第13話【雨宮礼奈】天堂璃王の策略
消灯時間を過ぎた、深夜の第五階区の地下教室。
クラスメイトたちが重い足取りで寮へと帰った後、私一人だけが、カビ臭い教室の教卓に残り、パッチ申請画面を開いたタブレットを睨みつけていた。
「……うぅっ」
誰もいない教室で、張り詰めていた糸が切れ、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
怖い。本当は、すごく怖い。
第三階区の不良たちに殴られるのも怖いし、クラスのみんなの生活費を失わせて恨まれるのも怖い。
リーダーなんていう責任、私には重すぎる。お母さんみたいに、他人のために泥を被って、最後は自分がボロボロになって壊れてしまうんじゃないかって、不安で押し潰されそうになる。
お母さん、どうすればいい?
「ごめんなさい、みんな……私、どうすればいいか分からないよ……」
腕の中に顔を埋め、声を殺して泣きじゃくった。
その時だった。
「あーあ。相変わらず、コスパの悪い泣き方してんな、リーダーちゃん」
ギィ、と重い鉄扉が開き、底抜けに気だるげな、甘く退廃的な声が地下室に響いた。
私はハッとして顔を上げる。
入り口の暗がりから、ブレザーを肩に引っ掛け、ペパーミントのガムをクチャリと噛みながら歩いてきたのは――天堂璃王だった。
昼間、私が覇権闘争の受諾ボタンを押した時、彼は「帰って寝るわ」と教室から逃げ出し、どこかでサボっていたはずだ。
「て、天堂くん……? どうして、こんな時間に」
私は慌てて制服の袖で涙を乱暴に拭い、彼を睨みつけた。
「自分の階区がこんな大変な時に、どこでサボってたのよ! 切島くんが『降参したらRを半分奪う』なんて悪魔みたいなルールを通してきたのよ。私たちがどれだけ絶望してるか――」
「あー、うるさい。深夜に喚くなよ、腹減るだろ」
天堂くんは私の悲痛な叫びをハエでも払うように手で制し、教卓の前に立つと、ポケットから自身のスマホを取り出した。
「僕がどこで何をしてたかって? 言っただろ、昼間に行った……」
彼は端末の画面を操作し、そのディスプレイを無造作に私の方へと向けた。
「『ヒモ活』の、残業だよ」
「え……?」
私は、天堂くんに突きつけられた端末の画面の数字を見て、呼吸を止めた。
そこに表示されていたのは、システムで管理されている天堂くんの個人口座の残高照会画面。
並んでいた数字を見て、私は自分の目を疑った。
桁が、第五階区の平均とは明らかに違う。
《天堂璃王・個人口座残高 100万340R》
「ひゃく、まん? な、なんでこんな大金が……!」
「だから、お前が今日の昼に見てた光景と同じだ、上位階区の金持ちのお姉様方に、僕のこの最高級の顔面と甘い言葉をレンタルしてあげた『正当な報酬』だって。ちょっと泣き落としで『今月のRが厳しくて退学になっちゃうかも』、『デートをエスコートする』とか言ったら、みんなポンポン送金してくれたよ。……ホント、エリートの承認欲求ってのは安いセキュリティだよね」
天堂くんは悪びれる様子もなく、セルリアンブルーの瞳を細めてケラケラと笑った。
「これで、来月のクラス全員のメシ代の100Aの穴埋めはできた。お前が対抗パッチに、第五階区の全額突っ込んでも、僕がこの裏金で補填してやる。だから、餓死の心配はしなくていい」
私は言葉を失った。
天堂くんが昼間に見せていた最低なクズ行動。それが、まさかこの絶望的な局面で、第五階区が戦えない理由。
つまり、1A=1万Rのジレンマを防ぐための、完璧な防波堤として機能するなんて。
「これで大砲かバターかというジレンマはなくなる訳だな」
「で、でも……」
私はハッとして反論する。
「資金ができたからって、切島くんのパッチはどうするの? もし私たちが特区でビビって『サボタージュ』を選べば、結局今の全財産の半分をシステムに奪われちゃうんだよ」
「バカだな、お前。システムシステムって、お前も切島と同じ『事務屋』の顔になってるぞ」
天堂くんは教卓に身を乗り出し、私の顔のすぐ近くまで顔を寄せた。
ペパーミントの香りが、微かに鼻を掠める。
「いいか? 敵が『金を人質にする』なら、答えは簡単だ」
天堂くんの深みのあるセルリアンブルーの瞳の奥に、昏く底知れない、魔王のような笑みが浮かんだ。
「僕たち第五階区の全員の口座残高を、決戦前に意図的に『0R 』にすればいいんだよ」
「……え? 全財産を、ゼロに?」
「ああ。特任教務委員会のAIは、形式主義のバカだ。口座に『無い袖は振れない』ってだけで、取り立てを自動で諦める。……つまり、決戦開始の直前に、自分たちが持ってる全財産のRを、指定の口座へ一時的に全額送金し、退避して隠すんだ」
天堂くんの言葉が、私の脳内に雷のような衝撃を走らせた。
「財産をゼロにして、『奪われるものがない無敵の人』になる……!」
「正解。敵が金を人質にするなら、その人質を盤面から消し去ればいい。システム上、存在しない金は没収できないからな。これなら、特区でどんなに凄まれても、経済的恐怖によるRの没収を感じることなく、堂々とルールの『サボタージュ』を選んで怪我を回避できるだろ?」
天堂くんのやり方は、なんて非常識で、悪魔みたいなんだろう。
彼は最初から、切島くんの作ったルールに正面から付き合う気なんて、1ミリもなかったんだ。
「でも、待って」
私は冷静さを取り戻し、一つの疑問を口にした。
「その『一時的な避難先』って、誰にするの? 他の階区の生徒の口座に預けたら、そのまま持ち逃げされるかもしれないし……」
