《Fast End》
イラストを差し替えました……。
身体が冷たい。
感じ取れる感覚はそれだけだった。不思議と痛みはなかった。
横に倒された身体は鉛のように重く、身動ぎさえ出来そうにない。
アスファルトの歪な表面が目の前にあり、息を吐くたびにその上から砂が飛んでいく。
視線の先で、次第に拡がっていく赤い水溜りは、街灯の明かりを反射して妖しく光っている。それが拡がっていくほどに身体から反比例に熱が奪われていくようだった。
周囲で騒々しく人々が駆け回り、悲鳴を上げている。大丈夫か、しっかりしろ、そんな声がどこか遠くから響くようで酷く間延びされて聞こえた。
それに答えようとしたが、あいにく声が出せなかった。空気が漏れ出るような、くぐもった呻き声のようなものしか出なかった。
「お願い、しっかりしてよ。ねぇ、お礼はするから。私を助けて死なないでよ」
必死に懇願して咽ぶ声が頭上から聞こえ、横目で視線を上げた。そこには目元を赤く腫らした少女の顔があった。色素の薄い茶髪が少女の身体の震えに合わせて揺れる。少年が助けた少女は、この世で最も不幸だと言いたそうに泣いていた。
泣かないでよ、と言えたらいいのにと思う。声を発しようと無闇に空気を吐き出すことを諦め、動かせる左腕を少女に伸ばす。
少女は一旦泣くのを中断すると、少年が伸ばした手をとった。
遠くからサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。もう少しで救急車が到着するだろう。でも今欲しいのは、少女に思いを告げる方法。
──泣かないでよ。君を助けようと決めたのは、俺の勝手だからさ。
言葉に出来ない思いはきっと通じないだろう。何とか思いを告げたいと考えるが、その思考を妨害するように睡魔が襲い掛かってくる。寝ては駄目だと理解しても耐え切れそうにない。
最後に少女に言いたかった。
ありがとう、と。こんな自分のために泣いてくれてありがとう、と。
重くなった目蓋に抵抗を続けたが、結局負けて視界を黒く閉ざした。意識が途切れる寸前、感じ取れる感覚が増えていることに気がついた。
少女に握られた左手が仄かな温かさを宿していた。
これが榛原紫苑としての最後の記憶。
いや、地球の日本人の一般高校生である榛原紫苑としての最後の記憶だった。
*
少女のような顔立ちが嫌だと思うようになったのは、物心が付き始めた小学六年の頃。
その見た目と中学を卒業する頃になっても一五〇センチ前半という身長があいまって、高校生になってからもよく二つ下の妹と姉妹に間違えられた。大概は紫苑が妹役。
運動神経は別段悪くなく、どちらかと言えばいい方だといえた。実際、クラス対抗リレーでは決まって選手に選ばれ、球技においてもバスケを除けば概ね上々だった。
人付き合いは苦手ではなかったが、自分から話しかけるタイプではなかった。相手の話を聞く側に徹することの方が多勢を占めた。
あまり人に付き纏わず、どちらかと言えば一人の方が落ち着けた。自然と人との距離をつくり、深く入り込まない関係を維持しようとした。その距離感が居心地がいいと言われ、気付けば周囲は友達で溢れかえっていた。
クラスの女子からは恋愛対象ではなく、可愛い弟という存在として扱われた。それを他の男子生徒は仕方ないと言って茶化した。
榛原紫苑の日常は恵まれていたといえる。自然と出来ていた環境は、紫苑にとっても居心地のいい世界となっていた。
ただし、両親はいない。──────日本に。
アメリカでベンチャー企業を起こし成功を収め、忙しい毎日を過ごしている。両親からの仕送りのおかげで、妹である榛原薫と二人で生活していた。両親がいなくなった家に二人で。もし、そこで紫苑がいなくなれば、彼女は一人になるのだろうか。
それが紫苑の気がかりでもあった。
*
「ほれ、いつまで寝とるんじゃ。そろそろ起きんか」
しゃがれた声が紫苑の鼓膜を揺らし、その眠りを妨げた。
紫苑は思わず跳ね起きると、声の主を探して首を左右に振った。と、そこで異様な光景が視界に飛び込み、我も忘れて口を閉じることも忘れた。
紫苑がいる場所は、まるで何十年も前に放置された広場のような空間だった。周囲には梢が見通せない巨木が幾つも生えており、その幹の太さは直径だけで一〇メートルはあるように思える。大蛇のようにのたくった木の根は、互いに絡み合って巨大なアーチを成している。
