第1話【雨宮礼奈】泥星の産声
「……お腹、空いた」
カビ臭い地下室の錆びたパイプ椅子の上。
私、雨宮礼奈は蛇口から滴る水道水で強引に胃の粘膜を誤魔化しながら、パサパサに乾いた特売の塩コッペパンの残り半分を親の仇のように睨みつけていた。
ずきずきと痛むこめかみを押さえるように、私は肩まで伸びた濃紺の髪へ深く指を差し込んだ。
そのまま、細く息を吐き出し、苛立ちと無力感に奥歯を噛み締めながら、改めて自分の置かれた惨状を見渡した。
蛍光灯は3本に1本の割合でチカチカと不快な点滅を繰り返し、ガムテープで補修された木製デスクが少し動くだけでギシギシと嫌な音を立てる。
空調はまともに機能しておらず、初夏だというのに足元から底冷えするような湿気が這い上がってくる。
ここが、私の――私たちの『教室』。
「礼奈。また水道水でお腹膨らませてるの? そんなのじゃ、明日の授業中に倒れちゃうわ」
隣の席で、使い古されたタブレットを睨んでいた友人の琴吹千夏が、呆れたように、けれどひどく疲れた顔で眼鏡を押し上げた。
「わ、分かってるよ。でも、今月の残り、もう1000Rもないんだもん。ここで食べきっちゃったら、月末まで胃袋がもたないよ……」
「……太平洋上に浮かぶ完全自律型の巨大人工島『メガフロート』。日本の次世代エリートを育成するなんて大義名分を掲げておいて、やってることは最悪だわ」。
千夏は軽くため息を吐いた。
「入学してまだ2ヶ月だっていうのに、私たち第五階区への生活費は、たった『一人、月3万R』。1Rが1円のこの学園で、食べ盛りの高校生が、食費も雑費も込みで1ヶ月を3万円で生き延びる。カロリー計算を1日でも間違えたら、餓死しちゃうわよ」
「ほんとだよね。メインタワーの最上階にいる第一階区の人達は、毎月16万Rも配当されて、専属シェフのオーガニック・フルコースを優雅に楽しんでるっていうのに」
対する私たちはと言えば、共同食堂の片隅で「塩茹でもやし」と「水道水」、そしてこのパサパサの特売コッペパンで飢えを凌ぐ毎日だ。
もやしの値段に一喜一憂する女子高生、それが私だ。
「うん、どうしてこうなったんだろ……」
「入学時の『CES』……知力や体力なんかの総合ステータスが平均点以下だったってだけで、一番底辺の階区に押し込められてこの扱いだもの。理不尽にも程があるわ」
「……うん」
パサつく特売パンを水道水で無理やり飲み込みながら、私は力なく同意した。
「普通の学校なら、ただのクラス分けで終わるのに」
「階区は一般の高校で言うクラスだけど、環境が違いすぎる。クラスと言うよりただの差別だわ」
「……っ」
千夏の言葉に、胃の奥が、ギリッと雑巾のように絞り上げられる痛みを放った。
空腹のせいだけじゃない。
先日、上位階区のエリートに押し付けられた『合法的な暴力』の記憶がフラッシュバックしたからだ。
「どうしたの、礼奈。また胃が……。まさか、あの水原の件、まだ引きずっているの?」
私の顔色を見て、千夏がハッとして唇を噛んだ。
「直接的な暴力や恐喝は重罪で退学になる。コンプライアンスで守られた平等な学園だなんて、嘘ばっかり!」
「えぇ、そうね」
「殴られない代わりに、あいつら『ルール』と『圧倒的な経済力』で合法的に私たちの首を絞めてくるじゃない……っ」
「3日前、第二階区の水原が押し付けてきた、あのデータ入力の契約書。強制力はないんだから断ればいいだけの話だったのに、画面のずっと下、スクロールしなきゃ見えないような極小のグレー文字で、とんでもない罠が仕掛けられていたわね」
千夏は眉間を揉みほぐしてから再び眼鏡をかけ直した。
「『期限内に完了しなかった場合、違約金3万Rを即時支払う。さらに公用図書館へのアクセス権を3ヶ月喪失する』だったわね」
「ふざけてるよ。まともな教材すらない私たちから図書館を取り上げて、1ヶ月の配当3万Rを違約金で奪うなんて。払えなきゃ餓死しろって言ってるのと同じだもん!」
湧き上がる屈辱を胃酸と一緒に無理やり飲み込み、私はみぞおちをきつく押さえた。
「もし私が断って、プレッシャーに弱い他の子がターゲットにされて、あんなのにサインさせられて失敗したらその子は本当に死んじゃう。だから……」
『……わかりました。私がリーダーとして、やります』そう、震える指で生体認証を突破した時の、水原くんのゴミを見るような嘲笑が、今も目に焼き付いて離れない。
千夏と一緒に3日間の徹夜で膨大な入力作業をこなし、手に入れたのはなけなしの2万Rと、吐き気がするほどの頭痛と胃の痛みだけだった。
彼らにとって私たち第五階区は便利な『労働力』であり、優越感を満たすためのサンドバッグでしかない。
私たち底辺を、契約という名の鎖で縛り上げ、見えないムチで叩く。
これは「合法的な暴力」だよ。
「……辛いなら、端末から『退学申請』を出して月に1度の補給船で日本に逃げ帰ればいいって、外の常識的な大人たちは笑うんでしょうね」
千夏が、空になったコッペパンの袋を憎々しげに握り潰す。
「逃げられないよ」
私は、冷たいパイプ椅子の上でギュッと膝を抱え込んだ。
「退学ボタンを押した瞬間に、『プレッシャーから逃亡した無価値なゴミ』として、この学園の出資者であるメガスポンサー企業群にデータが即座に送信される」
だからこそ、タチが悪い。
「……あらゆる優良企業はおろか、裏社会からすら完全にシャットアウトされる、『永久ブラックリスト入り』。社会的死が確定するわね」
日本に残してきた、幼い妹の無邪気な笑顔が脳裏をよぎる。
「私がここでドロップアウトしたら、妹にご飯を食べさせられなくなる。将来、妹を養うための真っ当な未来を……絶対に手放すわけにはいかないの……っ」
だから私は、自らの意志でこの理不尽な地獄に留まり続けるしかない。
* * *
僕はペパーミント味の安っぽいガムを奥歯でパチンと割りながら、死ぬほど退屈な盤面を見下ろして欠伸を噛み殺した
「本当に、馬鹿だね、エリートさんは」
同じ教室の最後列。
絶望に沈む雨宮と琴吹の背中を眺めながら、僕――天堂璃王は、退屈そうに頬杖をついていた。
そんな穴だらけの契約書、僕なら、三秒で内側から食い破れるのに。
……まあいい、今は泳がせておいてやる。
後でその綺麗なルールブックごと、泥まみれにして引き裂いてやるからさ。
はじめまして、盤上廻と申します。
綺麗なルールを、最底辺の泥と執念で喰い破る物語です。
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