の宿をどうするかよりも、この状況をどう打開すべきか本気で悩んでいた。そして、何一つ妙案が浮かばなかった。どこからか救いの手がないものだろうか。
最後の神頼みをしていたシヲンの願いは誰かに届いたらしい。
「どなたですか。あれ? 確か、シヲンさんでしたか?」
凛とした声に後ろを向けば、そこには夕陽に髪を朱く染めた天使がいた。
マナクリスタルの守り手である少女、イムカだった。
精巧に造りこまれた人形のように、現実離れした美貌のイムカはその端正な面貌に悩ましげな感情を浮かべる。
大方、シヲンがここにいる理由が分からない、といったところか。
だが、シヲンにとっては、イムカが窓の向こう側にいることが理解出来なかった。
「えっと、イムカさん?」
「さん付けじゃなくていいですよ?」
「それじゃあ、イムカ。どうしてここに?」
疑問符を互いに浮かべながらの会話が続けられる。
シヲンの疑問に、イムカは乾いた笑いを漏らした。少しばかり恥ずかしがるような雰囲気があった。
「──ここは私の家ですから」
シヲンはその言葉にぽかーんと口を開けていた。
ここが私の家だ、と言ったイムカは偽りのない、真摯な眸をしていた。が、さすがに信じられそうになかった。
シヲンがいる場所は、三階建ての豪邸だ。赤レンガ造りの建築は、各所が精緻に造りこまれている。ドアノブを見たとき、そこには荘厳な龍の図柄が描かれていた。
築数一〇年は経過しているであろう建造物は、由緒のある出で立ちだった。
イムカが住んでいることが驚き、というよりも、こんな豪邸に人が住んでいることから驚愕だった。これほどまでの豪邸を直に見る機会など今までなく、その非現実的な豪奢な佇まいに、住居という事実が理解の範疇を超えてしまった。
「この建物がイムカの家? 三階建てのこの建築が?」
「はい。守り人となった、曾祖父の代に建造された住居で、私の家です。って、え?!」
我知らずシヲンは頭を下げていた。
この建物がイムカの住んでいる場所だと理解するよりも早かった。
「匿まってくださいッ!!」
「えぇッ!?」
可憐な驚きの声が夕暮れのベランダに反響した。
その余韻が消えるまで、次の言葉が発せられることはなかった。
*
「どうぞ、そこのソファに掛けていてください」
室内への入室許可を得たシヲンは、イムカに指示されるままに純色の黒のソファに腰を落ち着けた。座り心地のいいソファに身体が沈みこんだ。
室内は建物の外見に見合った、年代を感じさせる気品ある様式だった。ウォールナットの床は丁寧に磨かれていて、照明の光を盛んに反射している。
シックな家具はどれもこれも高級感を放ち、非の打ち所がないほどに整頓されている。
見るのも畏れ多い室内の様子に、シヲンは戦慄していた。
ソファに座ったのはいいが、それから何も動けずに固まってしまった。
そんなシヲンの様子を見て、柔らかい笑みを浮かべるイムカに視線は釘付けにされた。
「そんなにかしこまらなくていいんですよ? でも、気持ちは分かりますけどね。私も最初この家に来たときは、建物内に入ってから身動きが取れなくなりましたから」
「っていうと、ここに移り住んできたんだ?」
「そうですね。祖父が亡くなってから、父と二人でこちらにきました。母は私が生まれてまもなく亡くなっていましたから、私はずっと父に育てられてたんです。そんな父は今、病床についてしまって、一人娘の私が正式に守人になりました」
そう言いながら、だんだんと表情を翳らせていくイムカに、シヲンは咄嗟に別の話題を振った。先代の父の跡を継いだ、という話を小耳に挿んでいたが、まさか病体だとは思わなかった。
シヲンがイムカに振った話題は、逃走経路についてだ。
人目につかないように逃げるのにイイ手はないか、そんな要望を伝えた。
イムカは口元に手を当てて考え込むと、眉根を暗くした。すぐにハッと名案を閃いたような顔で、シヲンを凝視した。
「えっと、何か閃いた?」
おずおずと尋ねれば、イムカは首を傾げつつ口を開けた。
「案ではないのですけど、シヲンさんのマナクリスタルが点灯してます」
その言葉に視線を落とせば、首元に吊るした水晶がシャツの下で青紫色の輝きを放っていた。急いで取り出すと、淡い光が部屋中に溢れた。