その手前では、土台から倒れ落ちた石像が原型を止めぬ程度に砕かれていた。足元には芝生に似た植物が一面を覆い、巨木で囲まれた広場のようなこの空間を満たしていた。
と、そこで声の主の存在に気がついた。
視線を下に向けたおかげで視界に映り込んだのは、紫苑の膝の高さ程度しかない身長の老人。頭に白いシルクハットのような山の高い帽子を載せ、その身長をゆうに超えた白髭を三つ編みにして、まるでマフラーのように首に巻いている。耳朶が異様に大きく顎の方にまで垂れ下がり、落ちた目尻で常に笑っているようにも見える。痩躯の身に纏うのは紅白の装束で、裾が大きく広がった形をしていた。
「儂の顔に何かついとるかの?」
顔というよりは身体全体が気になります、とは言えない。顔を見ただけで全身が視界に飛び込むような人間を見るのは初めてだ。それよりも、この老人が果たして人間なのかも怪しいところだった。純白の眉毛と髭を蓄えた顔は、例えるならば犬に似ている。
ふいに紫苑の脳裏を駆け抜けた映像に怖気が走った。
ガードレールに突っ込んだトラックと歩道で倒れたままの人影。その傍らに座り込んで泣き続ける少女の姿。
確かに自分の記憶であったと、紫苑は今更ながらに慌てて自分の身体を見下ろした。
いつの間に着替えたのか、着ている服は肌触りのいい寝巻きのような上下ともに藍色の長袖の服だった。足は何も履かず素足のまま。身体中どこを見ても傷など存在せず、痛みさえもなかった。
ふと左手に視線を落とした。最後に少女が掴んでくれた手には、彼女の温もりは残っていなかった。
「向こう側の身体とこっちの身体はまったくの別物じゃからな。気にするな、少年」
紫苑の様子に笑みを零した老人が足元から言葉をかけた。
告げられた言葉に疑問を感じ、紫苑は老人を見下ろす形で質問した。
「向こうとこっちって、どういうことですか? ここってどこなんですか」
少なくとも地球でないことぐらいは理解出来た。いかに世界広しと言われても、これほどの巨木があるとは思えず、またこのような矮小な人間がいるとも考えられなかった。
まさかここは天国か、そんなことも考えたが、さすがにそんなことはないと却下した。
「うーんとな、儂らがおるのは、アナザーワールドという世界じゃな。いや、オヌシらの言葉でいけば、別の惑星か」
そう言うと顎をさすって唸り始める老人を尻目に、紫苑は思考した。
つまりは異世界と呼ばれる場所なのだろうか。死んだからこっちに飛ばされたのだろうか、そんな考えを繰り返したところで納得のいく答えはでない。
「器は違うんじゃが、魂だけは同じじゃ。あちら側とこちら側の命は共有されとる。向こうのオヌシの身体はまだ死んではおらんよ」
指を鳴らした老人の手元に突如、板が出現した。なんのトリックだろうかと目を瞠る紫苑の目の前で、老人は新たに紙とペンを取り出すと何やら書き込み始めた。
「とりあえず、自己紹介がまだじゃったな。儂の名前はエスペルナーデ・ガパルチョク・ディスターナ。長いんで、エスペル導師とでも呼んでくれ。それじゃあオヌシの名前は?」
「えっと、榛原紫苑です」
矮小な老人であるエスペルは、紙に《シヲン》と書き込んだ。
「あの、ヲが違います。あいうえおのオです」
「あいうえおが分からん。発音は似たようなもんじゃから平気じゃろ。では、この紙に書かれた質問に答えてくれ」
あぁそうですか、と紫苑は諦めて、押し付けられるようにして渡された紙の項目を目で追った。年齢から始まって、好き嫌いな食べ物などもあり、好きな数字や髭を伸ばすか伸ばさないかといった質問まであった。いくつか頭を悩ます質問もあったが、髭は伸ばさない、そこは即答した。
暫くペン先が紙の上を走る音が場を満たしていた。
紫苑は埋め終えた項目欄を一通り見直すと、その紙を老人の元に返した。
老人はその内容に目を通すと、満足そうに頷く。
「よしよし、運動神経が良さげじゃな。ふむ、妹がおるのか。それは可哀想じゃな、今じゃ一人で残されとるのか」
その言葉で紫苑の胸はズキリと痛んだ。針で刺されたかのような痛みは、口内に苦い味を滲ませた。薫のことだ、きっと今頃は立ち直っているはずだろう。それにエスペルという老人が言っていた。まだ向こうの身体は死んでいない、と。
──まだ?
