君は明日、僕を忘れる。それでも僕は君を愛した
朝の光が、薄いカーテン越しに部屋へ差し込む。
セイランはゆっくりと目を開けた。
胸の奥が、今日も少しだけ痛む。
理由は分かっている。
隣の家に住む幼馴染――ユナのことだ。
ユナは今日も、
昨日のセイランを覚えていない。
ベッドから起き上がり、
窓を開けると、
向かいの扉がきしむ音がした。
ユナが外に出てきた。
白いワンピースを揺らしながら、
セイランの方へ歩いてくる。
そして、
いつものように首をかしげた。
「ねぇ……どこかで会ったことある?」
その言葉が胸に刺さる。
でもセイランは笑った。
「うん。昨日も会ったよ」
ユナはぱっと花が咲くように笑う。
「そっか……よかった。
あなたを見ると……なんだか安心するの」
その言葉が、
セイランの心を救ってくれる。
ユナは物心ついた頃から、
一日経つと記憶が消える病を抱えていた。
昨日のことも、
一昨日のことも、
セイランと過ごした何年もの日々も。
全部、朝になれば消えてしまう。
だからセイランは、
毎朝ユナに“初めまして”を繰り返す。
それでもいいと思っていた。
ユナが笑ってくれるなら、それで十分だった。
「ねぇセイラン。
今日は……一緒に歩いてもいい?」
「もちろん」
ユナは嬉しそうにセイランの腕を掴む。
初めて触れたみたいに、少しぎこちなく。
でもその手は温かかった。
村の道を歩きながら、
ユナは楽しそうに話す。
「なんだかね……
あなたといると胸があったかくなるの。
不思議だよね」
セイランは笑って答える。
「不思議じゃないよ。
僕も同じだから」
ユナは照れたように笑った。
その笑顔を見るたび、
セイランは思う。
(今日も……好きだ)
毎日、初めて恋をするみたいに。
夕日が沈む頃、
ユナは家の前で立ち止まった。
「セイラン……今日、楽しかった」
「僕も」
「また……明日も会える?」
その言葉が胸に刺さる。
明日になれば、今日のことを忘れてしまうのに。
それでもセイランは言う。
「もちろん。明日も会おう」
ユナは嬉しそうに頷いて、
家の中へ消えていった。
扉が閉まる音がして、
静寂が戻る。
セイランは空を見上げた。
(明日も……また“初めまして”からだ)
でも、
それでもいい。
ユナが笑ってくれるなら。
家に戻り、
何度も読んだ、古い本を開く。
月影草
“記憶を繋ぐ薬草”
そんな伝承が書かれていた。
(もし……本当にあるなら)
ユナの記憶が、
一日でも長く続くなら。
セイランは本を閉じ、
静かに決意した。
(探しに行こう。
どんな危険があっても)
明日、
ユナがまたセイランを忘れてしまう前に。
夜の風が、村の外から冷たく吹き込んでいた。
セイランは外套を羽織り、家を出る。
月明かりだけが道を照らしている。
(ユナが……明日、僕を忘れる前に)
胸の奥が締めつけられる。
でも、その痛みがセイランを前へ押した。
古い本に書かれていた薬草――
月影草は、北の山の奥深くに咲くという。
「一日だけでも……ユナの記憶が繋がるなら」
それだけで十分だった。
山に入ると、空気が変わった。
湿った土の匂い。
遠くで獣の鳴き声が響く。
セイランは足を止めずに進んだ。
(ユナが……僕の名前を覚えてくれたら)
そんな奇跡を夢見てしまう。
叶わないと分かっていても。
やがて、崖のそばに淡い光が揺れているのが見えた。
「……あった」
月影草。
青白い光を放つ、小さな花。
セイランは震える手でそれを摘み取った。
その瞬間――
背後で、低い唸り声が響いた。
振り返ると、黒い影が飛びかかってきた。
「っ……!」
セイランは咄嗟に身をひねり、月影草を守るように抱え込む。
鋭い爪が腹を裂いた。
熱い血が溢れ、足元に滴り落ちる。
それでもセイランは走った。
走って、走って、走り続けた。
(ユナに……届けないと……)
視界が揺れる。
呼吸が荒くなる。
足がもつれそうになる。
それでも、村の灯りが見えたとき――
セイランは微笑んだ。
「……帰れた……」
家の前までたどり着いた瞬間、膝が崩れた。
月影草を胸に抱いたまま、
セイランは地面に倒れ込む。
扉の向こうには、ユナがいる。
明日になれば、また“初めまして”が始まるはずだった。
(ユナ……)
声にならない声が喉で震えた。
(君が……笑ってくれるなら……それで……)
意識が遠のいていく。
最後に思い浮かんだのは、
今日のユナの笑顔だった。
朝日が差し込み次の日を伝える。
ユナは胸騒ぎで目を覚ました。
「……なんだろう。誰かが……呼んでる気がする」
外に出ると、家の前に人影が倒れていた。
白いワンピースが風に揺れる。
ユナは駆け寄る。
「……どこかで会ったことある?」
その言葉は、
いつものように自然に口からこぼれた。
青年は答えない。
ユナは首をかしげた。
「ねぇ……あなた……
どうして……こんなに……冷たいの……?」
胸が締め付けられる。
理由は分からない。
でも、
涙が溢れた。
「どうして……
あなたを見ると……こんなに……悲しいの……?」
ユナは震える手で、
青年の手を握った。
その手は、
もう温もりを返してくれなかった。
騒ぎを聞きつけ、
村人たちが集まってきた。
「ユナ……その人は……セイランだよ」
「毎日、お前のことを……」
ユナはゆっくりと顔を上げた。
「……セイラン?」
その名前を口にした瞬間、
胸の奥が強く痛んだ。
まるで、
大切な何かを失ったように。
「……セイラン……
どうして……私……泣いてるの……?」
ユナは理由も分からず、
ただ涙を流し続けた。
村人たちはセイランを抱きかかえ、
静かに運んでいった。
ユナはその後ろを、
ふらふらと歩いてついていく。
手には、
セイランが命をかけて取った
月影草を抱えて。
花は淡く光り、
ユナの涙を照らしていた。
セイランの遺体の前で、
ユナはそっと呟いた。
「ねぇ……セイラン。
どこかで会ったことある?」
その声は震えていた。
「……あなたの名前……
どうしても……忘れられないの……」
ユナは胸に手を当てた。
「ねぇ……セイラン……
私……あなたのこと……好きだったのかな……」
涙が落ちる。
「分からないの……
でも……あなたがいないと……
胸が……痛いの……」
ユナは月影草を一輪、
セイランの胸にそっと置いた。
「……また……会えるよね……?」
返事はなかった。
でも、
ユナは微笑んだ。
「うん……きっと……どこかで……」




