第7話【天堂璃王】 劇薬達の産声
僕は重く錆びついた第五階区の鉄扉を、だるそうあくびをしながら押し開けた。
「ふぁ……あー、よく寝た。……ん? なにこのお通夜みたいな空気」
口の中でペパーミントのガムを転がしながら、僕は気の抜けた声で呟く。
カビ臭い地下教室は、先ほどまでの「第三階区が攻めてくる」というパニック状態から一転、奇妙な静寂とどんよりとした絶望感に包まれている。
教卓の前では、リーダーの雨宮が、青白い顔でホログラム端末の【受諾済み】という赤い文字を呆然と見つめている。
何かしら事故に遭ったと思われる浅原は、彼女の足元で「ご、ごめん、俺のせいで……っ」とボロボロ泣き崩れていた。
「おい天堂! お前今までどこでサボってやがった!」
文句言いの田中が、八つ当たりのように僕に食ってかかる。
「はいはい、昼寝だよ。で、これどういう状況?」
「浅原のクソが、第三階区にハメられたんだよ!」
「ふむふむ、浅原が? 何で?」
「窃盗未遂の罠だ! 浅原が連中の端末を盗みやがった」
なるほど、覇権闘争は双方階区のリーダーが互いに合意した場合のみ行われる。見事な盤外戦術だ。
「へぇ、それがどうしたの?」
「雨宮が覇権闘争の同意ボタンを押しちまった。俺たちはヤクザみたいな第三階区にボコボコにされて、なけなしの金も全部奪われるんだよ!」
「えー、マジで? 雨宮、受けちゃったの。 うわー、最悪。僕、顔に傷つくの絶対嫌だから、速攻で降参する。残りの連中で死ぬ気で頑張ってよ」
これを聞いて田中が「このクズ野郎」と激怒する。
僕は、田中の胸ぐらを掴みかからんばかりの剣幕を「あーハイハイ」と適当にスルーし、教室の最後列にある自分の定位置――ガタつくパイプ椅子へと腰を下ろした。
「……みんなごめんなさい。でも、こうするしか……」
雨宮が消え入りそうな声で俯く。彼女の細い肩は、三十人分の命を背負った重圧で小刻みに震えていた。
ま、そりゃそうなるよな
僕は頬杖をつき、退屈な瞳で教室の惨状をぐるりと見渡した。
総合評価『CES』によってクラス分けされるこの学園において、第五階区は『廃棄物』と呼ばれている。
体力もなければ、メンタルも豆腐。他者と協力するコミュニケーション能力など皆無。
覇権闘争で上位階区に勝てる要素など、表面上はどこにもない。
Aだが。本当に彼らは『ただの無能』なのだろうか?
「……っ! くそっ、弾かれたでござる! ならプロキシを噛ませて、バックドアの脆弱性から――」
カタカタカタカタカタッ! と。
教室の隅で、もはや打鍵音が一つの持続したノイズに聞こえるほどの、異常な速度のタイピング音が鳴り響いていた。
ボサボサの髪に分厚い瓶底メガネ。なぜか制服の上にヨレヨレの白衣を羽織り、襟元にゲームコントローラーのピンバッジを付けたアニオタ、木下裕作。
彼は今、第三階区の脅威など完全に頭から抜け落ちたように、ガムテープで補修された旧式キーボードを血走った目で叩きまくっている。
いや、叩いているのではない。彼の十本の指は完全に『残像』と化しており、常人の動体視力ではどのキーを押しているのかすら視認が難しい。
「い、いける……! これで限定アニメグッズ限定販売の予約権を優先的に拙者の物になる。後は総合購買特区バベルモールで購入するのみでござる!」
ターンッ! とエンターキーを叩き割る勢いで押し込む木下。
直後、予約サイトの脆弱性を突破した証である【予約完了】のポップアップが光る。木下は「ふひひっ」と不気味な笑い声を上げ、白衣を翻して勝利のポーズを決めた。
おいおい。たかだか『アニメグッズの購入』だけに、クラッキングしたのか。
僕は、内心で呆れ半分、感心半分の評価を下す。木下は、人とまともに目を合わせることもできないコミュ障だ。しかし、その分脳の処理リソースと指先の運動神経を、全てパソコンに全振りしている。