「エスペル導師」
「なんじゃ、導師を名乗る理由は教えんぞ」
「いや、別の質問なんですけど、さっき言ったまだ向こうの身体は死んでいないって、どういうことですか?」
紫苑の言葉にエスペルはぽんっと手を叩いて首肯した。眉根を寄せると、その穏健そうな顔を翳らせて囁くように言葉を発した。
「その答えは今からオヌシに話そうと思う。というわけでじゃ、場所を移すぞ」
その言葉が後に余韻を残すうちに、紫苑の視界は酷く歪んでぼやけた。
次に目を開けた時、視界に映り込んだのは先ほどの広場を何倍にも拡大したような空間だった。足元にいた筈の老人の姿はどこかに消え、代わりに周囲を人が埋め尽くしていた。
どこを見ても、人、人、人、人、人、人しか視界に移りこまない。遥か視線の先にかの巨木の樹冠が見えたが、視界の大半を埋め尽くすのは老若男女の雑踏。誰もかれもが、どうしてこんな場所にいるのか判然としない顔をしている。
視線のやり場に困った紫苑は頭上を見上げて、悲鳴を上げそうになった。急に視界を埋めたのは血のように真っ赤な空。
『オヌシらは、何故自分たちがこんな場所に呼び出されたのか、その理由が知りたいじゃろう』
突然頭上から振りかかった声は、聞き覚えあるエスペル導師のものだった。上空を見上げた数人の人間が悲鳴を上げた。
紫苑も固唾を飲んで、今目の前にある光景を見つめた。
上空の雲が急速に形を変えて、とある老人の姿を形成する。あれはもはや手品などではなく、魔法だ。意図的に渦巻く雲は誰かの意思で操られているようだ。
常識の範疇を越えた現実に多くの人間は言葉を失って、空で行われている一大イベントを黙って見守るしかなかった。
やがて完全な人の顔が茜色の空に浮かび上がった。その口元が動くたびに、声が大気を揺らす。
『この場におる全員は、事故や病気で重症となった者達じゃ。オヌシらの中には、死に際の記憶が残っとる者もおるじゃろう。だが、安心してもらいたいのは、オヌシらはまだ死んでおらんということだ』
その言葉に周囲でどよめきが起こった。
ここを天国だと考えていた人間は少なからずいたらしい。まだエスペル導師から聞かされていなかった者達だろう。
先ほど話をされた紫苑にとっては、さほどの衝撃にはならなかった。やはりそうなのかと、改めて確認が出来た程度に思った。
『この世界と元の世界の肉体は同じ魂を共有しておる。こちら側でオヌシらが死なぬ限り、元の世界の肉体も死なん』
じゃあ早く帰してくれ、誰かが言った言葉は周りに伝播して、人々は口々に同じような言葉を叫び始めた。紫苑はそれに同調しなかったが、帰りたいと願う思いは同じだ。
そんな人々の思いを受けたエスペルの言葉は、それらを裏切るものだった。
『無理じゃ。オヌシらを元に戻すことは今の儂には不可能じゃ』
一気に落胆した人々が暗澹たる雰囲気を作り、人々の表情は暗くなる。
『儂が無理でも、別の方法がある。オヌシらは選ばれた一万人じゃ。このアナザーワールドが選別した、選ばれた戦士なのじゃ。
この世界は今現在、九体の魔王による滅びの危機を迎えておる。表面化こそしておらぬが、魔王は滅びの呪文を唱える準備を整えておる。それを未然に防げなければ、アナザーワールドは死の星へと変わり果てるじゃろう』
そこで言葉を切るエスペル。
場に静寂が降り立ち、しんと静まり返った空間。一瞬で無になったような静けさ。
誰もがあまりのことに息をすることを忘れていた。
この場に一万人もの人間がいるということと、滅亡の危機という二重の驚き。
紫苑も同じだ。いきなりやってきた異世界が、滅びの危機に瀕しているなど洒落になってない。
だが、エスペル導師の真剣そのものも双眸が、それが嘘だと疑わせる余地を失くしていた。
事実なのだろう、そう漠然とした確信が心に宿る。
