卒業〜Necessary for us〜 1
エピローグになります。
三月上旬。
柔らかい日差しの中、少し冷たい春風に乗って薄紅色の花びらが空を舞う。
満開の桜が咲き誇るこの良き日に、私は高校を卒業する。
卒業式は、体育館で執り行われた。
転校してからの約2年間、毎日見慣れた景色も今日で最後だと思うと、寂しさで胸がぎゅっとなる。
だけどそれだけじゃないのは、大きな期待と希望が溢れているから。
――私と先生は、今日まで二人の秘密を貫いた。
表向きは教師と生徒として、家では恋人同士として。
時にすれ違い、葛藤し、信じることの難しさを知った。その度に寄り添い、もう少しの辛抱だと、励まし合ってきた1年半。
それが今日、ついに終止符を打とうとしている。
「原田 紗妃」
「はい」
担任の先生に名前を呼ばれて――ちなみに、3年生は違う教員が担任だった――、私は静かに席を立った。
思いのほか緊張はしていなくて、むしろ穏やかに心は澄んでいた。
厳かな雰囲気の中、壇上に上がり、校長先生の前に立って一礼する。
「貴殿は、本校所定の全課程を修了したことを証する。――卒業、おめでとう」
「ありがとうございます」
卒業証書を両手で受け取り、一歩下がってまた一礼。
そしてゆっくりと階段を下りて、先生達に向かって一礼して顔をあげた瞬間、今は1年生の担任をしている誰よりも愛しい人と目が合った。
彼は微笑み、おめでとう、とその唇が無音で呟く。
それに瞬きして答えると、背筋を伸ばしてその前を通り過ぎ、自席へと戻った。
卒業式が終わり、教室で最後のホームルームを終えた私は、佳穂と一緒に職員室に出向いた。
お世話になった先生達と最後の思い出を残すべく、職員室は他の卒業生で大きくにぎわっている。それは卒業という特別な日にしか見られない、あたたかな光景だろう。
ただ、私の場合――その目的はちょっと違う。
「高上先生」
先生は、他の生徒達からも写真や寄せ書きを頼まれて忙しそうにしていた。
その中でようやく隙を見つけて、私と佳穂は駆け寄った。
「卒業おめでとう」
先生が笑う。そのおめでとうには色んな意味があることを、私達は知っている。
「ありがとうございます。最後に…写真、いいですか?」
「もちろん」
周囲には他の生徒もいたけれど、不思議と気にならなかった。
今まで、特に学校ではお互いに最低限の接触しかしないよう、細心の注意を払っていたというのに。
でも今ここにあるのは、教師と生徒としての最後の瞬間。誰もそれを訝しく思ったりなどしないだろう。
私と先生は寄り添い、佳穂が構える携帯に向かって微笑んだ。
教師と生徒としての、最後の写真。
あれほど早く卒業したいと願っていたのに、いざその時が来ると名残惜しく思ってしまうのは何故だろう。
もう先生の授業を受けることはできない。バスケ部で厳しい指導をする姿を見ることもできなくなる。
当たり前だと思っていた日常が、日常でなくなる。それがこんなに寂しいだなんて。
「いくよ~!3、2、1…」
シャッター音が響くと同時に、この一瞬が永遠に刻まれる。
それはこの秘密の関係の終わりであり、新しい二人の始まりでもあった。
――その後も友達や後輩と写真を撮り合ったり寄せ書きしあったりして、最後の時間はあっという間に過ぎた。
特に仲の良かった3人(佳穂と千沙と志保)とは、来週卒業旅行に行く約束をしている。
3人とは、進学先はバラバラだけどこれからも連絡を取り合っていきたい。
幸いにも皆都内の短大や大学なので、上手く時間を作ることもできるだろう。
先生に出会えたことはもちろん、そういう友人たちに出会えたことも、高校生活最大の宝物だと思う。
「…紗妃!」
千沙と志保と別れ、佳穂と二人で靴箱へ向かっている途中、後ろから声をかけられた。
振り返ると、そこにいたのは…。
「眞中くん」
よ、と手を挙げて微笑む眞中くんがいた。
彼は都内の体育系大学に、スポーツ推薦での進学が決まっている。
対する私はデザイン系の短大なので、おそらく会うのは今日で最後になるだろう。
「…私、先に行ってるね?」