シヲンと会話が出来る相手は一人しかいない。
気恥ずかしさを覚えなくなった水晶への口付けで、相手との会話が繋がった。水晶越しに聞こえてきた声は切羽詰っているようだった。
『シヲン君、無事ですか!?』
早々に不穏な気配を窺わせる言葉が飛び出してきた。何となく察しがついた。きっとここまで追跡してきた連中に関係していることだろう。
「無事だよ。今はイムカさんの自宅に匿まってもらってる」
『イムカちゃんの家にいるんですか!? ──ヒューカさん、中央区の方らしいです。イムカちゃんの家みたいですよ。それじゃあ、今から迎えに行くんで待機しててもらえますか?』
「あれ、ユキナってイムカと仲がいいのか? イムカって、あのイムカ様だぞ」
先ほどの会話の流れだと、まるで友人関係だった。ユキナはイムカのことを『ちゃん』付けで呼んでいた。
「もしかして、相手はユキナさんですか。こちらに来るのですね。それでは、私は出迎えの準備をした方がいいですね」
「イムカ、ユキナと友達なのか?」
『「友達ですよ?」』
ユキナとイムカの言葉が恐ろしいほど見事に重なった。
「………………」
シヲンは尻込みしつつ頷くと、部屋を出て行くイムカを見送り、ユキナとの会話を切り上げた。ここに来て思い至るのは、ユキナが来たところで現状の打開が出来るのか、ということだった。一抹の不安が胸の中に靄となって、居ても立ってもいられない気持ちにさせた。
結論から言ってしまおう。
心配は無用だった。
イムカ邸に現れたのは、ユキナを筆頭に《レイン・シェッド》の全メンバーだった。
バンダナ男と青年剣士の二人が非常に気まずそうにしている横では、ヒューカが歓声を上げていた。シヲンと久しぶりに出逢えたことが感激らしい。
シヲンはそんなヒューカの態度に辟易したが、男衆の姿を視界に映すたびに身体が勝手に身構えてしまう。いつどんな罵倒が飛び出してもいいように、心の準備を整えていた。
気持ちの整理を付けたらしい青年剣士がまず、先陣を切って話し始めた。
「ホント、すみませんでしたッ。シヲン、僕が君にとった態度を赦してください」
最初に口から吐き出されたのは謝罪の言葉だった。
あまりのことに唖然として、シヲンはなんて返せばいいのか、返答に困り果てた。
当惑したシヲンに助け舟を出したのはヒューカだった。
「この男連中、シヲンに冷たい態度をとったことを今更後悔してるのよ。あの時のことは本当に申し訳ないと思ってるみたい。出来れば赦してもらえないかしら? シヲンにつらい思いをさせたのは事実でしょうけど、これから良好な関係を築いていきたいのよ。ほら、カジュマも早く言いなさいよ」
ヒューカに急かされるように一歩前に進み出てきたのはバンダナを巻いた男。初めて出逢った頃のような、刺々しさが視線に含まれていないように思えた。
彼が自責の念に駆られていることが、全身から伝わってきた。あまりの変わり様に、シヲンの中で彼らに対する感情が揺れ動いた。
「……本当にすまなかった。オレはろくにお前のことを考えずに、ただ死神だと聞いて毛嫌いしちまった。本当に大事なんは、その人間の中身の方だって分かってたのに、オレはシヲンを拒絶しちまってた。本当に申し訳なかった」
「………………」
この二週間ほどの間に何があったのか分からないが、確かに彼らの中に宿っていたシヲンに対する嫌悪感が和らいでいる気がした。
先ほどからずっと対峙していても苦だと感じなかった。
気付けばシヲンは首を縦に振っていた。
「赦しますよ。そんな風に謝られたなら、赦しますよ。まぁ、いきなり嫌悪感を露骨にされたのは未だに根にもってますけど。でも、この場ではそんなことは忘れておきます。そんな頭を下げてないで、面を上げちゃっていいですよ。もう赦しますから」
「いいのか? 本当に?」
念を押して確認してくるカジュマに頷き返すと、彼は長々と息を吐き出して脱力した。シヲンに謝罪の言葉を告げるだけに、相当気を張っていたらしい。
ヒューカがシヲンとカジュマの両者の間に割り込むと、彼女は首に吊るしていた水晶を取り出してみせた。
