二人きりの放課後
ここから、時間軸は第二部終了後です。
昼休みが終われば、眠気誘う5時間目の授業が待っている。
今日は数学で、佳穂をはじめとする周りの友達は輪をかけて憂鬱だと嘆くけど、私にとっては違った。
もちろん、私だってお世辞にも数学は得意とは言えない。
だけど、心地よく流れるような先生の声を聞けるのは嬉しい。
そして何より、先生をずっと眺めていられることも――。
「ぷはーっ!もうお腹いっぱい。このまま寝ちゃいたーい」
昼休み終了まであと10分。お弁当と菓子パンをたいらげた佳穂が大きなあくびをすると、千沙が頷いて後を続けた。
「よりによって5時間目が数学なんて最悪すぎ…絶対寝れないし。てか、昨日の宿題超難しくなかった!?私今日順番的に当たるんだよね。ユウウツ~」
ため息を連発する友人達に苦笑しながら、私は教科書とノート、それから筆箱を机上に並べる。
それを見て、志保が「いやー!まだ現実を見せないでー!!」と嘆いたけど、避けては通れない道なのだ。
だけど昨日の宿題をファイルから取り出そうとしたところで、私はふと気付く。
「…あ」
――宿題を忘れてしまったことに。
(そういえば…)
昨日、宿題でどうしても分からない問題があったから、先生に教えてもらったんだっけ。
いつもなら、宿題が終わったら必ずファイルに入れて鞄にしまう。だけど昨日はその後、そのまま先生と…。
思いがけず夜更かししてしまったせいで、今朝は寝坊してしまい、朝からバタバタだった。
だから忘れ物がないかちゃんと確認する余裕もなく、そのまま家を出てしまったのだ。
宿題忘れちゃった、と呟いたら、佳穂たちが一斉に固まった。
「せっかくやったのにな…うっかり」
私は心の中で落胆しつつも、悪い空気にしたくなかったから、肩をすくめて笑った。
だけど佳穂達は顔を強張らせたままだ。無理もない、三人とも宿題忘れに漏れなく降りかかる災難を過去に体験している。
「ちょ、そんな暢気に言ってる場合じゃないって!」
「教壇の抽斗にプリントの余りあるかもしれないから見てみよう!『限界挑戦』だけは回避しないと!」
限界挑戦。
それは先生が宿題を忘れた生徒に課す分厚いプリント集の通称だった。
そしてそれこそが、生徒の間で、先生の評判を著しく落としている原因でもある。
その設問数、100問。提出期限は、翌日。
内容も決して簡単な問題ではないから、その日は自由時間もないほど数学漬けになるという。
文字通り、一日でどれだけ数学と向き合えるかという、限界への挑戦だ。
幸いにも私はまだ一度も経験はないけれど、それはかなりのストレスを伴うらしい。
少なくとも、経験した佳穂達が「数字なんてもう二度と見たくない…」「夢にも出てきた…」「ほぼ徹夜だった…」と翌朝げっそりするほどのものだ。
ちなみに限界挑戦が終わるまでどこにも行けないから、自動的にその日の部活は休みになる。しかも、先生に監視されるというオプション付き。
これを通称「生き地獄」と皆は呼んでいるけど、私には魅力的だ…なんて、もちろん佳穂たちには言えないけど。
「でも今からじゃもう……あ」
「んげ」
「やばっ」
「うわ最悪っ」
最後、四人の諦めの声が重なった。
先生が、授業の教科書やプリントを持って教室に入ってきたからだ。
クラスメイトが一斉に席につきはじめて、顔を見合わせる私達。
どうやら、タイムリミットは過ぎてしまったらしい。
「ありがとう、みんな。仕方ないよ。素直に忘れましたって言う」
「…限界挑戦だよ?放課後は生き地獄だよ?」
「頑張るよ。それにほら、分からないところは先生に教えてもらえるから悪いことばかりじゃないと思うし」
「紗妃ってなんてポジティブなの…」
佳穂達は同情の瞳で私を慰めた後、それぞれの席に戻っていった。
まもなくチャイムが鳴り、委員長の号令で挨拶をしたところで、先生がお決まりの台詞を言う。
『限界挑戦』をその手に、脅すような口調で。
「――宿題を忘れた奴、まぁいないと思うが立て」
一瞬、沈黙。少し周りを見渡してみたけど、誰も立つそぶりは見せない。
だよね、と心の中で呟くと、私は勇気を振り絞って立ち上がった。
クラス中の驚いたような視線が私に突き刺さる。
緊張して先生を見あげると、先生も意外な顔してた。
それもそうだろう。私が宿題をやっていたことを、誰より知っているのだから。
***
付き合っているからといって、先生は学校で私を特別扱いしない。
だから宿題を忘れた私にペナルティが課されるのも当然のことで。
その日の放課後、私は部活に行かずに職員室隣の面談用個室でひとり、黙々と『限界挑戦』を解いていた。
