Revive 4 -Side Ryu-
――やってしまった。
寝室のドアの向こうからは、紗妃の泣き声が聞こえてくる。
その悲痛な音に、俺は力なくその場に座り込んだ。
実を言えば、放課後のあの時から、嫌な予感がしていた。
電車で帰ると紗妃に言われてその予感は深まり、家に帰っても俯いたまま俺を見ようとしない紗妃を見て、確信となった。
そこまでならよかった。
いや良くはないのだが、まだ挽回の機会はあったかもしれない。
何とか紗妃の機嫌を直したい、これ以上怒らせたくない――そう思ったのが、仇となった。
俺の完全に見誤った一言により、紗妃を激怒させたうえ、泣かせてしまったのだ。
テーブルの上には紗妃が証拠として突き付けた名刺が所在なさげに置かれている。
正直受け取った記憶がないのだが、なんせ完全に酔っていたので単に俺が覚えていないだけなのだろう。
事実、名刺に書かれていた店名は間違いなくあのキャバクラで、必死で言い訳しようとしたが、それはかえって火に油を注いだだけだった。
『自分の言動には責任を持て』――いつも学校で生徒達に言っている言葉をもって、俺は紗妃にあっけなく論破された。
そして紗妃は怒りのまま寝室に駆け込み、そのままドアを閉めて泣き崩れたようだ。
最愛の彼女を傷つけてしまったことが、あまりに不甲斐ない。
「紗妃、ごめん…。ほんとごめん…」
ドア越しに何度も謝るが、一向に泣きやむ気配がない。
できれば抱きしめて背中を撫でてやりたいが、そんなことしたら状況が悪化するだけかもしれない。
だから俺はもうただひたすら、謝るしかなかった。
「紗妃の言う通りだよ…。嘘ついた俺が悪い。自分勝手で本当にごめん」
ドアの前で正座して、何度も謝る。
情けない姿かもしれないが、今の俺にできる精一杯だった。
「学校で偉そうなこと言える立場じゃないよな、本当…」
紗妃は何も間違ったことは言っちゃいない。
全部、俺の勝手なエゴだ。自分に都合がいいように押し切ろうとした。
紗妃に安心して欲しかったから。笑ってほしかったから。
その為なら、紗妃がキャバクラに気付いていないのをいいことに、事実を捻じ曲げても仕方ない――無意識のうちに、そう判断した。
ひたすら謝り続けていると、やがて紗妃の泣き声がだんだん小さくなり、最後には聞こえなくなった。
できればドアを開け、顔を見て謝りたい。キスして、抱きしめたい。けど、その勇気がない。
俺と紗妃の間を隔てる寝室のドア一枚が、今は途方もなく大きな壁に見える。
暫くの沈黙の後、俺は迷ったが、ひとまず夕飯の片づけをすることにした。
テーブルには食べかけの親子丼が二人分、そのまま残っている。
とりあえずラップして冷蔵庫に入れておかないと。
こんなことしている場合じゃないかもしれないが、自分でやらねば家事は片付かない。
俺は大きくため息をついて立ち上がり、片付けを始めた。
残ったサラダと親子丼をタッパーに移して冷蔵庫にしまう。それからテーブルを拭いて…。
昨日までは紗妃と一緒にやっていたのに、全ての作業が虚しく感じる。
いかに日常が幸せに満ちていたのか、今更気付いても遅いというのに。
キッチンで布巾を洗っていると、突然寝室のドアが開いた。
予想していなかったので驚いて振り返ると、寝室から出てきた紗妃がバタバタと音を立てて浴室に駆け込んでいくのが見えた。
恐らく俺がキッチンにいるのを水音で察知して、風呂に入るなら今のうちだと思ったのだろう。
「はあ…どうしよう…」
適当に布巾を絞ってシンク脇に干しながら、再度ため息をつく。
紗妃が風呂から上がったら話せるだろうか。今度こそ全部正直に話して、もう一度謝りたい。だけど紗妃は嫌がるだろうか…。
これ以上紗妃を怒らせるのだけは、何としても避けたい。そうでなければ、尚更俺を許してくれなくなる。
「…まいった…」
いっそ俺も泣きたくなってきた。だが泣いたところで何も変わらない。
とりあえず、紗妃がお風呂から上がったら、様子を見て。少し気持ちが落ち着いていたなら、話したいと伝えてみよう。
まずはそれからだ。
そう思って、残りの家事を肩を落としたまま片付けた。
――ところが、俺はその直後に現実の厳しさを思い知ることになる。
浴室から出てきた紗妃は、呼びかける一瞬の隙も与えず、寝室に駆け戻ったのだ。
それも、俺に顔を見られないようにするためか、フェイスタオルで顔をしっかりブロックして。
再びぴしゃりと閉まった寝室のドアを、一体今日何度目になるか分からないため息をつきながら見つめる。
これは、今日話すのは難しそうだ…。
***
後悔とため息ばかりが積もっていく。
気づけば深夜0時、明日も仕事なのでそろそろ眠りたい。
が、寝室のドアは相変わらず固く閉ざされたまま。
しかも、いろいろ我慢する必要がなくなって以降、紗妃と俺は、寝室のベッドで一緒に寝るようになっていた。そのため、紗妃の部屋に置いていたゲスト用布団は寝室のクローゼットにしまってある。
紗妃が寝室に閉じこもっているということは、すなわち、俺の寝床がないということで…。
ドアの隙間から灯りが漏れてくるところを見ると、まだ紗妃は起きているのだろう。
