第11話【雨宮礼奈】 2日前の絶望
怖い。私はここから、今すぐ逃げ出してしまいたい。
ギュッと、痛いほど両手を握りしめた。第五階区に架けられたギロチンの縄が、ジワリと肌に食い込むのを感じる。
《パッチ内容の開示を開始します――》
その無機質なシステムアナウンスが響き渡った瞬間、カビ臭い地下教室の空気は、まるで冷たい泥に沈められたように重く凍りついた。
教室の前方に設置された旧式のホログラムモニターが、血のような赤色に点滅する。
そこに表示されたのは、第三階区が、「50A」という莫大なコストを支払って強行した、悪魔のようなルールの全貌だった。
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《 特任教務委員会承認パッチ 第三階区 》
【パッチ名称】
『象徴の解放そして特例実力行使、及び敗者賠償法』
【特例ルール①】
『コロッセオ』および『アビス』特区において、ステータス数値勝負を無効化しセンサー保護ウェア着用の『実戦格闘』を許可する。勝敗は運動エネルギーの『総合出力ポイントの合計値』で決する。
【特例ルール②】
当該特区において、【サボタージュ(降参)】を選択した生徒は、ペナルティとして『個人の所持Rの半分を勝者へ強制譲渡』しなければならない。
【特例ルール③】
『最小一名配置義務』を無効化し、特区への『0名配置(完全放棄)』を合法化する。0名配置をした階区は、無条件でその特区を相手階区が制圧とする」
【追加条件】
第三階区は『アカデミア』の制圧権を放棄する。また、両陣営のサボタージュ等で特区が『勝者不在(引き分け)』となった場合、連帯責任として『サボタージュの有無に関わらず』全参加者から所持Rの半分を学園システムが強制没収する。
【特任教務委員会裁定】
1つの特区放棄と敵と味方にも劣勢条件を課すという重いリスクを評価し、要求コスト50Aで可決。切島悠河の『象徴の解放』により八神燐花の参戦を承認。
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絶望は何度もやってくる。
「……うそ、でしょ」
私の口から、掠れた声が漏れた。
隣でタブレットを覗き込んでいた千夏の顔からも、サァッと血の気が引いていくのが分かった。
静寂を破ったのは、田中くんだった。彼は、頭を抱えて絶叫した。
「実戦格闘? ふざけんなよ、俺たちは喧嘩なんてしたことないんだぞ! あのヤクザみたいな連中と同じ場所に放り込まれて、合法的にボコボコにされるってことかよ!」
「だ、だったら『サボタージュ』を選んで降参すれば……」
第五階区で最も気弱な小動物系女子、月野莉亜ちゃんは怯えたハムスターさながらにぷるぷると震え、今にもフッと消え入りそうな細い声で紡ぐが、隣にいた工藤くんが青ざめた顔で首を振った。
「莉亜ちゃん、ルールその二を見ろ。サボタージュして逃げたら、ペナルティで全財産の半分を第三階区にむしり取られる。俺の口座、今月を生き延びるギリギリのRしか残ってないのに、半分取られたら確実に来週には餓死する、そしたら退学して実家に帰るか他の階区からRを稼ぐために理不尽な奴隷になるしか道はない……」
「じゃ、じゃあコロッセオとアビスに誰も置かずに『0名配置』で逃げれば……」
「そした、戦う前から相手の2勝が確定するんだよ。5つの特区のうち、3つ取られたら負けだ。しかも、相手には全ステータスお化けの八神燐花がいるんだぞ。そんなの、絶対無理に決まってる!」
「ねぇ、雨宮さん、マジでどうすんのよこれ? どのみち負けるじゃん」
第五階区の女子を仕切っている、天野グループの天野芽衣さんが不協和音を周囲に撒き散らしながら、同じグループの浦部栞さんを焚き付ける。
「芽衣ちゃん、マジそれな。雨宮さん、どう責任取るの?」
教室は再び、阿鼻叫喚の地獄へと突き落とされた。戦ってボコボコにされれば、大怪我をして治療費でRが飛ぶ。
逃げてサボタージュすれば、全財産の半分を合法的にカツアゲされる。
かといって特区を放棄すれば、覇権闘争そのものに敗北し、階区の『A』が減り、結局来月の予算が削られて全員が飢え死にする。
戦えば殴られ、逃げれば全財産を奪われ、何もしなければ餓死する。
完全に逃げ場を塞がれた三つの地獄。
これが、インテリヤクザと呼ばれる切島くんの知略。直接手を下すまでもなく、相手の選択肢を奪い、自滅を強要するルールだった。
「雨宮!」
田中くんの血走った目が、私を射抜く。
「お前が浅原なんて庇って覇権闘争なんか受けるから、こんなことになったんだ! どうすんだよ!」
「それは……」
「俺たちの『100A』を使って、対抗パッチを申請してくれよ。あのクソみたいな実戦格闘ルールを無効化してくれ!」
「うっ……!」
私は唇を強く噛み締めた。
敵のパッチを完全に無効化する『カウンターパッチ』。それを打つには、相手が消費したAの倍……つまり、今回は『100A』が必要になる。
「無理だよ……。私たちが持っている初期Aと相殺するしかない。対抗パッチを打つと次の月で全員餓死する……」
「じゃ、じゃあ別のパッチで、なんとか相手のルールを無効化して……」
「Aを全部使い切ったら、どうなるか分かってるの!?」
限界だ、私は悲痛な声で叫び返した。
「もしここで100Aを使い切って、それでも負けたら……全員完全に配当ゼロ。来月は誰もご飯を食べられなくなるんだよ!」
私の言葉に、田中くんも、工藤くんも、他のクラスメイトたちも、言葉を失った。戦うための武器を取れば、味方が飢える。武器を取らなければ、蹂躙されて奪われる。
学園のシステムが作り出した『為政者のジレンマ』が、巨大なギロチンの刃となって私の首筋に冷たく当てられていた。