周囲の人々も似たような感じなのだろう。不承不承ながらも、その横顔が引き締まったように見える。
自分達が召喚されたことは紛れもない事実であり、覆すことの出来ない現実なのだ。その事実だけは偽ることは出来ないだろう。
『この世界に呼び出されたオヌシらが、元の世界に戻るための方法は一つ。アナザーワールドに点在する九体の魔王を倒すのじゃ。全ての魔王が倒されたとき、元の世界へと戻されるじゃろう。だが、注意すべきは、九体目が倒されたときに生きていなければならんということだ。この世界の死は、元の世界の肉体の死と同義じゃ。それを心に刻みつけてもらいたい』
死ぬものか、紫苑は小さく呟いて拳を固く握った。
絶対に生きて戻るんだ。薫が帰りを待っているんだ。
戻れる希望に多くの人間は表情を明るくし、周囲の見知らぬ者同士で励まし合う。
『滅びの呪文が発動するまで、残り三年。それがタイムリミットじゃ。では、この世界を救う戦士たちに儂からの餞別がある』
何か武器だろうか。戦わされるのだろうから、そうした道具は必要不可欠だ。
紫苑の期待感というよりも、全体の期待する眼差しに対してだろう、エスペルは苦笑を漏らして口を開いた。
『今から試験会場に転移させる。そこでの成績に応じて、職業と武器を与えよう』
人々の歓声が湧き、紫苑はそれに呑まれそうになった。眸を閉じて、瞼の裏に妹の姿を思い浮かべる。
最近になって二つ結いにハマリだした少女の笑顔。
待っていてくれ、と心で祈る。絶対に生きて、戻るから。
ふいに世界は捩れ、歪み、暗転した。
ひんやりとした冷気が頬を撫でる。掌から伝わる冷たさは一向になくなる気配がない。鼻腔を満たすのは湿気を含んだ空気。どこかで水が滴る音が反響して、鼓膜を揺らした。
「いっつ……」
数度呻き声を上げた頃に、意識がはっきりとして紫苑はフラフラと立ち上がった。眩暈がするためか、視界が未だに揺らめいている。目頭を揉んで、何度か目を瞬かせるとはっきりと視界が鮮明になった。
何故こんな手荒な転送なのか。憤りを覚えても、既に自分一人のみ。周囲は岩石に覆われており、先の見えない暗闇が続いている。
試験とは一体何をすればいいのだろうか。
何も教えられぬままに、紫苑はこの洞窟らしき横穴の出口を求めて壁伝いに歩き始めた。明かりが無くとも、洞窟内は仄かに照らされていた。天井や側壁、足元の岩石に生えた苔が発光しているのが理由だ。青白い光が行き先を照らしてくれていた。
星の中を歩いているような幻想的な空間を突き進めば、道が二手に分かれていた。
どちらかが出口に続いているのか、はたまた先ほど通ってきた道が出口へと向かうのか。どちらの通路からも風が流れ込んで来ているようで、微かに頬を撫でて吹き抜けていく。
悩んだ末に左の道を選ぶことにした。こちらの方が苔が多く、見通しが良さそうだった。足場に注意を払って緩やかな上り坂を進む。
途中から道が狭くなり、しゃがまなければ通れない所が出てきた。進むほどに不安になってくる。出口はきっとこの先にないだろう。それが何となく分かった。
緩やかな下り坂を歩いて確信する。完全に道を間違えた。
口端から漏れる吐息が白く棚引いて、後ろに線を描く。淡く霧散する白煙が如実に知らせてくれたのは、周囲の気温が下がっていることだ。
一体どこへと向かっているのか。
転移される前が陽気な気候だったことを考えれば、ここが雪国とも考えづらい。最も有力なのは、地下をひたすら潜っている、ということ。
さすがに今の服装では耐え切れなくなって身を凍えさせた頃に、紫苑は急に開けた場所に出た。
かなり広い空間だった。天井は高く、空間が全体として淡青色に染まっている。まるで氷の造形のような場所だと思った。違和感を感じる一部を除いて。
壮麗な六角形をした水晶が上向きに生えて群集し、空間の中央に置かれた玉座を囲んでいた。
