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《完結》天啓妃のひもの日記 〜美味しいご飯のためなら、チートも無駄づかいします〜  作者: ひより那


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第4話 忘憂の占者と残された記録

 後宮の妃嬪たちには、華やかな宴や茶会の他にも、定期的に裏方の雑務が割り当てられる。その一つが、後宮の歴史や記録を保管する『内書房ないしょぼう』における、古い書物や竹簡ちくかんの風通しと整理作業であった。


 静嬪せいひんの翠は、薄暗い書庫の片隅で、黙々と竹簡の埃を払い、古い紐を新しいものへと結び直していた。

 周囲の妃たちは「埃で衣が汚れますわ」「手が荒れてしまいます」と文句をこぼし、いかに自分がこの作業に向いていないか(=高貴であるか)を競い合うようにアピールしている。

 しかし、翠は一切の言葉を発しない。無表情のまま、機械のような正確さとスピードで自分のノルマを消化していく。誰の邪魔もせず、誰の印象にも残らない。背景の古い書棚と完全に同化する、見事な『空気』としての所作である。


「よし。今日の仕事オン、終了」


 翠は誰よりも早く、完璧に割り当てられた作業を終わらせた。監督役の宦官に無言で目録を提出し、彼が確認の印をつけた瞬間、翠は足音一つ立てずに内書房から姿を消した。

 あとは自らの庵である忘憂亭ぼうゆうていに戻り、心ゆくまでダラダラと寝転がるだけである。


「……今日は少し頭を使ったし、塩気と旨味の強いものが食べたいわね。干し肉を炙って、お茶漬けにでもして……」


 翠が廊下を歩きながら帰路の献立を妄想していた、その時だった。

 背後から、ひっそりとした足音と共に一人の女官が小走りで追いかけてきた。内書房に勤める中堅女官、紅梅こうばいである。


「静嬪様。どうか、お待ちください」

「……何か、私の作業に不備でもありましたか」

「いいえ、静嬪様の整理は誰よりも美しく、完璧でございました。……そうではなく、静嬪様の『星読み』のお力を、どうかお借りできないかと」


 紅梅の顔には、隠しきれない深い疲労が刻まれていた。

 聞けば、長年にわたり後宮の記録を正確無比に編纂してきた老齢のもう女官長が、ここ数ヶ月、人が変わったように気難しくなっているという。


「以前は厳しくも温かい方でしたのに、近頃は少しのミスで若い女官を烈火の如く叱り飛ばし、誰にも仕事を任せようとしません。そして『どうせ私の仕事など、誰も見向きもしない紙屑だ』と独り言をこぼし、書庫の奥に引きこもられる日が増えました。御典医は『老いによる気鬱』と言うばかりで……。このままでは内書房の業務が立ち行きません」

「老いによる偏屈、ですか」

「ええ。周囲の者は皆、老い先短い者が権力にしがみついているのだと陰口を叩きます。しかし、私はそうは思えなくて……」


 後宮で生涯を終えようとする老女官の孤立と暴走。関われば面倒なことは目に見えている。

 翠は「お気の毒ですが……」と断ろうとしたが、ふと、内書房という部署の特性を思い出した。各宮からの献上品や、珍しい物資の目録を管理している部署である。


「……紅梅殿。内書房には先日、南の国から献上された『金華豚の熟成干し肉』が目録の記録用に持ち込まれていましたね。まだ残っていますか」

「え? は、はい。上等な部位はすでに上位の妃様方に配られましたが、切り落としの塊ならばまだ保管してあります」

「……星の巡りを見てみましょう」


 翠は袖の奥から亀甲と木札を取り出した。

 極上の干し肉のためならば、老女官の心の闇にも光を当ててみせよう。

 カラン、と木札を転がす。

 天からの絶対的な啓示が、翠の脳裏にひとつの真実を叩き込んだ。


(……権力にしがみついているわけではない。彼女は今、『自分の人生は全く無価値だったのではないか』という深い絶望の淵に立っている。解決策は『後宮の生き字引として、彼女自身の口から若い女官たちへ人生を語らせること』!)


 天啓が示した老女の心の深淵。翠の思考空間に、前世で学んだ発達心理学の知識が鮮やかに展開された。

 アメリカの心理学者、エリク・H・エリクソンが提唱した『心理社会的発達理論』。彼は人間の生涯(ライフサイクル)を八つの段階に分け、それぞれの時期に乗り越えるべき「課題(葛藤)」があるとした。


 孟女官長は現在、人生の最終段階である『老年期』に差し掛かっている。この時期の発達課題は『自己統合(インテグリティ) 対 絶望』である。

 人は老いを自覚した時、己の過去を振り返る。「私の人生はこれで良かったのだ」と、成功も失敗も含めて自分の生涯を受け入れることができれば、心は『統合』され、次世代へと知恵を託す穏やかな『英知』を獲得する。

 しかし、自分の人生を無意味だった、失敗だったと感じて受け入れられない場合、死への恐怖と共に深い『絶望』に陥る。


(後宮という鳥籠の中で、ただ他人の記録をつけるだけで一生を終えようとしている。私には自分の人生と呼べるものが何もなかった……。孟女官長は今、その絶望に押し潰されそうになっているのね。だから、自分の価値を証明しようと仕事を手放せず、他者を拒絶している)


