2-15.守りたいもの
誰かが私の髪を撫でている。
労わるように慈しむように、何度も…心地よく。
ゆっくりと意識は覚醒した。
薄く目を開けるとすぐ前には真っ白な壁があって、身体は硬いマットの上だった。どうやら私は救護室のベッドに横たわり、壁を向いた状態で眠っていたらしい。
体温を奪われないよう、私の体には温かな毛布がかけられている。そして背後に感じる気配――それが誰なのか振り返らなくても分かるのは、世界で一番安心できる人だから。
ぼんやりと状況を理解した後、私は再び目を閉じた。
そして、私の髪を優しく撫でる先生の手の温もりを噛み締める。
このまま、時間が止まってしまえばいい。そうして、先生がずっと私だけのものであってくれたなら。
「――失礼します」
穏やかな時間は、ドアをノックする音で突然終わりを告げた。
ドアを開け入ってきたその人物の声には、ひどく聞き覚えがある。
「眞中」
途端に先生の手が離れていく。それをとても悲しく、寂しく思った。
「どうしてここにいる。バスの中にいろって言っただろ」
「まだ出発まで少し時間ありますから。橋本先生にはちゃんと生徒代表ってことで許可をとってきました。…紗妃の様子は?」
「まだ寝てる」
「紗妃はどうなるんですか?」
「飛行機に間に合わなかったら、東京に戻るのは明日だな」
「先生も残るんですか」
「まさか原田一人置いてくわけにはいかないだろう」
「なら、俺も残ります」
「馬鹿言え」
「先生と紗妃を二人きりになんてしておけない」
厳しい声がぶつかり合う。
私は目をつぶったまま、固唾をのんで二人の会話に耳を澄ませた。
「先生に訊きたいことがあります」
「答えられる質問なら答える」
「紗妃と付き合ってますよね?」
ストレートな質問だった。一瞬にして、室内に緊張が走る。
「紗妃は言い逃れしてたけど、俺は確信しています。紗妃を見てきたから、俺もそれくらい分かる。…答えてください。紗妃と、付き合ってるんですか?」
先生は何も答えない。
いつも白黒はっきりさせる先生のことだ、私みたいに答えを濁すことはないだろう。だけど真実を口にすることは自殺行為でもある。だからどうか今は否定して、と私は願った。
「どうしたんです?答えてください」
無言の先生に痺れを切らし、眞中くんが急かすように追い立てた。
静寂の一秒が、やけに長い。
息を殺して待つ中、やがて先生が口にした答えは。
「…そうだよ」
衝撃のあまり、私は耳を疑った。
だってありえない。まさか肯定するなんて――それも、生徒である眞中くんを相手に。
「原田と付き合ってる」
「…!」
質問したにもかかわらず、彼自身、まさか肯定されるとは思わなかったらしい。
悪びれもしない先生の態度に、動揺を隠しきれないみたいだった。
「なにを、平然と言ってるんですか?自分が何言ってる分かってます?教師と生徒の恋愛なんて、許されるわけがない。今すぐ別れてください、そうすれば、」
「断る」
眞中くんを遮って先生が答えた。
なんの躊躇いもなく、はっきりと。
「別れない。少なくとも、俺からは」
断言した先生の言葉が嬉しかった。
だけど同時に混乱もしていた、先生は今でも私のことを想ってくれているのかと。
――君川先生のことは、本当に私の勘違いだったの?
