第1回:史実に見る渡世人の存在と定義
無宿渡世人の世界 異世界三度笠無頼の歩き方
第1回:史実に見る渡世人の存在と定義
◆導入
「渡世人」と聞いて、あなたはどんな姿を思い浮かべますか?
三度笠をかぶり、股旅姿で颯爽と現れる侠客――時代劇や映画の定番ですよね。
ですが史実において、渡世人は「江戸時代の社会制度の外側」に生きた存在でした。
彼らは「無宿人」と呼ばれるカテゴリーに属し、公式な身分制度(士農工商)の枠外に置かれていたのです。
今回は、そんな渡世人/無宿人がどのように定義され、幕府や社会からどう扱われていたのかを整理してみます。
◆無宿人と渡世人の定義
まず押さえておきたいのは「無宿人」という言葉。
これは江戸時代に存在した、宗門人別改帳(今で言う戸籍や住民登録)から外された人々のことです。
理由はさまざま――
・勘当や村からの追放
・生活苦による離散
・罪を犯した逃亡者
こうして「身分から外れた」人々が、社会の隙間に浮遊する存在となりました。
(-⊡ω⊡)_/{ちなみに勘当とは、奉行所に届けて親子間の縁を切ることをいい、私的なつながりを断つだけでなく、法的なつながりも切れて完全に他人になってしまいます。これは江戸時代は〝連座制〟と言うのがあり、家族内に犯罪者が生まれると親兄弟も牢屋入りさせられると言う法律があり、巻き添えを食わないためにも、やばい家族は追い出さないと行けなかったからです。
無宿人は必ずしも「住所不定=ホームレス」ではありません。
日雇い労働や賭場稼業などで食いつなぎ、諸国を渡り歩く人々も含まれていました。
その中で、義理や筋を重んじ、侠客として振る舞った者たちを「渡世人」と呼びます。
つまり「無宿」という広い枠組みの中から、義理人情を背負って歩んだ者こそが「渡世人」なのです。
素浪人(仕官先を失った武士)との違いも大事です。
浪人はあくまで「武士階層の一員」ですが、渡世人は大半が庶民出身。
そのため「侍崩れ」のイメージよりも、社会から弾き出された庶民の生き様が色濃く反映されていました。
◆幕府から見た無宿人
幕府にとって、無宿人は「社会不安の元凶」でした。
犯罪や喧嘩の温床とされ、常に監視と取り締まりの対象です。
享保期(18世紀前半)以降は「人足寄場」という収容施設が整備され、無宿人を強制的に収容し、労働や更生を課しました。
また、安永7年(1778年)には「無宿再犯者は島流し」とする厳しい法令まで制定されています。
一方で、面白い二面性もあります。
下層社会では、渡世人が「私的なトラブル調停者」として機能することもありました。
借金の揉め事や喧嘩の仲裁を行い、ときには地域の「非公式な守り手」として存在感を示したのです。
公式には厄介者、非公式には潤滑油。
これが幕府と社会の狭間にいた渡世人の姿でした。
◆社会の中での“居場所のなさ”
村や町の共同体は強固な相互扶助を基盤としていましたが、無宿人はその枠組みから外れた存在。
宿に泊まるのも難しく、まともな仕事に就くのも困難でした。
そのため彼らは江戸や大坂といった大都市に流入し、飢饉や疫病の際には孤立無援となることが多かったと伝わります。
文化2年(1805年)には、有宿・無宿を問わず追放刑を科す例まであり、彼らは「余剰人口」として疎まれました。
しかし同時に、侠客文化の中で「庶民の守護者」としても描かれていきます。
この「居場所のなさ」と「人情に生きる姿勢」の矛盾が、後世の股旅ものや浪花節的ドラマの原型を形作ったのです。
◆数字で見る渡世人
江戸時代後期、日本の人口は約3,000万人。
そのうち江戸の人口はおよそ100万人でした。
幕末期の江戸では、無宿人・非人あわせて約1万人と推定されています。
つまり都市人口の1%ほど。
天保の大飢饉(1830年代)には、1日30人規模の無宿流入が記録されており、社会問題化していたことがわかります。
無宿人は流動的で正確に数えられなかった――。
これが幕府にとって最大の頭痛の種だったようです。
◆結び
渡世人は、社会制度から排除されながらも「義理と人情」を背負い、生き抜いた存在でした。
厄介者でありながら、どこか憎めない。
この矛盾が、人々の心を掴み、やがて物語や映画で「孤独なヒーロー」像に昇華されていったのです。
次回は、
第2回:渡世人の日々の暮らし
そんな渡世人がどんな暮らしをしていたのか――
「日々の衣食住」や「流浪の生活」に迫ってみたいと思います。