「り、リーダー……! 俺、俺が悪いんだ……俺なんかのために……っ」
一方、雨宮の足元でボロ泣きしている浅原陽太。
明るいオレンジ色の髪を遊ばせ、制服のシャツの胸元をだらしなく開けたギャンブル中毒。プレッシャーに弱い彼は極度の罪悪感に押し潰されそうになっている。
だが、僕の目は、泣きじゃくる浅原の『手元』の異常な動きを捉えていた。
浅原は「ごめんなさい」と泣きながら、無意識の不安を紛らわせる手癖で、自身の指の間に挟んだ数枚のカジノチップとコインを、まるで無重力空間に浮かせているかのように滑らかに回転させている。
そして次の瞬間。
彼の指先がブレたかと思うと、雨宮のポケットからボールペンを『抜き取り』、それを指の股で軽くクルクルと回し、3秒後には全く気付かれることなく雨宮の別のポケットに『戻して』いた。
監視カメラの死角どころか、目の前の人間の視界の死角すら息をするように突く。関節が独立して動いているかのような、神業のスリの技巧。
「……覇権闘争という名の、狂乱の宴が始まるか。だが俺が紡ぐこの結界の前では、いかなる暴力も無力……痛っ。ルシファーの攻撃か(はりがささった)!」
さらに教室の窓際。銀髪に赤いメッシュを入れ、右目を黒い眼帯で覆った容姿は悪くない少年――山本卓郎。
彼は制服を極限まで着崩し、ジャラジャラと無数のシルバーチェーンを鳴らしながら、中二病のセリフを虚空に向かって叫んでいる痛い奴だ。
だが、僕の視線は彼の手元に釘付けになった。
彼は手にした裁ち鋏と縫い針を、痙攣のような速度で動かしていたのだ。
手元を見ることなく、ミリ単位の狂いもなく布地を裁断し、ミシンすら凌駕する速度で複雑な刺繍と立体裁断の装飾服へと変貌させていく。
手と腕に巻かれた痛々しい包帯とテーピングに関しては……これは、ただの中二病ファッションだろう。
「ふぇぇ! みんな、暗い顔しちゃダメですぅ! 私が淹れたお茶でも飲んで、落ち着いて……きゃああっ!」
そこへ、第五階区の象徴である一色唯が、ティーカップを乗せたお盆を持って歩み寄ろうとし――何もない平坦な床で、見事にすっ転んだ。
宙を舞うティーカップ。こぼれる紅茶。それが、あろうことか教卓の裏にある壊れかけの配電盤にクリーンヒットする。
バチィッと火花が散り、教室の電気が一瞬消え、すぐに再び点灯した。
すると、先ほどまでチカチカと不快な点滅を繰り返していた蛍光灯が、なぜかショートの衝撃で直り、ピタリと安定した光を放ち始めた。
「あ、あれ? 直っちゃいました……えへへ」
完全な運。
完璧な論理で盤面を組むインテリどもにとって、計算を狂わせるタチの悪いバグだ。
最後に、僕は視線を教室の隅へと向けた。
怒号と悲鳴が飛び交うパニックの中心から遠く離れ、ダンボールの上に丸まっている省エネのダウナー、九条拓人。
彼はヘッドホンを少しだけずらし、パーカーのフードを着た虚ろな目のまま、ただ一言だけ、誰に聞かせるでもなくポツリと呟いた。
「……愚図が。第三階区の狙いは『窃盗の告発』ではない。『覇権闘争の受諾』という盤面への強制引きずり出しだ。あのまま浅原を切り捨てていれば損失は個人の退学で済んだものを、リーダーの安い感傷のせいで、階区全体の首にギロチンが掛かったな、俺なら……いや、脳が焼ける。俺は寝る」
ピタリ、と。
そのあまりにも冷酷で、しかし盤面の構造を一瞬で解剖し尽くした頭脳。
名門製造工場、九条家が産み出したギフテッド。
普段は「呼吸すらカロリーの無駄」と伏せているが、あいつの脳内では今、切島の戦術の意図がコンマ数秒で完全にトレースされている。
僕はペパーミントのガムをクチャリと噛み、口角を微かに上げた。これが、学園のシステムが下した『平均値』の罠だ。