 この孤独な老女を絶望から救い、自己統合へと導くには、彼女の生きてきた軌跡が「決して無価値ではなかった」と実感させる必要がある。


「……紅梅殿。星は、悲しい事実を告げております」


 翠は静かに木札をしまい、紅梅を真っ直ぐに見つめた。


「孟女官長の心には、『自分がこの世に生きた証など無いのではないか』という恐れが影を落としています。彼女は老いによる偏屈ではなく、その恐れと戦っているのです」

「生きた証が……? ですが、内書房には女官長がまとめられた立派な記録の山が……」

「紙の記録は、彼女自身の人生ではありません。……紅梅殿、内書房で小さなお茶会を開きなさい」

「お茶会、ですか?」

「ええ。仕事の記録をさせるのではなく、孟女官長を上座に座らせ、若い女官たちを集めるのです。そして、『記録には残っていない後宮の裏話や、昔の妃様たちの姿、そして後宮を生き抜く知恵を教えてほしい』と請うのです」


 それは心理学における『回想法(ライフレビュー)』のアプローチだった。過去を語り、それを他者に熱心に聴いてもらうことで、自分の人生の意義を再構築する作業である。


「人は、自分の生きた経験が次の世代の役に立つと知った時、初めて己の人生に納得できるものです。彼女を敬い、その記憶を引き継ぐ姿勢を見せなさい。それが、彼女の心の影を祓う唯一の光です」


 紅梅は翠の言葉の重みを噛み締めるように深く頷き、内書房へと戻っていった。


 数日後。内書房の空気は、嘘のように穏やかになっていた。

 紅梅からの報告によれば、初めは「くだらない茶飲み話など」と渋っていた孟女官長だったが、若い女官たちが目を輝かせて昔話を聞き入る姿を見て、徐々に口を滑らかにしていったという。

 先代の皇帝の時代の出来事、表の記録にはない女官たちの機転、そして長く生き抜くための処世術。それらを語る孟の顔には、かつての厳しさと共に、次世代を見守るような温かな光が宿っていた。

 自分の人生は単なる紙屑ではなかった。この子たちに知恵を繋ぐための、大切な時間だったのだ。自己統合を果たした孟女官長は、憑き物が落ちたように穏やかになり、紅梅たちへの仕事の引き継ぎを笑顔で始めたという。


「静嬪様。見事な星読み、本当にありがとうございました。こちらは孟女官長からの個人的な御礼の品です。『古い記録ばかりの婆よりも、よほど人の心を見通す目を持っておられる』と仰っておりました」


 そう言って紅梅が置いていったのは、ずっしりと重い木箱だった。

 蓋を開けた翠は、危うく歓喜の悲鳴を上げそうになった。

 鎮座していたのは、見事な赤身と透き通るような脂身が層をなす、極上の『金華豚の熟成干し肉』の塊であった。


「……生きた証、バンザイ」


 他人の人生の総決算に付き合うのは骨が折れる。しかし、その結果としてこれほどの対価が得られるのならば、発達課題の解決も悪くない。

 翠はすぐさま厨房の隅に火をおこし、熱々の白粥を炊き上げた。

 熟成された干し肉を極限まで薄く削ぎ切りにし、湯気を立てる白粥の上にたっぷりと乗せる。粥の熱で干し肉の脂がとろりと溶け出し、濃厚な旨味と独特の香りが立ち昇る。


「……いただきます」


 れんげですくい、口の中へ運ぶ。

 豚肉の強烈な旨味と、熟成された深い塩気が白粥の優しい甘さと絡み合い、えも言われぬ至福の味を奏でた。

 他者の人生の重みを解決した報酬として、自分の最も原初的な生理的欲求を満たす。翠は誰の目も気にすることなく、忘憂亭での完璧な咸魚ライフを心ゆくまで堪能するのだった。


==========


■ 『心魂の理(西域の学術書)』より抜粋 ―― 【エリクソンの心理社会的発達理論】


 異国の賢人、エリク・H・エリクソンは、人間の生涯ライフサイクルを八つの発達段階に分け、それぞれの時期に心理社会的な「課題(葛藤)」があると考えた。


乳児期:基本的信頼 対 不信

幼児期(前期):自律性 対 恥・疑惑

幼児期(後期):自主性 対 罪悪感

児童期:勤勉性 対 劣等感

青年期:同一性(アイデンティティ) 対 同一性の拡散

成人期(初期):親密性 対 孤立

壮年期:生殖性(ジェネラティビティ/次世代の育成) 対 停滞

老年期:自己統合(インテグリティ) 対 絶望


 今回の孟女官長の事例は、人生の最終段階である『老年期』の葛藤である。

 自分のこれまでの人生を振り返り、「これでよかったのだ」と肯定的に受け入れることができれば『自己統合』に至り、死への恐怖を乗り越えて「英知」を獲得する。しかし、自分の人生に価値を見出せず、過去を悔やんでばかりいると『絶望』に陥る。

 対人援助において高齢者と接する際は、彼らが自己統合を果たせるよう、過去の経験や思い出を傾聴し、その人生の価値を肯定するアプローチ(回想法など)が極めて有効である。


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