第22話【切島悠河】ブラインドの看破①
俺は、防音設備によって外界のノイズが完全に遮断された第三階区の専用ラウンジで、本革の重厚なソファに深く体重を沈めていた。
傾けたグラスの底で、氷がカラリと乾いた音を立てる。
その心地よい空間を切り裂くように、無機質で冷酷なシステムアナウンスが、鼓膜を直接叩くように震わせた。
《――特任教務委員会より、全階区へ通達。第五階区リーダーである雨宮礼奈より、一学年第一回覇権闘争における『パッチ②』の申請が提出され、可決されました。なお、本法案には特別システム『ブラインド・オプション』が適用されています。消費90Aをジャックポットに移動します》
「……ほう?」
俺はグラスを静かにサイドテーブルに置き、空中に展開されたホログラムモニターに鋭い視線を向けた。
「90Aか、統治権力の残高をゼロにしたのか、雨宮」
思わず、独り言が漏れた。
学園のシステムにおいて、統治権力は階区の翌月の生活費配当と等価交換される、まさに命の数字だ。
それを完全に使い切るということは、来月の第五階区のRの配当算が「完全に消滅した」ということを意味する。
「チッ、切島さん、やっぱりあのゴミ共何かしてきましたね」
帯島は忌々しげに舌打ちをしてから、重い口を開いた。
「厄介ですよ、ブラインド・パッチは」
「案ずるな、帯島。これで奴らは、来月は水道水すら満足に飲めない状態に陥ることが確定した。後のことなど一切考えず、感情に任せて全財産をパッチに突っ込むなど、投資対効果の概念すら持たない、底辺特有の短絡的な自爆テロだ」
俺の通した凶悪パッチのコストは『50A』。それをシステム上から完全に無効化する『カウンターパッチ』を打つには、ルール上、相手の消費したAの2倍が必要だった。
だが奴らは、最初のフェイク法案で10Aを無駄遣いし、手持ちを90Aに減らしていた。カウンターを打つには、足りない。
俺の構築した『実戦格闘』と『敗者賠償法』という地獄のルールは、もうシステム上から剥がすことは不可能になったのだ。
「カウンターが打てない以上、残りの90Aで何か別のルールを追加してくるだろうとは思っていたが。まさか、要求コストの2倍を支払って条文の一部を隠すブラインドを使ってくるとはな……随分と小賢しい真似を覚えたじゃないか、雨宮」
帯島は困惑したように頭を掻き回した。
「切島さんには何か見えているんですか?」
「あぁ、解読してやるよ」
俺は姿勢を正し、端末を操作して、送られてきた第五階区の本命パッチの詳細をモニターに表示させた。
====================
【特任教務委員会 承認パッチ(申請:第五階区)】
『第五階区象徴の解放と特例条項(ブラインドパッチ適用)』
【申請内容①】
『象徴の解放』第五階区の『象徴』を任意の特区に配置可能とする。。
【申請内容②】
象徴が配置された特区において、いずれか一方の階区が、【██████】した場合、特例としてもう一方の階区の『配置メンバー』と『象徴』が発揮する【██████】として計上される。
【追加条件】
もし本特例が発動したにも関わらず、第五階区が『コロッセオ』特区の制圧に敗北した場合、第五階区の『コロッセオ』に配置された生徒全員を『即時退学処分』とする。
====================
「……はっ」
数秒間の沈黙の後。俺の口から、呆れ果てたような、ひどく乾いた笑いが漏れた。
普通の人間なら、見えない黒塗りの伏せ字に怯え、この得体の知れない罠を潰すために、さらなる統治権力を消費しようと足掻くかもしれない。
だが、俺の脳内にある論理は、この程度の欠けた数式など、ほんの数秒で完全に補完してみせた。
まず、一番下にある【追加条件】の異様さだ。『特区の制圧に敗北したら、コロッセオに配置された生徒全員が即時退学』。
「……いや、待て。この文言……『配置された生徒全員』だと?」
俺の脳内で、散らばっていた情報のピースが完璧な論理の形を成して組み上がった。
「くっ……ははははっ! 素晴らしい! そういうことか、雨宮礼奈! お前は狂っているわけではない、極めて冷徹な『法の抜け穴』を突いたのだ!」
「切島さん、どうしたんですか?」
俺は歓喜に打ち震えながら、その完璧なロジックを帯島に言語化した。
「AIは言葉の定義と算術でしかリスクを測れない。『配置された生徒全員の退学』という極大ペナルティを提示すれば、AIはそれを重く評価し、コストを劇的に割引する。……だが、もしそこに俺のルールを利用して『0名』を配置したらどうなる? 特区の制圧には当然失敗するが、退学になる『配置された生徒』は0人だ! つまり、数学上の実質的リスクはゼロ!」
俺は、貧困リーダーが放った乾坤一擲のリーガル・ハックに、心からの賞賛を送った。
「見事だ。退学という架空のハッタリでAIを騙し、安価で象徴を無力化するブラインド・パッチを通し、誰も傷つかずに逃亡する……貧困層の知恵としては満点だ」
「頭回るんですね。雨宮の奴、顔が少しいい、ただのお人好しかと思っていました」