「あと90問…」
やっと1枚目の裏表が終わったところで残り数を数え、私はため息をついた。
一度大きく伸びをして、時計を見上げる。もう17時30分を過ぎている。ここにきて1時間が過ぎた計算だ。
理数系の苦手な私にとっては眩暈を覚えてしまうほどの多さ、これを明日の午前中までに仕上げなければならないとなると…。
はぁ、と深いため息をついて、私は一度大きく伸びをした。
できれば学校が閉まる21時までには半分以上終わらせてしまいたい。
そうでなきゃ、先生とくつろぐ時間がなくなってしまう。
そうして何とか自分を奮い立たせてシャーペンを握り直したとき、ドアをノックする音がした。
返事をするとドアが開き、その向こうから先生がどこか複雑そうな顔をして入ってくる。
それでも先生が来てくれたことが嬉しくて、私は疲れを隠して笑顔で先生を出迎えた。
「進んでる?」
「えと…なんとか」
教科書とノートに頼りきりなんですけど、と付け加える。
先生は私の隣に腰を下ろすと、「どこか分からないところは?」と訊ねた。
難しくて解けない問題はいくつか飛ばしていたから、私は素直にあると答えた。
「どこ?」
「この問題なんですけど…」
その場所を指さすと、先生が身を乗り出した。そして問題を読むと、丁寧に説明し始めた。
先生の声を聞きながら、図らずとも学校で二人きりでいることに鼓動が速まる。
家ではよく教えてもらってるけど、場所が学校となると何ともいえないスリルがあった。
(…悪くない)
最初は宿題を忘れたことを残念に思っていたけれど…こんな風に先生と二人きりになれるなら、全然悪くない。
「――になるだろ。で、点の座標は原点Oからのベクトルの…っておい、聞いてるか?」
「…あ。すみません…っ」
完全に上の空だった私に気付いた先生が顔をしかめた。
「せっかく説明してるのに」
「ごめんなさいっ」
頭を小さくさげたら、先生がひとつ息をついて。それから小声で私に言った。
「大体、昨日せっかくやった宿題を忘れたりするなんて、らしくないぞ」
「………。」
「あ、なんだよ。今俺のせいだって思ったな?まぁ、否定はできないが」
無言で先生をねめつけると、先生が私の思考を読んだように笑った。
もちろん、学校に行く前にちゃんと確認をしなかった私が悪い。それは認めてる。
でも昨日の夜、先生が途中でヘンなことをやり始めなければ、私は間違いなく鞄に宿題をしまっていた。
だからだろうか。ちょっとした悪戯心がむくむくと顔を出して――そほ教師顔を崩してやりたくなった。
「…どうした?」
無言でじっと見つめる私を、先生が怪訝に見返す。
私はそんな先生をそのまま数秒見続けた後、居心地悪そうに首をかしげる先生の一瞬の隙をつくと、掠めるように一秒のキスをした。
「――!!?」
私の突然の行動に、先生はかなり驚いたらしい。いつもの先生らしくなく固まっている。
数秒後、ようやく思考を取り戻した先生は二人きりだというのに周りをきょろきょろと見渡した。
「突然なにして…っ!?」
「…誰も見てませんよ?」
慌てる先生がなんだか面白い。座りなおして距離を詰めると先生がたじろぐ。
それでも、私から離れようとはしないことが、とても嬉しい。
勢いづいた私は、思い切ってもう一度先生に顔を近づけた。
先生はしきりにドアや窓を気にしているけど、窓のカーテンもドアもしっかり閉まってるから大丈夫だろう。
ちゅ、と先生の唇に自分のそれを押し付ける。
ほんの一秒のキス、顔を離したらそこには目を開けたまま固まってる先生。
こんな表情は、二人きりのときだけにしか見せてくれない。
「なんか紗妃が積極的だと調子狂うな…」
私の名前を先生が呼んだ。というよりは、つい口から零れてしまったと言った方が適切だろう。
でもね、そうやって素の先生を見せてくれることが嬉しいの。
困惑気味な先生に少し笑うと、私はその肩口に寄りかかるようにして頭を預けた。
そんな私の肩を、先生は何も言わずに優しく抱き寄せる。
――先生はただ、知らないだけで。私はいつだって、こういうこと考えてるんだよ。
自分からたくさんキスしたい。思いっきりその大きな背中に抱きつきたい。
もっと欲を言うなら、先生の笑顔を独り占めしたい。
先生の毎日が私でいっぱいならいいのに。私のことしか考えないで。いつだって私のことを想っていて。
でもそう口にしないのは、現実はそう簡単じゃないと知っているから。
だからこそ、今だけは信じさせて。先生にとって、私は何より特別な存在なのだと――せめて私が先生の傍にいる、この瞬間だけは。