気を遣ってか、佳穂が私に耳打ちした。
ありがとう、と頷くと、佳穂は眞中くんにも微笑み、手を挙げてその場から去っていった。
「ごめんな、帰ろうとしてるとこ」
「ううん。私も、最後に話したいって思ってた。でもなんだか、その…忙しそうだったから」
彼の制服を見ながら言ったら、眞中くんが苦笑した。
というのも、人気者の彼は卒業式の後からずっと後輩や同級生に囲まれっぱなしで。
とりわけ女子達からの人気がすさまじく、その証拠に、ブレザーもワイシャツもボタンがほぼ剥ぎ取られ、下の白いTシャツが見えてしまっている。ただ一つ――ブレザーの第二ボタンだけを残して。
「眞中くん、ありがとう。秘密、最後まで守ってくれて」
眞中くんに一番伝えたかった言葉。
もしかしたら直接は無理かもと半ばあきらめていたので、面と向かって言えてよかった。
「…別に、感謝されるようなことじゃない。バラす機会がなかっただけで。あいつにカッコつけさせんのも癪だったし」
「でも、結局誰にも言わなかったよね。本当にありがとう」
頭を下げてお礼を告げると、やめろよ、とばつが悪そうな声が聞こえた。
でも本当に感謝してるの。色々と傷つけただろうに…それでも彼は優しかったから。
「これ、受け取って」
少しぶっきらぼうに言いながら、ブレザーの第二ボタンを眞中くんは剥ぎ取ると、それを私に差し出した。
「紗妃に、持っててほしい」
「眞中くん…」
その意味が分からないほど、私も鈍感じゃない。
でも、だからこそ、その願いを聞き入れるわけにはいかなかった。
「ごめんなさい…できない。それは、私が受け取ってはいけないと思うから」
眞中くんの目を見つめてそう言うと、彼は、そうか、と悲しそうに笑った。切なく、まるで答えなど分かっていたかのように。
そして彼は次に廊下の窓を開けると――ボタンを窓の外に向かって大きく放り投げた。
小さなボタンは弧を描くようにして宙を舞い、すぐに消えて見えなくなった。
「あーあ。やっぱダメだったか」
窓枠に寄りかかって眞中くんが呟く。
彼はボタンが消えていった先を見つめながら続けた。
「あんなおっさんじゃなく、俺にしとけばいいのに」
「…眞中くんには、眞中くんだけを見つめてくれる人が他にきっといると思う」
「他に、か」
自嘲気味に彼は繰り返した。
きっと気付いているのだ。そのたった一人になりえないと、私が暗に言っていると。
「…俺、本当に好きだったよ、紗妃のこと」
「うん…ありがとう」
それしか、私に言える言葉はない。
「全てをかけて好きだった。こんなに人を好きになるなんて、思ってもみなかったぐらいに」
「…ありがとう」
同じ言葉ばかり続ける私に、眞中くんは苦く笑った。
「もう行って。引き留めて悪かった」
「眞中くんは…?」
「俺はもう少しここにいるよ。失恋の痛みってやつをもう実感して帰る。これぞ青春って感じだろ?」
「…そう」
慰めの言葉も、励ましの言葉も、私に言う権利はない。できることはただ、彼の幸せを願うだけ。
「私、行くね。元気で」
そう言い残して、私は静かに歩き出す。
けれどその途中、紗妃、と再び呼び止める声がした。
振り向くと、見たこともないくらい切ない眼差しで、眞中くんが私を見つめていた。
「またな」
彼は一言そう言った。まるで、遠い未来に希望を託すように。一筋の光に縋り付くように。
――だから。
「さようなら」
微笑さえ浮かべながら、私は告げた。
またね、とは敢えて言わなかった。言ってはいけない気がした。
私のことなど忘れて、前に進んでほしいから。
どこかで彼を待っているはずのたった一人と、必ず幸せになって欲しいから。
「最後までブレないなー」
眞中くんはそう笑うと、窓の外に視線を戻した。
その瞳にはかすかに涙が滲んでいるのが見えたけど、私に何も言えるはずがない。
だから何も気付かないふりをして、私は背を向けて歩き出した。
決して振り返らない。この先、彼を想うこともない。
――それが私からの最大のエールだということに、いつか彼が気付いてくれると信じている。