そしてその疑問は、眞中くんの口から先生に投げられた。
「先生は君川先生が好きなんじゃなかったんですか」
「ありえない。ただの友人だし、そういう感情は一切ない」
「でも紗妃はもう先生にウンザリしてるみたいですよ。さっきも嫌がってたし」
それは違う、と私は心の中で叫んだ。
違う、そんなんじゃない。
捨てられるのが怖かったから意地を張っていただけ。強がって、別れを拒んでいただけ。
でもそう釈明することもできなくて、私は先生の反応を静かに待った。
「…話せば分かってくれると、信じてる」
「どうですかね。いい加減、リスクだらけの相手に見切りをつけて俺を選ぶかも」
「なら奪い返すまでだ」
即答した先生に眞中くんが言葉を詰まらせた。
「生半可な気持ちで選んだわけじゃない。全てを失う覚悟はできてる。きっと、好きだと認めた瞬間から」
先生の言葉は、私の胸をぎゅっと強く締め付けた。
だって、こんなの…こんなのって。
迷いなどないまっすぐな想いが沁みて、私の荒んだ心を急速に潤していく。ぐちゃぐちゃに固まった猜疑心さえ、あっけなく溶かしてしまうほどに。
「…学校に、バラしますよ」
「そうしたいなら、そうすればいい」
「教師を辞めてもいいと?」
「そういうわけじゃない。ただ、お前がやると決めたなら、俺に止めるすべはない。…けど、その前にいくつか頼みたいことがある」
「聞ける頼みなら聞きます」
明らかな意趣返し、先生も気付いて小さく苦笑した。
「バラすのは原田の気持ちを聞いてからにしてほしい。彼女の意思に反することはしたくない」
「ということは、紗妃が別れたいと言ったら潔く受け入れるということですね?俺だって、諦めるつもりはないんで」
挑発的な言葉に、先生は少し間を置いて答えた。
「…ああ、約束する」
「なら、いいですよ」
「ありがとう。…あとその時はさ、俺が一方的に付きまとったってことにして欲しい。俺はどうなっても構わないけど、原田だけは守りたい」
それはとても優しい響きだったけれど、とても残酷な言葉だった。
先生を犠牲にして自分だけ学校に残るなんて、絶対に嫌だ。
先生が私を守りたいと言ってくれたように、私だって先生を守りたい。たとえ何を犠牲にしたって…退学することになったって。
「――"守りたい"? は、ふざけんな。なにカッコつけてんだよ」
泣きそうになるのを必死で堪える私とは対照的に、眞中くんは鼻で嘲笑った。
どんな時も先生に対して一定の礼儀を忘れない彼にしては、非常に珍しい。でもそれこそが彼の想いの強さを証明しているようで、胸が痛んだ。
「どんな勇ましいこと言っても、やってることがそもそもルール違反だから。生徒を好きになるなんて、教師失格だろ」
怒りを伴って突きつけられた正論を、先生はただ黙って受け止めている。
反論など、できるはずもない。でも、そんなの最初から承知のうえだ。
だって幸せと正しさは両立しない――少なくとも、私たちの場合は。
引き返せる道なら、とっくに引き返していただろう。
だけどできなかった。禁忌を冒してでも、求めてしまったから。
「まあ、でも、紗妃を傷つけるのは俺も本意じゃないんで。検討はしますよ」
「…うん。頼むよ」
――コンコン
その時、部屋の扉が叩かれて、どうぞ、という先生の声に続いて扉が開いた。
「橋本先生」
名前を呼んだ先生の声で、誰が来たのかを知った。
「そろそろ出発の時間なんですが。原田の様子はどうですか」
「…まだ起きなくて」
「そうですか…では、仕方ないですね。生徒たちは責任もって連れて帰りますから、安心してください。それにしても、今回は本当に大変でしたね」
「一番可哀想なのは原田だと思います。一生に一度の高校の修学旅行がこんなになってしまって…申し訳ないです。すみませんが、あとはお願いします」
「承知しました。さあ眞中、バスに戻ろう」
「俺も一緒に残ります」
「心配する気持ちは分かるが、それはできない。東京に戻ったらまた会えるんだから、それでいいだろう」
「そういう意味じゃなくて」
「なら、どういう意味だ?」
「だって先生と原田は…」
そこまで言って、眞中くんは沈黙した。多分、私と先生の関係を暴露すべきか迷って、でも私の意思を確認した後でと約束した手前、それができなくて――だけど最後には、思いとどまってくれたようだ。
「…いえ、なんでもないです。…分かりました」
「そうか?じゃあ、戻ろう。では高上先生、また東京で」
「はい」
先生の返事を最後に扉が閉まる音が聞こえて、眞中くんと橋本先生の気配が部屋から消えた。
そうして二人きりになった部屋で、先生はしばらく沈黙して――耳を澄まさなければ聞こえないほどの声で呟き、自嘲した。
「…ほんと、バカだよなあ。バレたら人生棒に振るようなもんだって分かってるのに。…それでもさ、出会わなきゃよかったなんて微塵も思えないんだよ。教師失格だろうとなんだろうと、ただ…側にいたいんだよ」
その言葉は多分、誰に向けられたわけでもない、強いて言うなら、先生自身に向けたものなのだろう。
だけどだからこそ何より真実で、胸が震えてどうしようもなくなって…今度こそ、涙を堪えることができなかった。
同時にようやく気付く――不安に囚われて見えなくなっていただけで、本当はもうずっとずっと、私は先生の愛情に包まれていたのだということに。