俺はドアに近づき、そこにいるはずの紗妃に静かに話しかけた。
「…紗妃?俺、今日はそろそろ寝るから。もし可能なら、明日また話したい。ちゃんと謝りたいんだ」
やはり、返ってくる言葉はない。
「…おやすみ」
言い残してからリビングの灯りを消し、ソファに横になった。
毛布をかぶりたいところだが、それも寝室にしまってあるので、今夜はソファにかかっている紗妃のひざ掛けで我慢するしかないだろう。
だが紗妃を傷つけたことに比べれば、寒さなんてどうってことない。
瞼を閉じれば、紗妃の顔が浮かび上がる。
いつもは笑っているのに、今日は泣いている。
俺を睨んで、詰っている。その景色にまた凹んだ。
後悔先に立たずとはこのことだ。
あの時、軽蔑されるのを覚悟で正直に言うべきだった。
そしたら少し不機嫌になるくらいで済んだかもしれない。
何もかも予想を悪く裏切るこの状況を前に、さすがの俺もネガティブになってしまう。
もし、このまま紗妃が許してくれなかったらどうしよう。
まさかここから出て行くとか…。その場合は、全力で止めなければならない。
いや、出ていくぐらいならまだいい。連れ帰ることができるから。
それよりも最悪なのは――別れたいと、もし言われたら…。
(いてて…)
心臓がぎゅっと絞られるような痛みを覚えて、胸を押さえた。
紗妃がいなくなることを想像するだけでこんなに辛いなんて。
もし本当に紗妃を失ったら俺は生きていけるのだろうか。息すらできなくなるんじゃないだろうか。
紗妃がそこにいること、笑っていること、触れられること、その全てが奇跡以外の何ものでもないことを今さら痛感する。
最近じゃ多少強引に押し倒したりなんてこともあったが、それは全部紗妃が俺を好きでいて許してくれるからであって、紗妃の気持ちが離れてしまえばただの独りよがりでしかない。
実際、紗妃に背を向けられて、抱きしめることはおろか触れることすらできないでいる。
それなのに俺はいつの間にか紗妃が隣にいることを当然に感じて、紗妃の想いの上で胡坐をかいていた。
何一つとして当たり前なんかじゃないのに。
だって、思い返してみろ。
出逢った頃、紗妃は俺なんて少しも視界に入れようとしなかったじゃないか。
紗妃にとって俺はただの教師でしかなく、必要以上に話そうとも、目を合わせようともしなかったじゃないか。
あの雨の夜に偶然出逢っていなければ、俺は今もきっと紗妃に片想いしていただろう。
はにかむようなあの笑顔も、包み込むような優しさと温もりも、甘い唇も、燃え尽きることのない熱情も、何もかも永遠に知ることはなかった。
そんなことに今頃気付くなんて――本当に傲慢もいいところだ。
「…最低だな、俺…」
呟いた言葉は白い息とともに溶けていく。
一緒に、どうしようもなく思い上がって馬鹿だった俺も溶けてしまえばいい。
溶けてなくなって、マシなところだけが残ったなら、紗妃はもう一度チャンスをくれるだろうか。
「…?」
と、その時、何の前触れもなく寝室のドアが開いた。
怪訝に思って体を起こし、寝室の方を見ると、紗妃がドアの側に立っていた。
寝室からの逆光で表情はよく見えないが、気まずそうに顔を逸らしているのだけは分かった。
「か、風邪引いたら困るから!寝るならベッドで寝てくださいっ」
紗妃はそう言うなり身を翻して、寝室へ入っていく。
状況が把握できずに、俺は固まって動けないまま。
というのも、あまりに俺が凹んで情けないから、呆れた神様が幻を見せてくれているのかと…本気で思ったのだ。
だが室内の冷えた空気が、これは現実だと主張している。
そしてそんな俺に業を煮やしたのか、紗妃がもう一度ドアのところまで来て言った。
「勘違いしないでください、まだ許したわけじゃないけど…体調崩されたら困るので!」
「…いいの?」
おそるおそる尋ねたら、紗妃はぎゅっとパジャマの裾を握りしめて言った。
「一応、先生は家主なのでっ」
家主であることは関係あるのだろうか…。
あまり関連性が分からなかったが、とにかく俺の体調を心配してくれた。
ただそれだけで、飛び上がるほど嬉しい。
単純だと言われてもいい。まだ完全に見捨てられたわけじゃない、そう思ったら少し元気が出てきた。
俺はソファから立ち上がって、寝室に足を踏み入れた。
紗妃はベッドの隅に布団を被って丸まり、俺を避けるように背をむけている。
その背中はまだ傷ついていると言わんばかりで、また胸を締め付けられた。
部屋の灯りを消して、ベッドに横になる。ちらりと見やると、小さな背中が悲しそうに俺を見つめていた。
本当は、後ろから抱きしめたい。手を伸ばせば届く距離にいるというのに、今は拒まれる方が怖い。
だからせめて、言葉だけでも届けたいと思った。
「ありがとう、紗妃」
敢えて謝罪の言葉は言わずにおいた。
紗妃は相変わらず無言のままだが、多分俺のために希望の光はまだ残してくれている。そう信じたい。
ひとまず、今日は休もう。
そして明日もう一度謝って、紗妃が何より大事なんだって、俺の気持ちを伝えよう。
紗妃が笑いかけてくれるまで何度でも。
そのためなら土下座でもなんでもする覚悟だった。




