1-9.模索
いつまでも続くようなこの学校生活も、必ず終わりが来る。親しい友人とも別れる日が来る――。
年に一度の三者面談に向けて日程調整のプリントが配られたその日の昼休み、進路の話題になって、私はそのことを痛感していた。
佳穂は中学校の音楽教師を目指すのだという。進学先も候補の学校は既にいくつかに絞ってあるのだと。もともと成績優秀だし、佳穂ならきっと難なく受かるだろう。
「で、紗妃はどうするの?やっぱデザイン系の学科?」
ミルクティーをストローで吸いながら佳穂が問いかけた。その言い方は学校は違えど私も進学するのだと確信しているようだ。でも…。
「…進学はしない、かな。事務職とかで就職しようかと」
「えっ」
どうして、という声が聞こえるようだった。私は苦笑いして視線を逸らす。
「なんで?インテリアデザイナーとか興味あるって言ってなかったっけ」
「…覚えてたの?」
確かに以前、何かのきっかけで大人になったらなんて話をしたことがあった。だけど私の記憶が確かならそれは冗談めかした軽い言葉だったはずで、まさかそれを覚えていたとは。
「覚えてるよ、もち。私の記憶力舐めるな?…で、就職するって、本気なの?」
「進学できたらいいんだけど…親に就職しろって言われてて」
――『女なんだから。事務職で多少の社会経験をつけたら結婚して家庭に入ればいいのよ』
お母さんの言葉が頭をよぎる。お母さんは、女は仕事するより結婚して家庭に入ることが幸せなのだと信じて疑わない人だった。
正直、時代錯誤だと思う。でもそう反論したところでその価値観を覆せるはずもない。
だから働きながら勉強してデザイナーの資格をとり、ゆくゆくはそっちの方へ転職できたらいいと思っている。誰にも言えないけれど、それが私の進路計画だ。
「ええ…もったいない。紗妃めちゃくちゃセンスいいのに。絶対向いてると思う」
「そう、かな?」
「だってさ、前まではザ・野郎の一人暮らしって感じでなんか野暮ったい部屋だったのに、紗妃が住み始めてから明らか整ったもん。動線も良くなったしさ。家具の配置変えたりちょっと色を足すだけでこんなに変わるのねって感心してるぐらいだよ」
確かに先生の部屋は最初来た時、それなりに片付いてはいるけれど、色彩が乏しかったり動線が悪かったりしてそれが雑多な印象を醸し出していた。
その意図をちらりと先生に訊いてみたところ、全く拘りはなく、引っ越し時にとりあえず選んだ家具をとりあえずそこにずっと置いている、ということだった。
昔から部屋の模様替えが大好きな私は、先生の了承を得て最近家具を動かしたり収納を工夫したりと色々やらせてもらっているのだけれど、どうやら佳穂にはそれが良い変化として映っていたらしい。
「就職のことはさ、一度親と話し合ってみたら?才能あるんだし活かさないと」
「…そう、だね」
――それができたらいいんだけど。
佳穂の家族なら、難なく可能だろう。だけど私の家族は残念ながら違う。
だって話し合いというのは、相手が聞く耳を持ってくれて初めて成立するものなのだから。
でもそれを口には出さなかった。出せなかった。そうしたところで同意が得られないのは明らかだから。
「ところで、今度私の部屋もデザインして?オシャレな部屋にしてほしいの~」
「うん、もちろん。どんな感じがいい?」
お弁当の卵焼きを口に運びながら尋ねる。進路の話から話題が逸れたことに、心底安堵していた。
***
数日後の夜、自室のデスクで頭を悩ませていた私はついに覚悟を決めて席を立った。
実は、今日出た数学の宿題でどうしても分からない問題があるのだ。何を隠そう、私は完全なる文系。数学が大の苦手で、一番時間がかかる教科だった。
性格上、分からない問題をそのままにすることができない。教科書とにらめっこしながら解答を模索したものの、完全にお手上げ状態だった。
(――すぐ身近に数学教師がいるんだもん。利用しない手はないよね)
リビングのドアをそっと開けると、先生がパソコンを広げて仕事をしていた。
部屋に入ってきた私を見て先生が驚いたように顔を上げる――無理もない、夕飯とお風呂を済ませた後、私は朝まで部屋から出てこないのが通常だから。
「どうした?」
「あの…その」
言いにくくて言葉に詰まる。
「?」
でもここまで来たからには後にひけない。
ぎゅっと胸元の宿題プリントを抱きしめ、思い切って口にした。
「数学の宿題で分からないところがあるので、教えてもらえないでしょうか…っ」
言ったら、先生が一瞬息を呑んだのが分かった。
仕事中だしタイミングが悪かったのだろうか。仕事が終わってからでもいいので、と付け足そうとした瞬間。
「いいよ、もちろん。ここ座って」
なんと、快諾してくれた。パソコンを閉じて、私に隣に座るように促している。
正直隣はちょっと警戒心が強まったけれど、こちらからお願いした以上拒むこともできない。
聞くだけ聞いてさっさと部屋に戻れば問題ないだろう。
先生の隣に腰を下ろすと、私は早速プリントを広げ、その問題を指さした。
「ここです。関数の形までは書けたんですけど、この先どう計算を進めたらいいのか分からなくて…」
「ああ、微分ね。…うん、これはまず関数の形を確認するといいよ」
先生はすぐ側にあった手帳からページを1枚切り離すと、ペンを走らせながら解説しはじめた。
先生の文字は黒板で見慣れているはずなのに、紙の上だとまた違った印象を受けるのは何故だろう。
「ここでつまずいたのは、この式を一気に処理しようとしたからだな。これはまず外側と内側を分けて考える。いわゆる合成関数の微分、覚えてる?」
「う…はい、なんとなく…」
情けない返事をすると、そうか、と先生が小さく笑った。
「連鎖律、“外側の関数”と“内側の関数”を分けて微分するルール。これを使えば一発で片づく」
先生はまずペン先で私が書いた式を示すと、その解き方を切れ端にすらすらと書き始めた。
「こうやって内側を微分して掛ける。そうすれば――」
「あ…!」
ついさっきまで意味不明だった数字と記号が、先生の解説によって急速に繋がった。
と同時に、求めていた答えがついに姿を現す。まるで霧が晴れた時のように。
「なるほど…!外と中に分けて連鎖律…!」
あれほど悩んでいたのに、少しやり方を変えただけであっけなく問題は解けた。
ああ、こんなことならもっと早く質問すればよかった。
「ありがとうございます。もう一度、今度は自分で解いてみます!」
興奮気味に見上げたら、先生が満足げに微笑んだ。
「うん、やってみて。数学は手順さえ間違えなければ必ず解けるから、怖がらなくていいよ」
“怖がらなくていい“――そう言った先生に、私は目を見張った。
だってそんなことを言ってくれたのは、先生が初めてだったから。
「あと他には?どっかある?」
「あ…ええと、こっちも…」
視線をプリントに戻し、別の問題を指差す。その問題も、先生の的確な解説によってすぐに解けてしまうだろう。
心地よい先生の声を聞きながら、私はふと思う。
――先生と過ごす時間もやがて終わる日がくる。
もしかしたらその時私は、こうして並んで過ごした時間を惜しく感じてしまったりするのだろうか、と。




