第19話【切島悠河】インテリヤクザの判断
氷がグラスに当たる微かな音が、特級の防音設備が施された第三階区のVIPラウンジに静かに響いた。
俺、切島悠河は、最高級のレザーソファに深く腰を沈め、手元のタブレット端末に表示されたシステムアラートを冷ややかな目で見下ろしていた。
《第五階区リーダー雨宮礼奈より、一学年第一回覇権闘争における『パッチ』の申請が可決されました。申請法案名『絶対的弱者保護法』消費10Aをジャックポットに移動します》
「……10A」
俺は微かに眉をひそめた。
この学園のAIは、敵の行動を制限し、自陣のみを有利にする不公平な法案に対しては、徹底的に厳しい。
俺が通した『実戦格闘』と『敗者賠償法』という二つの凶悪な特例ルールですら、AIを錯覚させるダミーテキストである引き分け時没収ルールを仕込み、さらにアカデミアの制圧権を完全に放棄するという重い担保を差し出して、ようやく「50A」まで値切ったのだ。
「それが、たったの10Aだと?」
どんな魔法を使えば、そこまでの劇的なコストダウンを引き出せるというのか。
俺は、ホログラムモニターに展開された第五階区のパッチの条文をスクロールして、その【追加条件】の欄に目を落とした。
《第五階区リーダー雨宮礼奈の即時退学』および、『象徴一色唯の年間配当ゼロ』》
「……はっ」
数秒の沈黙の後、俺の口から乾いた笑いが漏れた。そして次の瞬間、腹の底からこみ上げてくる冷笑を抑えきれず、肩を揺らして声を出して笑った。
「くっ……はははっ! なるほど、そういうことか。リーダーの退学と、重要人物である象徴の配当没収! 確かにそれほどの極大ペナルティを天秤に乗せれば、AIも『両陣営にとって公平な等価交換だ』と錯覚してコストを割引するだろうな」
俺はグラスの炭酸水を呷り、愚かな底辺階区のリーダーを思い浮かべた。
――雨宮礼奈。
正義感だけは一人前で、他人のために泥を被ることを厭わないお人好しの愚物。
「なんという三流だ。たかがパッチ代をケチるために、自らの人生と、象徴の資産を担保に差し出すとは。底辺特有の自爆テロ。実にコスパの悪い、見苦しい自己犠牲だな」
俺からすれば、自身の退路を完全に塞ぐような非合理な選択など、あり得ない。
彼女の愚直なまでの責任感は、ただの感情の暴走でしかない。
あの『廃棄派』には、俺の論理に対抗できるほどの知恵者はもう(・・)存在しない。
俺は冷笑を収め、インテリヤクザとしての氷のような思考モードへと切り替わった。
問題は、雨宮礼奈が自らの首をギロチンに突っ込んでまで通した、パッチの中身だ。
「……なるほど」
俺は指先で顎を撫でながら、相手の狙いを数秒で完全に解読した。
「俺が設定したルールで『サボタージュ』を選べば、ペナルティで『全財産の半分』を没収される。日々のコッペパンにも事欠く第五階区の貧困層どもにとって、Rの半減は即ち餓死と同義。だから奴らは、サボタージュボタンだけは絶対に押せない」
俺の仕掛けた『敗者賠償法』という経済的恐怖が、完全に機能している証拠だ。
「だが、かといって俺たち第三階区の武断派エリートとまともにコロッセオやアビスの特区で実戦格闘をすれば、武力差で骨も残らない。そこで雨宮が考えた苦肉の策がこれか」
サボタージュはしない。
しかし、特区内では抵抗せず、ただ力を抜いてそのまま突っ立ってやり過ごす。
俺たち第三階区の血の気の多い猛獣どもが、目の前の無抵抗な敵に対して血に飢えた獣のように殴りかかってくれば――この『絶対的弱者保護法』が発動し、第三階区が反則負けになる、というカウンター。
「幼稚だな。相手の暴力的な衝動に依存した、他力本願のギャンブル法案だ」
俺は携帯で、第三階区の全生徒に向けて、チャットで絶対的な指示を飛ばした。
『階区総員に告ぐ。第五階区が通したパッチの内容は確認したな。明日のコロッセオおよびアビス特区において、相手が無抵抗の姿勢を見せている場合は指一本触れるな』
「ですが切島さん、目の前に敵がいるのに、殴らずに放置しろて言うですか?」
血の気の多い部下の一人、巨漢の総合格闘家――帯島竜司が不満の声を上げるが、俺はそれを氷の刃の声で一刀両断した。
「お前は、血の匂いに釣られて罠に突っ込むだけの安い獣か? 俺たちは合理的な武力を行使するエリートだ。相手の幼稚な罠にハマって不戦敗になるなど、猿の所業だ」
俺は、システムの仕様を理解した上での解答を突きつけた。