玉座の上に置かれたのは、年季の入った大きな宝箱。
不思議に思いつつ、恐る恐る歩み寄ると、その蓋に手をかけて出方を窺った。数秒の静寂の後、紫苑はほっと胸を撫で下ろした。突然噛みついてくるといったドッキリはないらしい。
安堵すると両手で、重たい蓋を持ち上げた。軋んだ音を響かせておもむろに蓋が開け放たれる。
同時に耳元で聞き覚えある老人の声が響いた。かなり焦っている様子で途中取り乱したように早口になる。
「すまんシヲンとやら。飛ばす場所を間違えたッ。今呼び戻すぞ」
捩れていく視界の中、紫苑は宝箱の中身を掴み取った。何故か残していくのがもったいない気がしたのだ。
黄ばんだ羊皮紙のようなものだと思いながら、紫苑の意識は途切れた。
「いつまで寝とるんじゃ」
またこの言葉だ。
体を揺すられ始めると次第に気持ち悪くなり、たまらず跳ね起きた。
紫苑の足元にはエスペルが目を丸くしていた。いきなり紫苑が起き上がったことに度肝を抜かれたようだ。
「えっと、ここはどこですか」
気恥ずかしさを感じて、紫苑はエスペルに問いかけた。とりあえず平静を取り繕った表情で対応する。
「最初にオヌシに出会った広場じゃ。いや、すまんかった。オヌシだけ別の場所に飛ばされたようじゃ。今頃他の者達は試験を終えた頃じゃろうな。うむ、困った」
「試験て何をしたんですか?」
「宝探しじゃ。宝の中身の内容に応じて、見つけ出すのが困難になる。その中に入った羊皮紙を持ってこいというものじゃ」
紫苑は今自分自身が右手で握っているものを見下ろした。まさかとは思うが、これなのか。この日に焼けて黄ばんだような羊皮紙がその宝なのだろうか。文字のように書かれたものは象形文字のようで、記号にしか見えない。
エスペル導師の反応を見ようと差し出してみる。
「あの、すみません。これは違いますか?」
紫苑が差し出した羊皮紙を受け取ったエスペルの驚きようは、そうそうお目にかかれないものだったろう。
身体を思いっきり仰け反らせたエスペルは、顔が羊皮紙に付くほどに紙を鼻先に近づけた。何となく鼻息が荒く思うのは気のせいだろう。
「どこでこいつを見つけたんじゃ? こいつはまさかな」
何か思わせぶりな口調で言葉を切ったエスペルに、紫苑は首を傾げてその先を待った。
「こいつは儂が秘蔵にしとったものじゃ。いったいどこに仕舞い込んだのか、とんと分からなくなっとったのを、よもやオヌシが見つけだそうとは」
「確か見つけ出した紙の内容で職業を与えるって言ってましたよね」
「おぉ、そうじゃ。こいつには二種類の職種が記載されとったはずじゃ。ふーむ、どれどれ。なるほど、《死神》と《吸血鬼》じゃな……すまん」
紫苑の思考は一度急停止した。
やがて回り始めた思考でも、理解が及ぶ気配がなかった。
《死神》と《吸血鬼》、強そうだが、嫌な予感しかしない。それにさっきエスペル導師は謝罪を口にしていた。マズい気がする、ヤバい気がする。
「う、うむ。まぁ、自分で内容を確認してもらった方が早いじゃろう」
エスペル導師から手渡された羊皮紙に書かれた文字は、知らぬ間に読めるようになっていた。
文字自体は日本語ではなく、記号のようでしかない。なのだが、視線を紙の上に走らせると、その内容が自然と頭に入ってくるのだ。
それのおかげで読めた内容は、今すぐにこの紙を燃やすか破り捨てたい衝動に駆らせた。
『Job.【死神】
・魔法能力に秀でた魔術系の最高位。
Weapon.【デスサイズ】固有兵装
・魔法の使用には魔力が必須だが、溜めるためには生命が必要
・能力の解放には、人間一人分の魂を必要とする』
『Job.【吸血鬼】
・戦闘能力に長けた接近戦のプロ
Weapon.【錆びた双短剣】
Ability.【オールキュア】固有能力
・吸血行為によって、身体の損傷部を再生させることが可能
・能力の解放には、聖女の血を必要とする』
