2-13.本音と強がりの間
携帯には先生からの着信やメッセージが何度も届いていた。
未読のまま増えていくそれらを、私はずっと見て見ぬふりをしたままだ。
もしもそれが別れの言葉だったらと思うと、どうしても怖くて勇気が出ない。
そんな私に、ホテルに到着後、様子を見に来た佳穂は、全て勘違いかもしれないと言った。
だから先生とちゃんと話してみるようにと。
…だけど、と警戒心は親友をも疑う。
勘違いじゃなかったとしたら?
別れたいと言われてしまったら?
私は確かに見てしまったの。先生と君川先生が抱き合っているところを。
確かにこの目で見た事実を、一体どうやって覆せばいいのだろう?
別れたくない。別れの言葉は聞きたくも見たくもない。先生はまだ私のものだと、信じていたかった。
別れ話を恐れる私だから、先生が部屋に訪ねても面会できる度胸などあるわけがない。
迷った挙句、結局私はドアの向こうに先生を「かなりの体調不良」で追い返した。
そのことに怒ってしまったのだろうか――頻繁に送られていた着信もメッセージも、それ以降はぷっつりと途絶えた。
自分から拒否したくせに、携帯が静かになるとそれがまた不安になる。
私のこと嫌いになってしまったの?
もうどうでもいいと思ってる?
本当は、ずっとずっと会いたくてたまらないのに…。
私を捨てないで欲しい。別れたくない、まだ好きなの。
心配かけてごめんなさい、あんなこと言ってごめんなさい。
嘘でもいいから私を愛して。偽りでもいいから愛してるって言って。
私は先生がいるなら、それでいい。
だけどそれを行動に移せなかったのは、もう一人の冷静な私がそれを許さなかったからだ。
偽物の愛なんて手に入れてどうするの?それで幸せになれるの?
そこに残るのは虚しさだけと知っているのに、どうしてそこまでするの?
そこまでして繋ぎ止めたいだなんて、どこまで惨めなの。
本音と強がりの狭間で身動きすらとれず、私は途方に暮れていた。
何もできないまま、携帯を眺めては目をそらす。だけどそのうち、また戻ってしまう視線。
と、突然携帯が鳴った。慌てて手に取ってみたけれど――ただのDMだった。
大きな息を吐いて携帯を握り直す。何を考えたわけでもなかったのに、そのまま指が向いた先は…先生との幸せな日々が文字の中に残る、メッセージ履歴だった。
「…先生」
ただ名前を呼んだだけで、想いが次々に溢れてくる。
「…先生…っ」
零れる涙も拭わず、私は泣いた。
別れの言葉を告げられるまで私たちは終わらない。
先生が愛を囁くのは私だけで、私にも同じ特権が与えられている。そういうことになっている、今は…まだ。
「先生の恋人は、私だから…」
自分に何度も事実を言い聞かせた。
私たちは続いている。終わってない。たとえ実質すでに「他人」であろうとも、「別れよう」と先生に言われるまでは。
恋人という響きだけが、今の私が縋る全てだった。
***
修学旅行5日目、最終日。
ついに私は修学旅行に戻ることができた。
といっても今日は帰京が主な目的、実質お土産を買うくらいしかできないけれど、また佳穂たちと一緒にいられることが嬉しくて、私は朝食後、ホテル前の駐車場で佳穂たちと合流した。
散々迷惑かけたはずの私を誰も責めたりはせず、まるで何もなかったかのように接してくれた。
そんな優しさが本当に嬉しくて、でも申し訳なくて、涙が零れそうになったのは一度や二度じゃない。
そしてふと視線を向けた先には先生もいて…。
久しぶりに見た先生に、胸がチクリと痛む。目が合って、とっさに目をそらした。それと同時に騒ぎ出す鼓動。
――ああ、どうして。
一目見ただけで、こんなに愛しさが溢れだしてくるんだろう。
私は俯いたまま先生に軽く会釈して列に並んだ。先生も何も言うことはなく、いつもどおり点呼を始めた。
機械的に私の名前を呼ぶ先生の声。「はい」と小さな声で答えた私。
これが、約1日半ぶりに交わした二人の言葉だった。
佳穂たちと一緒にいられることは嬉しかったけど、気分の方は全く優れなかった。
理由なら分かっている。明らかな睡眠不足、昨日も一昨日もほとんど眠れていない。
だって目を閉じたら、あの二人が抱き合っている姿が夢に出てきそうで…。
「紗妃、ちょっと顔色悪いよ?大丈夫?」
「ん、…大丈夫」
志保に心配そうに覗きこまれて、私はなんとか笑顔を作りつつ顔を横に背けた。
今はなんとか化粧で誤魔化してはいるけれど、目の下のクマに気づかれたくなかったのだ。
「具合悪い?君川先生のところ行く?」
「ううん。いいの。平気」
首を横に振りながら、それだけは絶対に嫌だと思った。
だって君川先生に会ったら、自分を保っていられる自信がない。
周りに志保がいても、あの人を見た瞬間、私はきっと嫉妬で狂ってしまう。
あの人を罵ってしまう。泣き叫んでしまう。先生を奪わないでって…。
とはいえ、体調は時間を追うごとにどんどん悪くなっていく。
最初のうちは買い物もできたけれど、やがて眩暈すら伴って、歩くのもしんどい状態だった。
