第16話【雨宮礼奈】詐欺師からの助太刀
「あー、なるほどね。マジで雨宮、スッゲーじゃん」
これまでずっと教室最後列で沈黙天堂くんが、大きな欠伸と共に口を開いた。
彼は着崩した制服のポケットに手を突っ込み、ペパーミントのガムをクチャリと噛みながら、心底ダルそうに自分の端末を掲げた。
「えー、マジで助かるわ。つか、僕さぁ、明日不良に殴られたりすんの、絶対イヤなんだけど。顔に傷とかついたら最悪じゃん? これにポチッとサインすれば、金も奪われずに安全にサボれるんでしょ?」
天堂くんは、この絶望的な空気など一切読めていないような、ただの『何も考えていない無能』のトーンで言い放った。
「なら、迷う意味なくない? ……はい僕の全財産、340R全部唯ちゃんに送金。あーあ、これで明日は特区で堂々と昼寝できるね。サンキュー、雨宮」
ピロンと。
静まり返った教室に、天堂くんの端末から送金完了の軽い電子音が鳴り響いた。340R。自販機でジュースを2本買えば消える、リアルすぎる残高。
天堂くんが稼いだ100万Rは既に私に送っている。
そして、この『340R』は100万Rを除いた最後の残高。
あまりにもバカ丸出しで、何も考えていない、無能な生徒の極致。
しかし――その『一番何も考えていない天堂くんが、あっさり全財産を手放した』という事実が、みんなの空気を一瞬で塗り替えてしまった。
『誰かが先にやって安全なら、自分も急がないと損をする』という、焦り。
昨夜、彼が言っていた『助太刀』が、今、私の目の前で実行されていた。
「お、おい! あの顔だけのバカが、もう送金しちまったぞ!」
田中くんの顔に、明らかな焦燥感が浮かぶ。
「あいつ、たった340Rしか持ってないからって! ま、待てよ! もし俺たちがこのままサインするのを渋って、明日切島に全財産の半分を奪われたら……天堂だけがノーダメージってことか?」
「そ、そんなの絶対嫌だよ! 私たちも損なんてしたくない、エステに行くお金やコスメ代がなくなる!」
天野さんがヒステリックに叫び、慌てて自分の端末の画面を叩き始めた。
「俺も送る! 出遅れて自分だけカツアゲされるのはごめんだ!」
「わ、私も! 唯ちゃん、後で絶対返してね!」
「拙者も……アニメグッズの残りの資金、託すでござる」
雪崩を打つように、クラスメイトたちは次々と自らの端末の画面をタップし始めた。
ピロン、ピロン、ピロン。
次々と鳴る承認の電子音。
みんなの必死な顔を見る限り、誰も画面を下にスクロールなんてしていないはずだ。
背景と同化したあの極小文字で書かれた恐ろしい特約に、誰一人気づかないまま。
昨夜、天堂くんが言っていた通りだった。
『人間は「自分が守られる」と信じた時、規約なんて絶対に読まない。現代の奴隷契約は、鎖じゃなくてスマホのタップ一つで完了する』って。
みんな、第三階区に奪われる恐怖から逃れたい一心で、自ら進んで、天堂くんが用意した「目に見えない鎖」を首に巻いていく。
私が、みんなを騙している。
ごめんなさい……本当にごめんなさい。
もちろん、私が天堂くんから預かったこの100万Rも、一緒に唯ちゃんの口座へ移してゼロにする。
1Rたりとも切島くんには渡さない。
「ふぇっ? ふぇぇええっ!」
教室の最前列で、金庫番に設定された唯ちゃんが、自分の端末から鳴り止まない通知音にパニックを起こしていた。
「礼奈ちゃん! 私の口座に、見たこともない額のお金がどんどん振り込まれてくるんですけどぉ! 5万、10万……ひゃ、150万R超えましたぁ! 私、なんか悪いことしましたかぁ?」
九条くんだけは鋭い目で私を見つめながら、最後の一人として唯ちゃんの口座に送金を完了した。
