Revive 1 -Side Saki-
土曜日の夜、先生は部活の後、学生時代の友達と飲みに出かけた。
私は佳穂の家で夕飯をご馳走になった後、残り物を分けてもらって帰宅した。
一人で過ごすこと数時間、22時を過ぎた頃に先生からメールが入った。
――『これからニ次会。まだかかりそうだから先に寝てて』
だいぶ楽しんでいるらしい。
学校ではクールで、授業も容儀指導も部活も厳しい先生だけど、プライベートでは一人の陽気な男性だ。
友達と飲むのも久しぶりみたいで、数日前から今夜を楽しみにしていたことも知っている。
だから、先生の帰りが遅くなるのは寂しいけれど我慢しなくちゃ。
そう思って、なるべく先生に心配をかけないよう、『わかりました。楽しんでいらしてください。帰りはお気をつけて。おやすみなさい』と返信した。
先生の言葉に従って先に就寝したけれど、玄関のドアが開いた音で目が覚めた。
時刻は深夜2時。真夜中で静かな分、ちょっとした音が大きく響く。
体を起こすと、閉まったドアの隙間からリビングの明かりがわずかに差し込んでいる。迷いないその足音は確かに先生のもの。
待ち侘びた帰宅だったから、自然と胸が躍る。ストールを羽織ってベッドを降り、リビングに続くドアを開けたら、先生が驚いたように私を振り返った。
「あ。ごめん、起こした?」
「大丈夫です。おかえりなさい」
お酒には強い先生だけど、どうやらかなり酔っているらしい。
その証拠に顔がいつもより赤く、表情も緩やかだ。
何より、少し近づいただけで強烈なお酒の匂いがした。
先生が上着を脱いでいる間に冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いで先生に渡す。
「どうぞ」
「おーサンキュ」
先生はそれを受け取って一気に飲み干すと、そのままソファにもたれた。
くすくす笑いながら、もう一杯麦茶をついで差し出した。
「かなり飲まれたみたいですね」
「飲んだっていうか飲まされたっていうか…あいつら相変わらずマジで容赦ねー」
そう愚痴りながらも、本当はすごく楽しかったんだろう、先生は思い出しながら笑っている。
「明日お休みでよかったですね」
「部活休みにしてよかった。じゃなきゃ明日死んでた、間違いなく」
二杯目の麦茶をあおる先生に微笑みで答えながら、私はソファの背もたれにかけられた上着に手を伸ばした。
思った通り上着にもお酒の匂いが染みついている。消臭スプレーをかけておいた方がいいだろう。
「上着、片付けてきますね」
「ありがと」
と、上着を手に持った瞬間、ふとそこにお酒以外の匂いがあることに気付いた。
(香水…?)
リビングを出て、寝室のクローゼットに向かいながら軽く匂いを嗅いでみる。
…フローラル系の甘い香り。間違いなく、女性用の香水だ。
もしかして、すぐ近くに女性の友達もいたのだろうか。
少しざわつく胸を抑えながら、クローゼットに常備している消臭スプレーを吹きかける。気持ち、強めに。
念のためポケットの中も、と右ポケットに手を突っ込んだら、厚紙のような何かが指に触れた。
取り出してみると、それは小さな名刺で――そこに書かれた文字を見た瞬間、私は衝撃で固まった。
――『今夜は楽しかったぁ♪出会いに感謝♡連絡待ってます♪ 090-××××-××××』
クラブの名前被せるようにして、いかにも女の子が書きそうなくせ字で添えられた手書きのメッセージ。それが意味するものに、私は呆然と立ち尽くした。
(これって風俗の名刺…?)
理解した瞬間、嫌な予感が胸を覆った。
(――もしかして、最初からこれが目的だったの?)
やけに友達との飲みを楽しみにしてたのも、これがあったから?
まさか、飲み会と言いながら今夜この女性とどこかのホテルで――。
その先を想像しかけて、振り切るように慌てて顔をそむけた。
先生に限ってそんなはずはない、という気持ちと。女の人といたからあんなに楽しそうだったんじゃないか、という気持ちと。
信頼と疑惑の感情がせめぎ合って、ますます悪い方向に考えてしまう。
少し迷った後で、私は名刺をベッドのサイドテーブルの一番奥にしまった。万が一にも先生が見つけてしまわないように…。
リビングに戻ると、先生はソファに横になっていた。うとうとして、今にも眠ってしまいそうだ。
「ここで寝たら、風邪ひきますよ」
「んー…」
慌てて声をかけたものの、生返事に私はため息をついた。どうやらここで眠る気満々なようだ。
「お風呂は明日にしますか?」
「うん…」
すごく眠いのだろう、もう既に意識半分、といった様子だ。
――今夜、本当は、どこで誰と何してたの?