「それじゃあシヲン。カジュマとトーマの謝罪が終わったところで悪いけど、あなたに一つ提案があるわ。うちらの仲間に入らないかしら? つまりはギルド、レイン・シェッドのメンバーに正式加入しないかって誘いなのだけど」
トントン拍子に進む話に追いついていくのがやっとなシヲンは、それでも首を縦に振るだけの余裕があった。横に振るつもりは微塵もなかった。
アッシュの村では受け入れられなかった誘いを、今回ばかりは素直に受け取れた。
カジュマたちが改心したことで居づらさのなくなった環境は、シヲンにとってはまたとない居場所であった。
「それじゃあ、みんなクリスタルを出して。それぞれ登録しましょ。最後にカジュマがシヲンをメンバー登録しなさいよ」
ヒューカの言葉で、ユキナを除いた三人が各々のマナクリスタルを取り出した。
ヒューカは水色の歪な星型の水晶だ。
「改めて、よろしくね。シヲン」
シヲンが取り出した青紫色で十字架の水晶と接触して、互いに光を宿す。友人欄に【ヒューカ】の名前が追加されていた。
次に進みでたのはトーマという名の、青年剣士だった。栗色の髪を掻きながら、トーマは申し訳なさそうな顔のままに、右手に握る水晶を伸ばしてきた。
真紅の楕円形をした水晶だった。宝石のルビーを連想させた。
「僕の名前は、山越冬馬。んで、こっちじゃトーマって名前だよ。よろしくな、シヲン」
【トーマ】の名前が新たに追加されて、ヒューカの下に並んだ。
「トーマ:Job.【剣士】
Weapon.【カットラス】剣」
トーマはやはり職業が剣士だったようだ。腰に下げている湾曲した刀剣の名前がカットラスというらしい。ゲームの中では見覚えのある形だったが、実物は初めてだった。
「こちらこそよろしく、トーマ」
「言っておくけど、俺は22歳だからな」
「うん、分かった。よろしくな、トーマ」
「………………」
栗色の髪の青年は、年上なのは違いないが同年代のような親しみやすさを感じさせた。
髪の間に覗いている人懐こそうな眸がそれを際立たせているため、幾ら先輩面されたところで、シヲンにはタメ口を直すつもりはない。
諦めたらしいトーマが身を引くと、入れ替わってカジュマが進み出た。
「水に流してくれ、とは言わねぇ。嫌われたままでもいい。けどな、ユキナを悲しませないでくれ。それだけお願いする。んじゃ、ほら」
カジュマが見せたのは黄色の長方形の水晶。
互いのマナクリスタルが接触した途端、火花が散って視界を白く染めた。いきなりのことにシヲンは驚きの声も出せなかった。カジュマの方は、幾分かショックが小さかったようだ。
「毎度毎度、心臓にワリィぞ、これ。ったく、悪かったなシヲン。それでお前は正式にレイン・シェッドのメンバーに登録されてるはずだ」
カジュマが言っている正体を確認するために、映像を表示させてみる。
「カジュマ:Job.【剣闘士】
Weapon.【ロングソード】剣
Ability.【アブノーマリティ】」
カジュマの名前が友人欄に増えていて、シヲンの個人情報欄の一部に項目が足されていた。【所属ギルド】:《レイン・シェッド》という文字と紋章である一つ目の図柄が表示されていた。
「シヲン君、おめでとうッ。よかったぁ~、ほんとよかった」
半泣きのユキナがシヲンに抱きついた。
それを温かく見守る面々。
シヲンは気恥ずかしさに赤らめた顔を伏せた。
ユキナが抱きついてきたのがかえって良かったのかもしれない。恥ずかしさが勝って、眸の奥の熱い感情が引っ込んでくれた。
その後、無事にギルド本部である五階建ての建築に辿り着いた五人は、そこで改めてシヲンの歓迎会を執り行なった。
後日には、イムカからの祝いの品まで届けられた。
この日、シヲンはかけがえのない居場所を手にした。
全てが順風満帆に進み始めたかのように思えた。
簡単に解れてしまうような脆い関係であり、いつまでも守り続けたい居場所だった。
願わくば、この関係がいつまでも続きますように。
そう祈った。
カジュマ:Job.【剣闘士】
Weapon.【ロングソード】剣
Ability.【アブノーマリティ】
マナクリスタル:黄色 長方形
トーマ:Job.【剣士】
Weapon.【カットラス】剣
マナクリスタル:赤色 楕円形
ギルド:レイン・シェッド
次話で話が大きく動くかもしれない。