死神は人の魂、吸血鬼は女性の血。
どちらも遠慮したいところだ。今回は辞退出来るのだろうか。さすがにこの職業はキツい。能力解放の意味が分からないが、その内容が重い。
「別の職業には出来ないですか? それかジョブなしは?」
「難しいとこじゃな。ジョブなしなら可能じゃ。だが、別の職業にするのは無理じゃろう。その紙が無ければ儂は力を与えられん。まぁ、あまり気落ちせずともいいじゃろ。制約の内容がちとネックじゃが、それを考えなければこれほど優れた能力はないぞ」
「あの、吸血鬼の方に書かれてる聖女ってなんですか?」
「それはー、あれじゃ。純潔の女性って意味じゃろう」
純潔、なぜ純潔か。いや血を飲むつもりは微塵もないから、そんな疑問を浮かべても意味がない。
つもりじゃなくても意味はないか、そんな不毛な思考に走りかけたのをエスペル導師が制した。
「これも何かの縁じゃろう。奮発して、二つのジョブを与えてやろう」
そう言うが早いか、エスペルは紫苑ににじりよって、怪しげに両手を前に突き出す。
紫苑は表情を怖張らせてズルズルと後退した。手を顔の前で振りながら、首を全力で左右に振る。
「結構です。遠慮したいです。それかどっちか片方がいいです、出来れば吸血鬼でッ」
紫苑の言葉を待たずして、エスペルは呪文を口にした。紫苑は心の中でふざけるな、と絶叫した。
エスペル導師の掌から立ち昇りだした桃色の煙が視界を遮り、とうとう全てが桃色に変わった。
紫苑はその中で咽返り、目尻に泪を浮かべるハメになった。
「ごほぉ、ごふぉ、けっほ、けほけほッ」
やがて煙が薄れて視界が晴れていく。
エスペル導師に文句の一つでもついてやろうと憤り、鮮明になった視界で老師の姿を探すと、足元で驚愕した表情で固まっていた。
その顔は次に、悪戯がバレた子供のような、申し訳がないと言いたげな、自責の念に駆られているようなものに移った。
その様子で何か悪寒めいたものがした。背筋に寒気がして、半歩後退ったとこで気づいた。
服装が変わっていた。
古ぼけた黒のフード付きレザーコートに、同色のシャツとズボン。足には漆黒のブーツを履いている。全体として装飾が少なかったが、左の胸元に大きな金属製の十字架が取り付けられていた。どこぞのエクソシストですか、といった風貌だ。残念ながら駆除される対象は自分自身になりそうだった。
「すまん、こうなるとは思わんかった」
エスペルは謝罪を口にして、紫苑の手元に手鏡を出現させた。
紫苑は怖いもの見たさで鏡の中をのぞき込んだ。そして我が眼を疑うことになった。
「え、髪が白い……」
毛先に辛うじて黒が残っていたが、大部分は透明で、白というよりは銀に近かった。
左の目元には爪痕のように三本の赤い線が走っている。眸の色は焦茶から琥珀色に。
口端から覗く犬歯が鋭く伸びているのも分かった。これは吸血鬼らしい。
それらは非常に驚かせるものだったが、紫苑は別の理由で落胆した。
器が違うとエスペル導師が言っていたために、期待していたのだが、鏡に写されたのは柔和な顔立ちをした少年の顔貌だった。それはまさしく紫苑自身のものだった。
一七年間、紫苑を苦しめた端正な、まるで少女のような線の細い顔造り。鬱だ、率直に思った。どうせならかっこいい、イケメンが良かった。
「シヲン、儂を睨まないでくれ。少しばかり調子に乗ったことは謝る」
どうしてイケメンじゃないんだ、とはさすがに言えない。紫苑の無言の責の視線に、身を小さくするエスペルは紫苑の顔色を窺うように下から見上げる。
暫く無言が続いた後、それに耐え切れなくなったエスペルが、場を和ますように快活な笑い声を上げて指を鳴らした。
「まぁ、元気があればなんとかなるじゃろう。そろそろ皆も揃う頃じゃろう。戻るとしようか」
飛ぶのは懲り懲りだったが、紫苑の意志とは無関係に視界が捩れた。
