第21話【雨宮礼奈】ブラインド・パッチ
「貴方、またとんでもない策を……申請した条文の一部を『黒塗り』にして敵から隠す代わりに、ただでさえ足りない私たちの命を『2倍以上』も要求してくるシステムよ」
「これは相手に、わざと誤読させるための黒塗りだよ」
私は、条文の中の最も重要な二つの箇所を指定し、黒塗りの処理を施した。
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《【配置生徒全員が『サボタージュ』を選択した】→【██████】》
《【運動エネルギーの出力は自陣へのマイナス】→【██████】》
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ブラインド・パッチの仕様上、元の文字数が何文字であろうと、隠された部分は一律の長さのブロック【██████】として暗号化表示される。
もちろん、ブラインドする文字数が多ければ多いほど要求されるAの倍率は高くなる。
「これを切島くんが見たら、こう推理するはずよ。……黒塗りの条件は『特区への配置人数が0名』であり、効果は『数値の無効化』だ』って」
「あの頭のいい切島くんが? 彼なら罠を看破出来ると思うけど?」
「ううん。絶対に見破られないよ、千夏」
「どうしてそう言い切れるの?」
私は、震えそうになる膝を必死に抑え込みながら、冷たいコンソールに手を置いた。
そして、天堂くんが教えてくれたセリフ通りに千夏に噛み砕いて説明する。
「だって切島くんは、自分が作った『サボタージュしたら全財産半分没収』っていう経済的恐怖のルールを、絶対だと信じ切っているから」
「……あっ!」
千夏が息を呑む。
「明日のパンも買えない貧困層の私たちが、財産を半分奪われてまでサボタージュを選ぶはずがない。インテリの彼は、そう思い込んでいるの」
どんどん、私の頭がクリアなる。
「ねぇ、千夏、殴り合いもできず、サボタージュもできない私たちが、唯一選べる逃げ道はなに?」
千夏の眼鏡の奥の瞳が、大きく見開かれた。
「まさか……切島がさっき合法化してくれた、『0名配置』による特区の完全放棄……!」
「そう」
私は、タブレットに表示された『黒塗りの条文』を指でなぞった。
「……切島くんは、自分の頭の良さで、この伏せ字を勝手に誤読するはずだ」
私は、天堂くんがメモの端に書いていた言葉を、そのままなぞるように口にした。
「私たちが暴力と没収にビビって『0名配置』で逃げて、相手の『数値を無効化』つまり0点にする幼稚な罠だって……インテリの切島くんなら、そう深読みしてくれる」
千夏は絶句し、まるで信じられないバケモノでも見るように、口元を手で覆った。
「相手の圧倒的な自信すらも逆手にとって、自分から喜んで罠に飛び込ませるための心理誘導。じゃあ、切島は……」
「ええ。八神さんが暴走するリスクを避けるために、彼女を、私たちが『0名』で逃げるはずの空き地であるコロッセオかアビスに隔離すると思う」
説明しながら、私も自分の脳内のパズルが繋がり、罠の全貌が姿を現す。
……凄い。天堂くんが書いたこの悪魔の台本をなぞるだけで、私の頭の中まで冷たい氷で満たされていくようだった。
しかし、千夏の顔に一瞬差した希望の光は、すぐに『最大の懸念』によって青ざめた。
「……でも、礼奈。ちょっと待って」
「どうしたの、千夏?」
「決戦が始まって黒塗りが剥がれたら……切島はすぐに『出力をマイナスに反転させる本当の罠』に気づくはずよ!」
「ええ、間違いなく気づくね」
「だったら彼は、絶対に『攻撃をやめろ。お前もサボタージュして引き分けにしろ』って指示を出すわ。八神さんだってバカじゃない。もし指示に従って何もしなければ、0点対0点で引き分け」
「千夏の懸念はもっともだよ」
「そして礼奈、切島くんがもしこのブラインド・パッチすら読み切って配置を事前に調整したら、私たちは負けてしまう。……相手が自分から『マイナスになる出力』をしてくれる保証なんて、どこにもないじゃない」
