1 王子、初めての旅
ある大陸の片隅にある、豊かで美しい王国。
どこまでも続く青い空の下、壮大な山々がそびえ立ち、風に揺れる広大な草原が広がっている。その景色は絵画のように完璧で、人々が憧れる理想郷のように見えた。
だが、それはあくまで王族や貴族たちが過ごす、城壁の内側の話だ。
夜な夜な王城では、華やかな舞踏会が催され、贅を尽くした料理と酒が振る舞われていた。しかしそのきらびやかな光の裏には、薄暗い闇があった。
王国の民は重い税金に苦しめられ、厳しい兵役を強いられ、少しでも反抗すれば容赦なく罰せられた。王と貴族だけが豊かな暮らしを謳歌し、平民たちは飢えと疲労に押しつぶされそうになりながら生きていた。
だが、誰もその現実に声を上げようとはしなかった。声を上げれば、より悲惨な末路が待っていると知っていたからだ。
王子アレクシスの朝は、いつも穏やかだった。
朝露に濡れる城の庭園、遠くの鐘の音、厩舎で馬が蹄を鳴らす音。それらが重なり、穏やかな一日の始まりを告げてくれる。十五歳を迎えた王子にとって、外の世界はまだ遠い夢の中の出来事でしかなかった。父王の指示で受ける訓練や教育、そして宮廷のしきたりに縛られ、城の外で何が起きているのかを知る機会はほとんどなかった。
だが、ここ数年、王都の周辺で広がる不穏な噂が、侍女たちの囁き声や、窓から聞こえてくる微かな嘆きとして、彼の耳にも届くようになっていた。
「また、子どもに食事を与えられない家庭が増えたらしいわ」
「病になっても、医者にかかるお金がないって……」
城の中ではいつも豊かな収穫や祝宴の話ばかりが語られるが、耳を澄ませばその裏で苦しむ民の声が聞こえてくる。
この不穏な噂の正体を確かめるべく、アレクシスは一人の夜、簡素な衣装に身を包み、城を抜け出すことを決意した。
アレクシスが最初に訪れたのは、城から半日ほど馬を走らせた小さな村だった。田畑が広がり、古びた茅葺き屋根の家々が並ぶ。城では見たこともない、素朴な風景だ。
馬を降りて村を歩いていると、一人の幼い少年が駆け寄ってきた。
「お兄さん、どこから来たの?」
アレクシスは微笑んで答えた。「旅の者だ。君の名前は?」
少年はマルクと名乗った。彼の案内で村の中を歩くうち、一軒の粗末な家に着いた。戸口に立つのは、痩せこけた女性。マルクの母親だという。
「お恥ずかしい話ですが、何のおもてなしもできません。去年、夫を病で亡くしました。残ったのはこの子と荒れた畑だけです。」
家の中には家具らしいものはほとんどなく、母子の生活が苦しいことが一目でわかった。アレクシスは彼女の話を聞きながら、自分が城で何不自由なく過ごしている間、外で生きる人々がいかに困難な日々を送っているのかを実感した。
帰り際、マルクが手を振る姿が目に焼き付く。その笑顔は眩しかったが、その背後にある絶望が、アレクシスの心を重くした。
次に、アレクシスは町を訪れた。王都から比較的近いその町は活気がある一方、薄暗い路地にはスラム街があった。
市場を歩いていると、突然の騒ぎが起きた。振り向くと、一人の少年が何かを抱えて逃げ出そうとしている。その後を、怒鳴り声を上げる商人と衛兵が追いかけていた。
アレクシスは足を止め、事の成り行きを見守った。結局、少年は路地の隅で衛兵に捕まり、腕をねじ上げられる。盗まれたパンを奪い返した商人は、少年を罵倒した。
「盗みなんてしやがって! お前みたいなガキがいるから町の治安が悪くなるんだ!」
少年は何も言わない。ただ、固く目を閉じて震えている。その手には、少し汚れたパンの欠片が握られていた。
アレクシスは近くの衛兵に声をかけた。
「その子を放してくれないか。代金は私が払おう。」
「しかし、これは罪ですぞ、若旦那様。」
「わかっている。だが、罰するだけが解決ではないはずだ。」
衛兵は渋々頷き、少年は解放された。アレクシスは代金を払いながら、少年に小さな声で言った。