第三階区のは、全能力値がおそらく、平均60点前後のバランスの取れた秀才たちだ。彼らから見れば、『CES』が20の赤点まみれの第五階区は、ただの『廃棄物の群れ』にしか見えない。
だが、ここは廃棄物処理場ではない。
コミュニケーション能力も、体力も、倫理観も社会性も完全に欠落している代わりに、ただ一つの技能、特化型クズたちの掃き溜め。
――『劇薬派』。
それが、この第五階区に与えられた本当の派閥名だ。
平均でしか人間を測れないインテリは、この『異常な突出』を見落とす。
僕は視線を巡らせ、最後に、教卓の前で一人、唇を噛み締めている雨宮を捉えた。
彼女は今、絶望的な状況下で、どうにかしてこの『劇薬』たちを守り、束ねようと必死に知恵を絞ろうとしている。自分が傷つくことも厭わずに。
目の前で必死に虚勢を張っているこの少女の『市場価値』は、非常に高い。
学園指定のブレザーとストライプのシャツは、第一ボタンまできっちりと留められた真面目な委員長のような着こなしだ。
だが、絶望と重圧で彼女の呼吸が浅くなるたび、首元の緑のチェックリボンが揺れ、その息苦しいほどの貞淑さが、かえって彼女の年齢に不相応なほど豊かに発育した胸の起伏を、窮屈な生地のシワと共に生々しく強調してしまっている。
艶やかな濃紺のミディアムヘアの奥で、不安に揺れる宝石のような琥珀色の瞳。
――優等生の皮を被った、美少女。
だが本人は、自分の魅力の価値を1Rも理解していない。ただのお人好しな防弾チョッキとして、自分をすり減らしている。
僕はパイプ椅子をギシッと鳴らし、わざと下世話で、相手の神経を逆撫でするようなトーンで口を開いた。
「おい、雨宮」
「なに? 天堂くん。私、今みんなを助ける方法を一生懸命考えているんだけど」
雨宮が、殺気立った表情のまま怪訝そうに眉をひそめて振り返る。
「そんなに深刻に悩むことないだろ。お前、自分がどれだけ『最強の資本』を持っているか自覚してないのか?」
「……え? 資本?」
「その無駄に発育のいい身体と、上位階区のインテリどもがコロッと騙されそうな、庇護欲をそそる純粋な顔面だよ」
「なっ!」
「そんなバカみたいにお人好しで泥を被って悩むくらいなら、僕みたいにその『容姿』っていう最強の資本を、金持ちにレンタルしてやればいいじゃないか」
「つまり……」
「つまりだ、ちょっと涙声で上目遣いでもしてやれば、クラスのメシ代くらい、一瞬で稼げる優良物件なのになぁ。なら、僕がプロデュースしてパパ活の斡旋でもしてやろうか?」
「こ、このっ……! 最低のクズヒモ男!」
カァッ! と雨宮は耳の先まで真っ赤に沸騰させ、咄嗟に自分の豊かな胸元を両腕で交差して隠すように防衛本能から一歩後ずさった。
うん、その反応も百点満点だ。健全な倫理観を持った、可愛いお人好しの委員長。
「私は絶対にそんなことしない! 私がリーダーとして、誰かを騙したり身体を売ったりなんかしないで、真っ当にみんなを守ってみせる」
彼女は両腕で胸を隠したまま、僕を真っ直ぐに睨みつけた。
――いいぜ、リーダーちゃん。
そのバカバカしくもお人好しなエゴを本気で貫くなら、僕が極上のシナリオを書いやるよ。
気だるげに欠伸をしながら、ポケットの中で端末を弄り始める。
「あーあ。切島とか言ったっけ? インテリヤクザさんよ」
僕は、誰にも聞こえない声で、楽しげに呟いた。
「数字とルールで、人間を完全に管理できると錯覚しているインテリの傲慢さ。……『劇薬』が、その綺麗なルールブックを内側から泥まみれにして喰い破ってやるよ。せいぜい、足元に気をつけな」
カビ臭い地下室の暗がりで、僕は盤面をひっくり返すための最も残酷で美しい人間計算式を静かに組み上げ始めていた。