再び舞い戻った広大な空間には、すでに様々な衣装に身を包んだ人々がいた。
背中に剣を差した西洋の騎士や戦斧を担いだ野蛮そうな恰好、とんがり帽を被った魔女など見回すだけで職種数多だ。
今から仮装パーティーにでも行くつもりなのか、といった風貌ばかり。中には恥ずかしそうにしている姿もあり、やはりそうだよな、と紫苑も頷いた。
「お前どうしたんだよッ、それ。その髪だよ」
唐突に横から声をかけられ、紫苑は右横に首を回した。
すぐ目の前に、痩身長躯の赤い髪を掻き揚げた男がいた。どことなく鳥に似た顔造りに鋭い双眸と赤髪、耳に開けたピアス。見た感じ柄の悪い人間にしか見えない。
耳に痛い調子の高い声に、紫苑は内心毒づいた。
相手の男とは身長差がかなりあり、思い切り見上げる恰好になる。
紫苑はこういう性格の人間は好きではない。無作為に他人に話しかけてくる人間との会話は、精神を疲れさせる。
そんな紫苑の気持ちなどお構い無しに、男は得意顔でとうとうと語り出した。
「お前さ、ジョブは何だったよ。オレはさぁー、《狂戦士》って言われちまったんだ。どうよ、バーサーカー。強そうじゃね」
《狂戦士》を嬉しそうに、身振り手振りに語る男。
つまりは自慢話なのだろう。周囲からの冷たい視線などに動ずる素振りを見せず、男は嬉々としている。
紫苑は男の様子に辟易しながら、男に自分の職業について話すべきか悩んだ。
言えば完全に引かれるかもしれない。いや、さすがにそんなことはないはずだ、と自身を励ます。
「《死神》と《吸血鬼》……」
とって何だよ、とって。そんな声が近くで上がった。だが、やがて静かになっていく周囲。シニガミという言葉が意味するものを理解したのだろう。
死神、魂を刈る者。
そして、その瞬間を紫苑は忘れない。
シーンと周囲の人々が沈黙し、静かにだが確実に紫苑を避けるように距離をとり始める。
痩身の男は引きつった笑みを顔に掃いて、乾いた笑い声を上げた。
「お前、大変そうだな。あ、オレ用事を思い出したわ」
紫苑から離れるための口実だということは、丸分かりだった。男は踵を返すと、一目散に走り去って行く。その後姿は雑踏の中に紛れ込んで、すぐに見えなくなった。きっと彼とはもう会うまい。
気づけば紫苑の周囲には、直径一〇メートルほどの円が出来ていた。当然その中心に紫苑はいる。
なんなんだこの仕打ちは。頭を抱え込んでしゃがみたいのを堪えて、気丈にこの現実に耐え忍んだ。
いきなり孤立してしまった。その事実だけがただ漠然と提示されて嫌になる。
溜息をついて、一人孤独感に浸る。早く元の世界に戻ろう。ここじゃ精神的に長期間、耐え続けることは難しい。
いくら一人を好む人間といっても、常に畏怖の視線を向けられるのは勘弁してほしい。
そんな紫苑に助け舟を出す形で、上空にエスペルの顔が浮かび上がった。何やら複雑な表情をしているのは、一万人の群衆の中にポッカリと空いた穴を見つけたからだろうか。であれば、この現状を打開してほしい、と紫苑は懇願した。
「皆、様々な職業が与えられたと思う。その力を最大限有効活用して、魔王に打ち勝ってもらいたい」
ド素人が力を与えられたからといってすぐに戦えるわけがない、非難の声が上がった。
エスペルはしゃがれた声を僅かに弾ませて言葉を発した。
「実際はそうじゃろう。じゃが、ここには魔法がある。オヌシらの動きには多少の補正がかかり、本来であれば難しいであろう動作も無理なく実行出来る。素人同然が次の日には玄人になることも可能じゃ」
あちこちで上がる奇声は歓喜に溢れた声だろう。紫苑はエスペル導師の言った言葉を頭で繰り返した。
どれほどの補正がかかるのかまでは分からないが、少なくとも武器を扱えるようになるまでに、何ヵ月も特訓するような自体は回避されたらしい。
