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1-5.初めての食卓

賭けのことなんてまるで嘘かのように、一日が走りすぎた。

何度か先生と話す機会があったけれどどれも業務連絡で、特にいつもと変わらない。

でも学校から帰って玄関のドアを開けた瞬間、先生が時々学校で履いているスニーカーが目に飛び込んできて、私は現実を思い出した。

それはつまり、ここに先生も帰ってくるということ。男嫌いの私が、男の先生と一緒に暮らしているということ…。


先生はバスケ部の顧問をしているので、帰るのはいつも19時を過ぎる頃らしい。

私は学校帰りに買ってきたルームウェアに着替えると、さっそく台所に立った。

先生は家事しなくていいって言ってたけど、一応無料で住まわせてもらってるわけだし、料理も掃除も出来ることはやりたいと思う。ちなみに洗濯は各自別々でやることで既に合意している。


冷蔵庫の中を見てみると、思った以上に種類豊富だった。キッチン道具も揃ってるし、しっかり自炊をしているようだ。

一通り食材を確認して、照り焼きチキンを作ろうと決める。

料理は決して得意な方じゃない。が、全く出来ないわけでもない。言うならば、好きなものしか作れない。

加えて甘党な私だから、必然的に甘めな味付けになる。それでも不味くはないはず…と、信じたい。


「ただいま。うわ、すげーいい匂い」

照り焼きチキンが丁度いい具合に焼き上がってきた頃、先生が帰ってきた。

テーブルに並んだ炊きたてのご飯とお味噌汁、チキンに和え物、それからサラダを見て、先生が「おお」と感嘆の声をあげた。


「おかえりなさい。冷蔵庫の中身、使わせていただきました。勝手にすみません」

「いいよ、全然。どんどん好きに使って。欲しい食材あったら買ってくるし」

「…はい」

「家に帰ったらご飯があるとか何年ぶりかな…今日デリバリーにしようかと思ってたからすごい助かったよ」


その声はどこか弾んで嬉しそうだ。ご飯を作ったくらいで大袈裟すぎやしないだろうか。

私はそう思ったけれど口にはせず、箸を並べて先生のコップに緑茶を注いだ。

椅子に座った先生が「ありがと」と告げたけれど、特に返事は不要と判断した。


「では、失礼します」


小さく会釈し、お盆に載せたご飯とともに自分の部屋に引っ込もうとした私を、先生が呼び止めた。


「せっかくなんだから、一緒に食べよう」

「お断りします」

即答したら、先生が呆れた溜息をつく。

「あのな。飯っつーのは、一人より二人で食ったほうが絶対美味いんだぞ。ほら、座って」


有無を言わせない教師口調。いつかの夜もそうだったけど、こういう時だけ、ほんとずるい。

じろりと先生を睨みつけてみたけれど効果はなく、それどころか早く座るように顎で催促してきた。

…ほらこんなところも、あの夜と全く同じ。


しばし逡巡したのち、私は渋々と頷いた。

あまり意地を通して気まずくなるのも却ってやりにくい。一応同居人なんだし食事くらいならと思い直し、大人しく自分の分もテーブルに並べた。


「え、なんでそこ?」


4人がけテーブルで私が座ったのは先生のはす向かい、そこを選んだのは少しでも距離を保ちたかったからだ。


「…いけませんか」

「二人で飯食うのに斜めは不自然だろう」


言いながら、先生はお皿と一緒に私の正面席へと移動してきた。そして無言で非難する私に構わず、いただきます、と手を合わせてから食べ始める。

「ん、美味い」と言いながら、どんどん食べ進む先生。どうやら口にあったみたいだと少しほっとしながら、私も諦めて箸を持つ。

――本当、男と二人でご飯なんてありえないのに。


「どうだった?学校は」


しかも、保護者のようなことを聞いてくる。正直言って、大きなお世話。


「…別に。普通です」

「その普通が聞きたいんだけどなぁ」


面倒な視線をちらりとやると、そこには何故か楽し気な顔。私の一日など知って、一体何が面白いというのだろうか。


「話題になりそうなことは何も。…ああ、佳穂がまた泊まりに来てねって言ってくれたので、もしかしたら今週末もお世話になるかもしれません」


暗にあなたと一緒にいたくないのだと含んで答えると、「そっか」と先生が視線を一瞬だけ下に向けた。そこに僅かな失望が浮かんで見て取れたのは、気のせいだろうか。


「原田は大崎と仲がいいんだな」

「はい」

「大崎には悩みも言える?」

「…まあ」


一瞬返事に詰まったのは、過去のこと、叔母さんの家から出たこと、先生と賭けをしていること――佳穂には何ひとつ打ち明けられていないからだ。


「そうか」


不自然な間に先生も気付いたはずだけど、特に深追いされることはしなかった。その配慮が今はありがたい。