喉まで出かかった言葉を、寸前で呑み込む。
それを言ったら先生がどんな反応をするか、ひいては自分がどうなってしまうか分からなかったから。
だから私は本音をぐっと押さえ込んで、暴れそうになる感情に無理やり蓋をした。
「…毛布と布団持ってきますね。おやすみなさい」
「ん…悪い…」
本当はベッドで寝てほしいところだけど、先生を抱き起こしてベッドまで誘導する腕力はない。
だから寝室からゲスト用の毛布と布団を持ってきて、先生に掛けた。
それから寝室のファンヒーターと加湿器も持ってきて、ソファの近くに置く。
全てを終えた時にはもう、先生は心地よい夢の中に旅立っていた。
***
爆睡した先生が目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。
「あーよく寝た…背中いて…」
起き上がるなり、腰を押さえながら大きく伸びをする先生。
そんな先生を少し複雑な気持ちで一瞥し、キッチンから声をかける。
「ごはん、お茶漬けでいいですか」
「むしろそれがいい」
テーブルにお茶漬けを出し、先生が食べている間に毛布や布団を片付ける。
昨日のことを聞きたい。聞きたくない。知りたい。知りたくない。
あの名刺を見つけてから、ずっと感情はざわついたまま。
そんな私の心情などまるで気付いていない先生は、お茶漬けをいつもと変わらない様子で啜っている。
「はあ、染みわたる…。紗妃はもう食べたのか」
「はい」
「そっか。飯食ったら風呂入ろうかな。俺、まだ酒臭い?」
問われたから、素直に頷いた。
「そうですね…昨日ほどではないですが、まだ少し」
「だよなあ。昨日は飲みまくったからな。俺どうやって帰ってきたか覚えてないよ」
そう苦く笑った先生に、ちくりと胸がきしむ。
――記憶をなくすぐらい、何をしていたの?本当は飲んだだけじゃないんじゃないの?
そう聞きたいのに、先生の答えが怖くてやっぱり聞けない。私は意気地なしだ。
「…ちゃんと、一人で帰ってきましたよ。ただ、とても酔っていたようでした」
視線を逸らして答えた。少し声が沈んでしまった気がしたけれど、幸い、先生はそんな私には気付いていないようだ。
「うん、久しぶりにあんなハメ外した気がする」
その言葉にも、ひねくれた解釈をしてしまう。――それって風俗のこと?そんなに、楽しかったの?
「もうアラサーだってのに、みんな完全に学生時代のノリ。色々聞かれたよ、紗妃のことも」
「えっ」
私は驚いて先生を振り返った。
公にできない関係ということもあって、自分が話題に上るとは思ってもみなかったのだ。
「もちろん、生徒だなんて言えないけどさ。写真見せただけ。それでもだいぶ騒がれたけど」
「写真、見せたんですか」
どの写真だろう。先生は時々私を隠し撮りするから、心当たりがたくさんあって困った。
さすがに制服姿ではないと思うけど。
「うん。…って、あ、ごめん。もしかしてそういうの、ダメだった?」
「あ、いいえ…あの、どの写真見せたんですか」
訊ねたら、これ、と言って先生が見せてくれた一枚の写真。それは、やはり不意打ちの一枚だった。
いつだったか、休日に佳穂と買い物に行こうとしていた時のもので、ドロップショルダーのニットにスキニーデニムとパンプスという至極カジュアルな格好で出かけようとしたところを撮られたのだ。
突然だったからカメラに向かう表情は笑顔じゃない。目を丸くして、顔を強張らせていた。
そんな写真を先生の友達に見られたなんて…それだけで恥ずかしくなってきた。
「な、何もこんなの見せなくたって…!」
「まあベストショットは他にあるんだけどさ。あいつらに一番可愛い紗妃を見せるも癪だし。敢えて2番目に気に入ってるやつ見せたんだけど」
「……。」
そういう問題ではないのだけど…と思いつつ、友達に私のことを話してくれたことに喜びは隠せない。
私の存在を隠さずにいてくれた、それがとても嬉しかった。
「それで…あの、お友達の反応は…」
不安なのはそこだった。
もしかして、まだコドモじゃないか、とか言われなかっただろうか。こんな子は似合わないとか…。
「本当にお前の彼女なのか、本当はただの知り合いじゃないのかって、もう散々な言われようだったよ。挙句には彼女に会わせろ、ここで電話しろって言われてさ。でもあいつら紗妃に何言うか分かんないし、全部丁重にお断りしたから。そしたらビールの一気飲み連発させられて、マジえげつない」
屈託なく笑う先生のそばで、私は一人肩を落とした。
ショックだった。
先生の友達にしてみれば、私は先生の彼女に見えなかったのだ。
つまり、不釣り合いだと思われている――そう解釈できた。
「…それは大変でしたね。あの、落ち着いたらお風呂入っちゃってください。洗濯したいので」
これ以上惨めになりたくなくて、強引に話をそらした。
先生はそれすらも気に留める様子はなく、笑顔で頷いて一つ背伸びをする。
そして食べ終わった茶碗をキッチンに運ぶと、そのまま浴室へと消えていった。