「よく考えろ。勝敗条件は『総合出力ポイントの合計値』だ。相手が反則勝ちを狙って全員無抵抗、つまり運動エネルギー0%でやり過ごそうとしているのなら、我々は身体に力を込めてエネルギーをシステムに検知させればいい」
「それって、まさか……」
「つまり……ただ立って、筋肉に少し力を入れるだけで、我々の運動エネルギーは『1%以上』になる。1%対0%。殴らずとも、我々の勝利は揺るがない」
帯島がハッと息を呑む。
「なるほど! 相手の罠を無視して、立っているだけで不戦勝できるってことですね」
「帯島、格闘家であるお前からしたらつまらないゲームだと思うが」
「俺の闘争心なんて、気にせずに」
「あぁ、悪いな。だが、暴力とは、振るう前が最も価値が高い。奴らがR没収に怯え、無抵抗を維持している横で、俺たちは汗一つかかずに特区を制圧する方がいいだろ?」
「はい、切島さんの言う通りです」
「これが、最もコスパが良く、最も確実な勝利の数式だ」
スマホをしまい、俺は深くソファに背を預けた。
雨宮のパッチは、俺の『放置して不戦勝』という完璧な論理の前に、完全に無力化された。
彼女が退学という極大リスクを背負ってまで通した法案は、ただの空振りのゴミだ。
「でも、あいつらもこのまま座して死を待つなんて……」
帯島の言葉に対して。俺の脳内は、数字の面からも絶対的な優位を弾き出していた。
「安心しろ、特任教務委員会のルールにおいて、相手が通したパッチを無効化する『カウンターパッチ』を打つには、相手が消費したAの2倍が必要となる」
「切島さんが通した凶悪パッチのコストは50A……」
「そうだ、それを無効化するには、第五階区は100Aを支払わなければならない」
「あぁ!」
帯島は納得したのか、頭を上下に振る。
「奴らは今回のパッチで『10A』を消費した。つまり、奴らの手元に残された統治権力は、100Aから引いて『90A』だ。俺のパッチを消し去るには届かない」
算術的な、完全な詰み(チェックメイト)。
もう、第五階区には俺の『実戦格闘』と『敗者賠償法』という凶悪な特例ルールをシステム上からは消し去る手段は残されていない。
やはり、貧困層の愚物は感情でしか動けない。
『10A』の安さに目が眩み、全体の残高計算を見誤ったのだ。
俺がこの覇権闘争で敗北する確率は、これで限りなく「ゼロ」になった。
「だが、一つだけ不確定要素があるな」
「何ですか?」
俺の視線は目の前の帯島から、ラウンジ奥で、空になったシャンパンボトルを蹴り飛ばしながらつまらなそうに欠伸をしている――第三階区の象徴、八神燐花へと向けられた。
「あぁ? なんだよ、切島ぁ。殴っちゃダメなら、アタシは明日誰をミンチにすればいいんだ?」
金色の猛獣の様な目で睨んでくる戦闘狂の女。
俺たち武断派エリートは、俺の指示に従い、「殴らずに勝利する」という合理的な選択ができる。
だが、この女は違う。
燐花の行動基準は常に「楽しいか」のみだ。
特区の盤面に降り立ち、目の前に第五階区の連中が無抵抗で突っ立っているのを見れば、彼女はどうする?
『あ? なんだお前ら、殴り返してこねぇの? つまんねぇ』
そう言って、俺の指示など無視して、退屈しのぎに第五階区の連中を物理的に粉砕しにかかる危険性はあるだろう。
もし燐花が雨宮パッチの「無抵抗の相手への攻撃」を行ってしまえば、第三階区は反則負けとなり、特区の制圧権を失う。
圧倒的な暴力の天才ゆえに、自軍の論理すらも破壊しかねない諸刃の剣。
しかし、燐花もバカじゃない論理的に会話すれば、納得はしてくれる。
更に純粋な知能で言えば、俺より優秀だ。
彼女の配置場所は、慎重にコントロールしなければならないな。
奴の暴力を活かしつつ、雨宮のパッチの罠である反則負けに引っかからないための、隔離空間を選ばねば。
俺はタブレットの盤面予測図を開き、五つの特区の配置シミュレーションを回し始めた。
第五階区の残高は90Aだ、対抗パッチは打てない。
俺の完璧な『敗者賠償法』を恐れる奴らは、必ずどこかで致命的な妥協を犯すはずだ。
知性も、資産も、権力も、全てにおいて俺たちが上回っている。
ただ立っているだけで、貧困層から全てを合法的に奪い尽くす。
俺は、自らの構築した一寸の隙もない完璧な法解釈と論理の城壁に、深い満足感と絶対的な優越感を覚えながら、静かに炭酸水のグラスを傾けた。