「次からは、正直に買うんだぞ。パンがなければ、代わりになるものを探せばいい。」
少年は何も答えず、ただその場から走り去った。何かを告げたそうな目が、印象に残った。
最後に、アレクシスは訓練場にも足を運んだ。兵士たちが日々訓練をしている場所だ。しかし、その現実は想像以上に悲惨なものだった。剣や盾は錆びつき、防具はボロボロだ。
イリヤと名乗る一人の若い兵士が苦笑しながら言った。
「これで敵と戦えと言われてもね……。でも、飯が食えて、飢えないだけでもありがたいんですよ。」
彼らの食事はわずかなパンと水だけだった。その一方で、貴族出身の上官たちは豪華なテントで贅沢な食事をとっていた。
「私たちは使い捨ての駒に過ぎません。命令に従うだけです。」
そう言ったイリヤの目には、諦めの色が浮かんでいた。アレクシスは心の中で強い憤りを感じた。城で聞かされる「王国の強さ」とは、この現実を無視したものだったのだろうか。
城に戻ったアレクシスは、心に刻まれた村の貧困、町の孤児、そして兵士たちの現状を思い返した。「これが王国の現実だとしたら、何のための政治だろう。」
彼は初めて、王族としての役割に疑問を抱き始めた。それは、彼の運命を大きく変えうる一歩だった。
アレクシスは、何度かそっと城を抜け出すうち、町の噂話の中で「未来を夢で見せてくれる」という占い師の名前を耳にした。
「セリーヌ」というその占い師は、過去に王国の重要な人物に未来を見せたこともあると噂されていた。
何でも、彼女が作る不思議な香を焚くことで、人々は眠りの中で未来を見られるというのだ。
その話を聞いたアレクシスは、静かな決意を胸に、セリーヌを訪れることにした。
夜の町へと足を運んだ彼が訪れたのは、貴族の住む地区ではなく、ひっそりとした裏通りの、古びた小屋だった。
「王子アレクシス様、ようこそ。」
セリーヌはその姿を見て、驚くことなく、冷静に迎え入れた。その顔立ちは年齢を感じさせないほど若々しく美しいが、その瞳には深い知恵と経験が宿っているようだった。
「貴女がセリーヌ?」
アレクシスは緊張しながらも、彼女の目を見つめた。
「はい、そうです。私がセリーヌ、香を使って未来を見せる者です。王子様が何を求めているのか、すでに存じています。」
彼女の声は、穏やかでありながらも、どこか深く、鋭い洞察力を持っているように響いた。アレクシスはその言葉に驚き、胸の内を話し始めた。
「僕は、王国の未来に不安を感じているんだ。」
彼は言葉を慎重に選びながら続けた。
「国を治める責任は重く、民の不満が日に日に増していく中で、どんな王になればいいのか分からなくなってしまったんだ。」
彼女は王子の話をじっと聞いていたが、静かに頷いた。
「ならば、私の香を使いなさい。あなたが未来の道筋を見つける手助けをしてくれるでしょう。」
彼女は棚から小さな瓶を取り出し、アレクシスに手渡した。その瓶には、淡い光を放つ不思議な香りが漂っていた。
「これを寝室で焚き、眠りにつくのです。ですが、その香が見せるものは、必ずしもあなたの望む未来ではないことを覚悟しておきなさい。」
彼女の静かな警告に、アレクシスは頷き、香を手に小屋を後にした。
夜の冷たい風が顔に当たる中、王子は王宮へと戻った。
王宮の寝室に戻ったアレクシスは、セリーヌから受け取った瓶を手に、静かにその中身を焚き始めた。
香りが部屋中に広がると、不思議なほどに心が落ち着いていくのを感じた。まるで時間が止まったかのような感覚に包まれていく。アレクシスはゆっくりと布団に横たわり、目を閉じた。
暗闇の中で静寂が支配する。香の香りは、心の中に深く染み込み、彼を無理なく夢へと導いていく。
眠りが深くなるにつれて、目の前にぼんやりとした光景が現れた。
月明かりが王城の窓から差し込む中、彼の心は現実を離れ、夢の世界へと誘われていった。