二つの職業のために与えられた武器は二つある。短剣は腰に下がっているが、大鎌の方はどうやら魔法で消してあるらしい。
取り出すことは容易で、手を伸ばして武器の名を言えばいい。この場で言えば、騒然としそうだったので言いはしないが。
エスペル導師の話は続いた。
「魔法にも武器にも、物理的な攻撃にも熟練度があり、使用頻度が増えれば自然と強力なものに変化する。職業には能力の解放といったものがあり、それを達成すればより強力な戦士へとなれるじゃろう」
ここまでくると、まるでゲームの話だ。RPGのような、経験値を上げてボスを倒していく話のように思える。
周囲の人々も似たような考えらしく、ヒソヒソと話し合う様子が散見される。
「ここからは肝心の魔王についてじゃ。奴らは世界中に点在するタブーという場所の奥に構えておる。どこも魔王がいる地点に辿り着くまでに、かなりの障壁が待っているじゃろう。そして、その先に待つ魔王は獣の形を採る者、人型、様々じゃ。じゃが、どれも危険な相手じゃろう」
そんな相手とまともに戦えるようになるのに、どれほどの時間を必要とするのか。
すぐに武器をさまになって振るうことが出来たとして、戦うことに慣れることはまた別の話だろう。
「いきなり戦うことなど無理だ、と考えておるなら、その心配も杞憂じゃ。どのタブーも侵入者に合わせて、その危険性を変動させるのじゃ。魔王もまた然り。一定の強さではなく、相手に応じて変わる。立った一人最強の戦士が魔王に挑むより、弱き戦士が一団となって挑む方が遥かに現実的と言えよう。さて、オヌシらの旅の支度を整えようか。ほれ、これを受け取るがいい」
全員の顔の前に、微かに光を発する水晶が宙に浮遊した状態で現れた。大小様々、色も違っているようだ。
紫苑は蒼紫色に光る石を宙で掴み取ると、それを掌の上に転がした。十字型をした水晶からは仄かに暖かさを感じた。十字の頭に穴があけられ、そこに紐が通されていたため、ペンダントのように首に吊るしてみた。
「今オヌシらに行き渡らせた水晶は、マナクリスタルじゃ。この世界ではそれが通信手段であり、街から街への転送に役立つ。水晶同士を互いに触れさせると、相手と離れていても会話が出来る。生存の確認も可能じゃ。
大規模の街には巨大なマナクリスタルが存在し、それと自分がもつクリスタルを触れさせ、別の街のクリスタルにも触れておくと、街のクリスタルに触れたときに瞬時に別の街へと転移出来るようになる。オヌシらがもつ水晶は小さすぎて、それ単体では転移は出来んがな」
エスペル導師が言葉を続ける最中に、周囲では互いに水晶を触れ合わせる人々の姿が見られた。
紫苑は誰一人傍に寄ってこない時点で諦めていた。自ら傍に寄ることはせず、羨望の眼差しを水晶を触れ合わせている一団に向けるだけに努めた。
──この世界にいる限り、生涯孤独なのか。
後ろ向きな思考しか出来ず、紫苑の背中は哀愁を背追い込んだ。
「マナクリスタルにはオヌシらの個人情報も記録されておる。あとで確認するといい。さて、説明が長くなった。ではそろそろ、旅の準備も終わりじゃ。オヌシらは旅人となって、この世界を救うのじゃ。健闘を祈っておるぞ。さらばじゃ」
その言葉が終わるや否や、全員の身体が光に包まれていく。
どうか変な場所に飛ばさないでくれ、と切望しつつ紫苑の視界は真っ白に染まった。
これが異世界にやってきた榛原紫苑の最後の記憶。
そして、シヲンという名の少年の始まりだった。
シヲン:Job.【死神】;【吸血鬼】
Weapon.【デスサイズ】鎌;【錆びた双短剣】短剣
Ability.【オールキュア】
マナクリスタル:青紫色 十字型
※能力解放のためには、人の魂または聖女の血を必要とする。
だいたい一話、一万文字で投稿する予定です。
イラストについてはノーコメントでお願いします。
自作です……。