「預け先は、僕らの第五階区にいるだろ。一番安全で、絶対に退学にならない『特権階級』の金庫番がさ」
天堂くんはニヤリと笑い、一人の名前を挙げた。
「象徴の、一色唯だ」
「唯ちゃんに!? どうして!」
「唯ちゃんは今年度から一学年にのみ配置されたメガスポンサー企業の令嬢である象徴。だから、そう簡単には退学処分にならない。彼女を退学させることは、学園が巨大出資者の顔に泥を塗ることを意味する。システムは、彼女のペナルティを金銭に変換することはあっても、物理的な『退学』だけは選べないようにされてるんだよ。金庫番としてこれ以上ない無敵の防壁だ」
天堂くんは少し、思考をめぐらせながら私の目を見た。
「それに、今回の決戦で彼女を、ルール適用外の『サロン』に配置して隔離しておけば、敵と接触することもない。それに、あのドジっ子が他人の金を持ち逃げするような悪党に見えるか? 金庫番として完璧だろ」
「確かに……そうかもしれないけど」
「で、闘争が無事に終わったら、システムの『送金』制度を使って、退避させていた全額をそれぞれの口座に返金する」
天堂くんはタブレットを操作し、あらかじめ作成していた『電子契約書』のフォーマットを私に見せた。
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《R防衛・完全保護プログラム》
【同意する】(緑色・特大ボタン)
【特約①】
本契約は覇権闘争終了後、72時間以内であれば無条件で契約解除が可能であり、受託者一色唯は全額を即時返金する義務を負う
【特約②】
本契約受諾者は、第一回覇権闘争において『アジト』配置者以外はサボタージュを選択・維持する絶対義務を負う。もし、恐怖等によりサボタージュを解除し、1%以上の『総合出力(運動エネルギー)ポイント』を検知された瞬間、支払い先を象徴一色唯とした違約金100万Rの負債が発生する。返済不能な対象者は即刻退学とする。(極めて小さな文字)
【特約③】
闘争終了後の返金時、システム構築および事務手数料として、送金額の「20%」をシステム作成者が申し受ける。ただしシステム作成者が指定した自己資金は免除とする(極めて小さな文字)
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私は画面に表示された契約書に対して綿密に目を走らせ、その最後の一文でピタリと視線を止めた。
「……に、にじゅっぱーせんと!」
私は思わず大声を上げる。
「ちょっと待って、20%って……みんなの全財産の5分の1を、手数料として没収するってこと? そんなの、ただのピンハネじゃない!」
「人聞きが悪いな。『王様のコンサル料』と言ってほしいね」
天堂くんは、ガムを膨らませ、パチンと割った。
「僕がこれから台本を書いて、僕が100万の担保を用意して、僕がシステムを組んでやるんだ。タダ働きするわけないだろ。……わざわざ全員のRを唯ちゃんのアカウントに集約させるのは、その方が僕がもらえる20%の総額がデカくなるからだよ」
「最低……! 第五階区の危機を利用して、自分の利益を最大化しようとしているなんて。ただの悪徳詐欺師じゃない!」
私は呆れ果てて彼を睨みつけた。
この男は、味方ですらない。ただ、自分の懐を肥やすために、盤面を引っ掻き回して遊んでいるだけだ。
「嫌なら、切島のルールに従って、闘争に負けて、統治権力(A)も失って、個人の全財産(R)の半分をヤクザにむしり取られなよ」
「でも……」
「でもじゃない。Rだけの20%のピンハネか、覇権闘争に負けてAも奪われて、Rも50%の略奪を許す。どっちが『コスパが良い』か、バカでも分かるだろ?」
「……っ!」
私はギリッと奥歯を噛み締めた。腹立たしいが、普通に考えれば彼の言う通りだ。切島くんに50%奪われるより、彼に20%の手数料を払ってでも80%の資産を守れる方が、遥かにお得だ。
「……分かった」
私は深く、カビ臭い地下室の空気を肺の奥まで吸い込み、目の前で気だるげに立つ『魔王』――天堂璃王を真っ直ぐに見据えた。
「態度は最低だけど、天堂くんの『ゼロ円防衛プログラム』が、今このクラスを救う唯一の手段だっていうのは認めるよ。明日、私がクラス全員を説得してその契約書にサインさせる」
「それでいいよ、雨宮」
天堂くんは、暗がりのなかで満足げにペパーミントのガムをパチンと鳴らした。
しかし、私の胸にはまだ、冷たい棘のような不安が残っていた。理不尽なルールの抜け穴を突く。だからこそ、一つの『綻び』が命取りになると思った。
「でも、切島くんほどの頭がいい人間がこの戦略を看破できないのかな?」
「安心しろ。システム上、個人の口座間送金ログは学園のプライバシー保護法により、他階区のリーダー権限であっても完全にはマスキングされている。だから事前に気付くことは、僕らの階区のバカがとち狂って切島に自己申告しない限り『基本的』には不可能だ」
「もし仮にだよ、スパイがいたら?」
覇権闘争の決戦は、明後日だ。
もし明日の朝のホームルームで資金を集めた直後に、スパイが第三階区に密告すれば、パッチ申請期間はまだ丸一日以上残されている。
インテリヤクザの切島くんなら、即座に私たちが何かしらの『対抗ルール』を追加申請して、資金退避を無効化してくるかもしれない。
「それは盤面崩壊、チェックメイトだな」
天堂くんはあっさりと肯定し――その直後、深海のように昏いセルリアンブルーの瞳を細めて、ニヤリと笑った。