「わぁ! お金がいっぱいですぅ!」
自分がクラスメイト二十九人分の命と、明日の決戦における鎖のスイッチを握っている自覚がゼロの象徴。
その少し滑稽な叫び声を聞きながら、私は第五階区のマスタータブレットで集計データを確認した。
《第五階区29名のアカウント残高『0R』》
終わった。
天堂くんから階区生に見せる為に預かった100万Rと階区生全員の約50万Rを全て唯ちゃんに送金が完了した。
これで、第五階区の生徒は全員、物理的に「奪われるものがない無敵の人」になった。明日の特区で、切島くんの『サボタージュしたらR半減没収』という恐怖による支配は、完全に無力化される。
ごめんなさい、みんな。本当にごめんなさい。
私は、教卓の陰で、震える唇を強く噛み締めた。
みんなを騙している。ピンハネを隠して、全財産を手放させている。
でも、こうするしかなかった。
違約金100万Rという『絶対に破れない約束』でみんなを縛っておかなければ。
明日の『コロッセオ』や『アビス』で、屈強な武断派に凄まれたら、みんなは本能的にパニックになってサボタージュを解除し、逃げ出そうとしてしまうかもしれない。
もしそうなれば、大怪我をしてしまう。それだけは絶対に防がなきゃいけない。
私が、全部の泥を被る。みんなに恨まれてもいい。
後でピンハネの20%分を責められたら、私が自分の食費を切り詰めて、自腹で少しずつ全員に返す。私が一日一食の特売パンになれば済む話だ。
私は、お母さんの生き方をなぞるように、ただひたすらに「誰も見捨てない」という誓いを自分自身の心に深く刻み込んだ。
私が全リスクを負う。だから、みんなは私の言う通りに、安全な場所で息を潜めて生きていてほしい。
教室の最後列を見ると、スマホゲームをしているフリをした天堂くんが、画面の向こうから私に向かって、ほんの一瞬だけ『よくやった』とでも言うように、不敵に口角を上げたのが見えた。
その底知れない笑みに、私は背筋が粟立つような悪寒と、同時に不思議なほどの絶対的な安心感を覚えた。
「……よし」
私は、静まり返った教室に向けて、もう一度声を張り上げた。
「みんなのお金は、唯ちゃんの口座で完全に保護された。これで、切島くんの理不尽な略奪からは逃れられる。そして、皆んなのお金は私が責任持って全額返すよ、だから全員安心して!」
深い安堵の溜息が、教室のあちこちから漏れる。
「でも、お金を守って全員で降参すれば、結局特区の点数は0になって、覇権闘争には負けてしまう。……だから、今度は『勝つため』の行動を起こすの」
私は、タブレットの画面を、『パッチ・プログラミング申請フォーム』へと切り替えた。
手元にあるのは、私たち第五階区が持っている命の数字、初期支給の『100A』。
「これより、第五階区リーダー雨宮礼奈の権限において私たちの所持する統治権力を消費し、第三階区に対する『対抗パッチ』を申請します」
「対抗パッチ? でも雨宮、どんなルールを通すつもりだ? 相手にはあの処刑姫、八神燐花がいるんだぞ?」
田中くんが不安そうに問いかける。
「大丈夫。……最高のパッチを仕掛けてくるから」
私は、昨日天堂くんからインストールされた、AIの形式主義をハッキングする魔王の法案を胸に抱き、力強く宣言した。
「第五階区は、絶対に負けない」
カビ臭い地下教室に、私の声が響く。
ただ殴られるだけの無力な盾じゃない。私は、嘘をついてでも、みんなを安全な場所に閉じ込めてでも、絶対に勝利を掴み取る。
私はタブレットを握り締め、特任教務委員会システム端末室へと向けて、重い鉄扉を開けた。