「先生とのことは言っていませんのでご安心ください」

「うん、そうだな。もちろん、信頼してる」


さらりと零れた最後の一言。あまりに胡散臭くて、私は思わず笑ってしまった。

だけどその理由を理解できなかった先生は怪訝そうに首を傾けた。


「いま何に笑った?」

「あ…すみません。やけにあっさり信頼するんだなって思って」

「え、嘘なの?」

「嘘だったらどうするんです?」


挑戦的な視線で問いかけた。

だけど先生は機嫌を損ねるわけでもなく、「だとしたらショックだなぁ」と呑気に答えた。


「きっと私のこと軽蔑しますね。話すのも賭けをするのも、同居するのも嫌になるのでは?ギブアップしてもいいですよ?賭けは私の勝ちになりますが」

「そんなことしないし、軽蔑もしないよ。だって俺が原田を信じることと、原田が俺に嘘をつくのは全く別問題だし」

「は…?」


今度は私の方が意味を理解しかねた。嘘をつかれなければ軽蔑することもないはずで、それのどこが別問題だというのだろうか。


「信じるって決めたのは俺だから、嘘つかれて傷ついてもそれは俺の問題。原田のせいじゃないよ」

「でも…そうさせた私を恨めしく思うんじゃ」

「思わない。まあ…次から注意深くはなるかもしれないけど」

「…呆れた。先生って、結構お人好しなんですね。そんなんだと、いつか簡単に騙されちゃいますよ」

「うーん、それが意外にそうでもないんだよなあ。何つーか、人間性っていうのかな、その人の話し方とか雰囲気はもちろんなんだけど、騙そうとするやつは大抵話の辻褄が合わなかったり突っ込むと目が泳いだり、何かしらボロが出るから分かる」

「私はそうでないと?」

「うん、むしろ嘘とか一番嫌いなタイプ。違う?」


小鉢の和え物を口に運びながら、まるでお見通しと言わんばかりのにやり顔。

そしてそれが当たっているから悔しい。


「…さあ。どうでしょう」


素直に頷けなくて、私は視線を逸らして誤魔化した。その態度こそが答えだと気付かないままで。



夕食後の食器洗いは私が引き受けた。

先生は仕事があるみたいだったし、自分の部屋にいたってどうせやることない。

そういう訳で、さっきまで食器が並んでいたテーブルは、今は先生の仕事の書類で埋め尽くされている。

先生はノートパソコンに向かいながらせっせと仕事をしていたけれど、私が食器を棚に戻していると突然キッチンに入ってきた。

長身で筋肉質な先生が近くに来ると、それだけで圧迫感に似た何かを感じる。にわかに恐怖心が募り、思わず後ずさりして距離を保ったら、そんな私に気付いた先生が苦く笑った。


「…何もしないさ」


先生は無実を主張するかのように両手を挙げながら私の前を通り過ぎると、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。

それを一瞥し、最後に大鍋をキッチンボードの上棚に戻そうと精一杯ぐっと背伸びした…のだけれど。


「あっ!」

却って不安定になってしまって、足がよろめく。

同時に半分ほど収まりかけていた大鍋は中途半端なまま支えを失い、重力のままに私を目指して棚から落ちてきて――。


「きゃ…っ!」


ぶつかる、と思ったその一瞬では、もうどうすることもできなかった。咄嗟に目を瞑り肩をすくめ、頭を手で庇う。

直後、大鍋が何かに当たって床に落ちる鈍い音が響いた。ところが一体どうしたことか、衝撃は一切感じなかった。その代わり、そこにあったのは私を覆う大きな影と…先生のシャツの匂い。


(…え?)


恐る恐る目を開けてみると、目の前には先生の胸があった。あのわずかな時間で移動し、私を庇ってくれたのだ。

だけど私には指一本触れていない。私を囲うようにしてキッチンボードのふちに両手をつき、まるで防御壁のように私の前に立ちはだかっただけ。


触れられていないのに、その温もりを間近に感じる。その矛盾が余計に胸をざわつかせた。


「…大丈夫?怪我はない?」


真剣な、気遣う瞳が私を覗きこむ。私は動揺のあまり先生を直視できず、ただ首を縦に振ることしかできない。


「ならよかった。届かない時は無理せず呼んで。俺がいないときは脚立を使うといい。あとで持ってくる」


先生はそう言いながら落ちた大鍋を拾い上げ、軽々と棚に戻した。私が頑張ってもできなかったことをさらりとやってのけたその姿に唖然とする。

と同時に自分が情けなくなって、ぎゅっと唇を噛み締めた。


「すみません…でした」


私はそれだけ言うと、自分の部屋へと駆け込んだ。

しきりに胸がドキドキして、しばらく鼓動が鳴りやまなかった。


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