雨宮に肩を入れする、帯島の表情がその返答のすべてを雄弁に物語っていた。
「お前、あの女のこと気に入てるのか?」
「いや、結構マブイなとは感じていますね。胸もありますし」
「俗物だな、お前は。まぁ、この覇権闘争で奴の退学は決定しているが」
「勿体無いですね、なんか」
帯島が感情を押し殺したような、平坦な声で答える。
「話を戻すぞ。このブラインドパッチは、所詮は『逃げ』の戦術。俺の勝利を揺るがすものではない。ポーカーを仕掛けたつもりだろうが、手札は俺の数式で完全に透けている」
雨宮がわざわざ追加条件の対象として『コロッセオ』のメンバーを指定してきたこと自体が、彼女の心理を如実に表している。
『実戦格闘』が行われる『コロッセオ』には、絶対に自分たちを配置したくないという恐怖からの逃避だ。
俺は、本丸である『黒塗りされた条文』の解読へとロジックを進めた。
《いずれか一方の階区が、【██████】した場合、もう一方の階区の出力は【██████】として計上される》
「……考えるまでもない。この黒塗りに隠した条件は、俺が叩きつけた『敗者賠償法』という劇薬を、奴らがどう受け止めたかを計算すれば、導き出せる一つの答えに行き着く」
俺は、グラスの底に残った氷をカラリと揺らし、自らが敷いた完璧なルールへの絶対的な陶酔を口にした。
「帯島。行動経済学における『損失回避性』を知っているか」
「そんしつ……回避? いや、聞いたことないですね」
怪訝な顔をする部下に、俺は冷笑を向けた。
「人間という生き物は、『1万Rを得る喜び』よりも、『1万Rを失う苦痛』の方を、およそ2倍も強く感じるように脳がプログラムされている……ましてや、だ」
俺の赤い瞳が、ホログラムの光を反射して細められる。
「相手は、毎月の支給額がたったの3万Rしかない第五階区の貧困層だ。パンを買うのにも残高を気にする、もやしと水道水で飢えを凌ぐゴミども。そんな連中に、俺の『サボタージュを選べば、個人の全財産の半分をシステムに強制没収される』というルールは、どのように映ると思う?」
「そりゃあ……マジで死刑宣告ですよ。なけなしの金が半分になったら、あいつらマジで来週には餓死しますね」
「その通りだ。Rの半減は、奴らにとって物理的な死に等しい」
俺は、立ち上がり、広げた両手で盤面全体を掌握するような仕草を見せた。
「これが、経済的恐怖という名の完璧な鎖だ。我々にボコボコにされる肉体的な恐怖? もちろんそれも恐ろしいだろう。しかし、骨は折れても治る。だが、この学園で金を失うことは、社会的な死から二度と這い上がれないことを意味する」
俺は自らの完璧な知略に絶対の自信を持っている。
「金がない人間はこの学園では、奴隷労働をするか退学するかしか選択肢はない」
「そうですね、飯が食えなくなりますから」
俺の作ったルールでは、『サボタージュ』を選べば、個人の所持Rの半分が没収される。明日のパンにも事欠く第五階区の貧困層どもにとって金の半減はすなわち餓死と同義。
だからこそ、奴らの脳内では、端末のサボタージュボタンだけは絶対に『押せない』つまり、選択できない状態にロックされているはずだ。これは経済学における絶対的な「損失回避」のバイアス。
「サボタージュで逃げる道が塞がれている。それで、まともに武断派の我々と殴り合うことなどするか? 奴らがそれを選べば、物理的に骨まで砕かれるだけだ」
サボタージュもできない。殴り合いもできない。
ならば、奴らが特区で被害を避けるために取れる『唯一の選択肢』は何か?
「俺がパッチで合法化してやった、『0名配置』による特区の完全放棄が選択される」
パズルのピースが、寸分の狂いもなくカチリとハマる。
第五階区の連中は、俺たちとの戦闘を避けるため、必ずどこかの特区を「0名」で放棄して逃げる。
「つまり、一つ目の黒塗りの条件は、【特区への配置人数が『0名』であること】だ」
「なるほど、そもそも殴られない様に逃げるってことですね」
「ああ。だが問題は、その0名配置をトリガーにして、雨宮が二つ目の黒塗りで何を引き起こそうとしているかだ」
「切島さん、ぜひ教えてください」
「この見えないに潜むシナリオを、最悪のケースから順に三つのパターンで検証するぞ」
俺はタブレットに、三つの仮説を机上に乗せた。
「まずパターンA。効果が『スコアの強奪』だ。俺たちの出力をそのまま第五階区のポイントとして吸収する、という逆転のルール」
「ポイント強奪ですか? それはかなりヤバいですね」
「だが、これは即座に棄却できる。AIは『等価交換』が絶対原則だ。他者の努力を丸ごと搾取するような不公平な極悪法案は、要求コストが最低でも数千Aに跳ね上がる」
「あ……」
「雨宮が『コロッセオ配置者全員の退学』というハッタリの担保を乗せたところで、最終コストが『45A』に収まっている時点で、そんな無法が通るわけがない」
俺の氷のような論理による一刀両断に、帯島は「確かに……」と胸を撫で下ろした。
しかし、格闘家特有の危機察知能力か、彼はなおも食い下がってきた。