千夏の指摘は、極めて論理的だった。私もそこは心配している。
相手が罠に気づき、行動を止めれば、この『0対マイナス』の自爆テロは不発に終わり引き分けになる。
……でも。
私は、教室の後ろで気だるげにガムを噛んでいる『魔王』の顔を思い出した。
「ええ、千夏の言う通りだよ。私にも、確約はできない。なぜ相手の象徴が、切島くんの『止まれ』という命令を無視してまで、確実に暴走してくれるのか」
「だったら!」
「――でも、信じるの」
私は、震える千夏の肩に優しく手を置き、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ返した。
「あんなに自分の力が全てだって振る舞うバケモノが、おとなしく他人の言うことを聞くはずない。……圧倒的な『ワガママ』は、絶対に組織のルールを壊すはず」
「ワガママ……?」
「うん、天才の欲望は、綺麗な作戦を内側から喰い破るの」
千夏には自信ありげにそう言い切ったけれど、本当のところ、相手の象徴がどうやって自壊するのか、詳しい算数は私にはまだ分かっていない。
天堂くんが私に渡した台本には、肝心な『結末』までは書かれていなかったのだから。
でも、あの悪魔の台本を書いた最低の詐欺師が、『天才の強欲は全体最適なんて絶対に聞かない』と断言したから。
私は、千夏に悟られないよう心の中でだけ彼の言葉を反芻し、彼が描いたその最悪な結末に……今はただ、縋るように祈るしかなかった。
私はそれ以上は、何も言わなかった。
「……背筋が凍るわ」
千夏が、自分の両腕を抱きしめて震えた。
「礼奈、あんた、いつからそんな恐ろしい盤面を描けるようになったの?」
「……みんなを守るために、一番『コスパの良い毒』を飲み込んだだけよ」
私は無機質なコンソールの光に背を向け、静かに歩き出した。
《ブラインド・パッチの適用を確認しました。要求コストは【基本45A】の倍率【2倍】、【90A】となります。第五階区の現在の所持統治権力は【90A】です。全額を決済し、申請を確定しますか?》
画面に表示された最終確認のボタン。
90A。つまり、私たちの全財産が、ここで完全にゼロになる。
もしこの天堂くんの目論見が外れたら、私は退学になり、残されたクラスメイトは飢えて、唯ちゃんは生活できなくなる。
――怖い。怖い、怖い、怖い。
心臓が痛いほどに早鐘を打ち、視界の端がチカチカと明滅する。
このまま逃げ出してしまいたいという弱音が、震える両足から這い上がってきて、私の正気を喰い破ろうとしていた。
たった数センチ、指先を押し下げるだけだ。
それだけで、私の人生が終わるかもしれない。
目の前の『最終確認』のボタンが、自分の首を刎ねる断頭台のスイッチに見えて、全身の血の気が一瞬で引いていく。
……だとしても。
お母さん。私、お母さんみたいに綺麗に泥を被ることはできないかもしれない。
みんなに嘘をついて、重い違約金という約束で縛り付けて、私の退学まで天秤に乗せて
それでも、誰も見捨てないために、私は天堂くんの悪魔の台本に縋る。
私は、自らの罪悪感と恐怖を冷たいコンクリートの底に封じ込め、ただひたすらに、みんなが生き残れることだけを祈った。
「……決済、確定」
もう迷いはい。
私は緑色のボタンをタップする。
《生体認証クリア。第五階区パッチ②『第五階区象徴の解放と特例条項(ブラインド・オプション適用)』の申請を受理。消費90A》
システム端末室の照明が、静かに明度を落とした。
「これで、全て完成したよ」
私は、ホログラムコンソールから手を離し、真っ直ぐに前を向いた。
切島くんの完璧な数式を、私たち底辺の泥と執念で食い破るための、最悪の泥仕合の準備が整った。
相手がどうやって自壊するのか、私にはまだ分からない。
その残酷な結末を知っているのは、あの悪魔みたいな台本を書いた天堂くんの頭の中だけだ。
【第五階区 財政ステータス】
◆残存統治権力 90A→0A(ブラインド適用により全損)
◆階区生の口座 29名→0R(一色唯のみアカウントへ退避中)