不幸中の幸いは、行動単位が個人だったこと。
買い物するもしないも個人の自由なので、班行動のように全員そろって動かなくていい。
つまり決められた範囲内にいれば、何をするにも自由なのだ。
叔母さんたちへのお土産は午前中のうちに買ってあるので、個人的に買い物する理由はもうない。
だから、佳穂たちがお店の中を見て回っている間、私は入口にあるベンチに座って休んでいた。
時間的にこのお店を出たらバスに乗って、空港に向かうことになるだろう。もう少しの辛抱だ。
「…大丈夫、じゃないわよね、どー見たって」
買い物を終えて戻ってきた佳穂が、しんどそうな私を眉をひそめて覗き込んだ。
「…どうする?君川先生のところ、いく?」
私の心中を察しているのか、佳穂が気遣って尋ねた。
本当なら、君川先生のところに無理やりにでも私を引っ張って行きたいんだろうけど、私が塞ぎこんでいる理由が理由だから、あくまで私に判断させようとしているらしい。
「私としては、行くことを強くお薦めするけど…」
当然、私はその忠告も拒んだ。
…あの人に看られるくらいなら、このまま倒れてしまったほうが数倍マシだ。
頑なに拒む私に佳穂はため息をついたけど、怒ったりはしなかった。
「紗妃、どうしたの」
眞中くんの声が聞こえて顔をあげると、ショップ袋をいくつか持った眞中くんが訝しげに近づいてきた。
「…平気。ちょっと気分が悪いだけ」
小さな声で答えると、眞中くんが佳穂同様、私を窺うように覗き込んだ。
「え?大変じゃん。君川先生のとこに…」
「いいの。それほどじゃないから」
「でもめっちゃ気分悪そうじゃん。絶対君川先生のとこに行ったほうがいいって。俺、ついていってやるし」
「…いいのっ!」
眞中くんが私の腕を掴んで立ち上がらせようとしたけど、私はそれを振り払った。
「…いい。大丈夫。ちょっと休めば、大丈夫なの。ありがとう」
そう言ってみても、呂律すらも上手く回らなくなってきて。
自分でも相当ヤバイと思った。それでも、絶対に行きたくない。
「…何かあった?」
何も答えずにいると、眞中くんは諦めて佳穂に尋ねた。
だけど佳穂も、ただ肩をすくめただけで話そうとはしない。
「…じゃあ代わりに薬を取りにいこうか?」
「本人が行かないとダメよ。診察した上でしか薬はもらえないことになってる。見渡す限りドラッグストアもないし…。第一、行って帰るだけの時間はもうない。私はここに紗妃と一緒にいるわ。眞中くん、他を見てきたら?」
「でも俺…」
と、眞中くんが言ったところで眞中くんの携帯が鳴った。
どうやら、友達からの呼び出しの電話がかかってきたらしい。
「…またあとで来るよ」
「うん」
「紗妃、何かあったらすぐ電話しろよ?」
「…ありがとう」
なんとか微笑んで頷く。
眞中くんはなお心配そうだったけれど、背中を向けて足早に遠ざかっていった。
彼がいなくなった後、佳穂が驚いたように訊ねた。
「眞中くんに携帯番号教えたんだ?」
「うん。昨日、部屋に来たときにね」
「…ねぇ、紗妃。例えば、さ。兄貴と眞中くん…今なら、どっちを選ぶ?」
その問いに、すぐに答えられなかった。
数日前の私なら、迷わず答えていただろう。
だって私は先生のもので、先生も私のものだったから。だけど、今は…。
もしも、私が彼を受け入れたなら。私の傷を眞中くんは癒してくれるだろうか。
もしも彼と付き合ったなら、普通の恋愛ができるのだろうか。
休日には二人でデートにでかけて、街中で堂々と手を繋ぐ。
先生とはできないことが彼とならできる。
――いっそのこと、それがいいのかもしれない。
堂々と「好き」って叫べないのは嫌だ。堂々と恋人と呼べないのは悲しい。
きっと秘密と我慢ばかりの恋愛より、そっちのほうがいい。
年齢は同じだし、色々と共通する話題もある。
そもそも教師と生徒の恋なんて、道徳的にあってはいけないのだから。
(…そんなの、いや)
強引に納得しようとしたけど、心の奥で私の本音が呟いた。
本当に、私は眞中くんを好きになれるの?
先生を忘れられるの?まだこんなにこんなに、好きでしょうがないのに?
年齢なんて関係ない、生まれたのがちょっと先生が早くて私が遅かっただけ。
社会に出てみれば私達ほど年の離れたカップルなんて山ほどいる。
私達が教師と生徒でいるのだってあと1年半だけ、それを諦める理由にしたくない。
「…紗妃?」
ぽろぽろと突然泣き始めた私の背中を、佳穂が隣に座って優しく撫でた。
その優しさが一層私の心に沁みて、隠しきれない涙と本音が溢れてくる。
共通の話なんか、なくてもいい。
手を繋いで歩けなくたっていい。
堂々と恋人だって呼べなくてもいい。
だって私が一番必要としているのは、そんなことじゃない。
否定しても、否定しても。
その裏には絶えることのない希望が確かに在る。
そしてそれが私に強く訴えるのだ。
本当にこれで終わってしまってもいいのか、このままで後悔しないのか、と。




