2-10.子ども扱いしないで
1階のロビーで待っていたのは、教頭先生だけじゃなかった。その隣には先生の姿、私が身なりを整えている間に戻ってきたのだろう。
逃げ出したくなる気持ちを抑えながら二人に近づくと、テーブルをはさんだ正面の椅子に座るよう促された。
一礼し、椅子に腰を下ろす。
ちらりと見上げると、先生の視線とぶつかった。顔を険しくしているところを見ると、怒っているのだろう。…当然だ。佳穂からの連絡を受けて、ずっと探してくれていたと聞いた。
まっすぐに見つめるその瞳に耐え切れなくて、私は気まずく視線を逸らした。
「一体どうしてコースから外れたりしたんだ」
教頭先生の問いに、私は無言を貫いた。
まさか先生と君川先生の車を追いかけてましたなんて、言えるわけがない。
「答えないか、原田」
無言の私に、反省の色がないと見たのだろう。
教頭先生が怒りを隠さない様子で声を張り上げた。
「先生も生徒も、皆がお前のことを必死に探したんだぞ!それなのにお前は君川先生に無礼な態度を取り、その上理由も答えないのか。お前は自分がどれだけ迷惑をかけたのか本当に分かっているのか!?」
怒鳴られて、私はうなだれた。強く拳を握り、涙をぐっと堪える。
それでも何も答えずにいると、それを傍で見ていた先生が「教頭先生」と呼んだ。
静かな声が、興奮する教頭先生に冷静を取り戻させる。
「原田も何か理由があったんだと思うんです。…私に任せてくれませんか。ちゃんと理由を聞き出します。この度は指導が行き届かず、申し訳ございませんでした」
先生はそう言って、教頭先生に向かって頭を深く下げた。
そのことに思い知らされる非情な現実――私と先生間には、どうしたって越えられない壁がある。
先生が好きで…君川先生に盗られたくなくて、必死に追いかけたというのに。
結局こんなことになるなんて、私は却って先生との溝を深めただけ。
だって、「指導が行き届かず」だなんて、「教師」の言葉。
恋人のはずなのに、教師と生徒という立場はこんなに違う。
私は先生に守ってもらうばかりで、何一つ返すことができない。
でも君川先生なら全てが対等で、きっと先生を守ってあげられる。私の失敗は全て先生が被るけど、君川先生なら二人で分け合える。
もしかしたら、先生もめんどくさいって思ってるのかもしれない。
こんな私じゃなくて、もっと大人な人と恋愛したかったと――君川先生と堂々と付き合いたいと。
あんな風に、隠れて会ったりするんじゃなくて。
「原田、来なさい」
私が俯いている間に先生は教頭先生と話をつけたようで、私に移動を促した。
苗字で呼ばれて、理由は分かっていても、心が納得できない。
それでも反論することなどできるわけもなく、とぼとぼとその背中を追う。
気まずい雰囲気の中、無言でエレベーターに乗り向かったのは先生の部屋。
昨日、ここを訪れた時はスリルにも似たドキドキが私にはあった。
まさか、次にこんな形で訪れることになるだなんて、一体どうして想像できただろう…。
「さて。…理由を教えてくれるか?」
小さなテーブルを挟んで私の前に座った先生は、いつもの優しい声音だった。
だけど私は決してその目を見ることができない。
「何か理由があったんだろ?」
先生の車を追いかけていたことを言うべきか迷う。
でもそうしたら、全てが壊れてしまう気がした。言ったら、優しい先生が遠くに行ってしまう気がした。
「なんだバレたのか」って、「じゃあ別れてくれないか」って…そう言われるのが、怖くて。
捨てられたくない。勘違いでもいいから、傍にいて欲しい。
偽りでもいいから、愛して欲しい。同情でもいいから、独りにしないで欲しい。
心の奥にある本音に気付いて、私は自分が更に惨めになった。
こんな感情、今までなかったのに。偽物の愛なんて要らないって思ってたのに。
でも私は、先生を求めている。先生なしではもう立っていられないくらい、先生に依存している。
どうして?こんな私じゃなかった、はずなのに。
何も答えない私に先生がひとつ息をつく。
そのため息が悲しくて、私は言葉を出せない。
「言わなくちゃ、何も分からない」
その声は優しかったけど、まるで駄々をこねる子供をなだめるような言い方だった。
それが一層苦しい。
「俺に迷惑かけるならまだいい、俺は笑って許せる。けど、今回はそうはいかない。今は修学旅行中で集団行動で全てが動く。その中で今回の行動はあまりに勝手すぎた。そうだろ?」
二人きりだからか、話し方は比較的柔らかい。
でもその教師口調が上から目線に思えて、不満を少しずつ隠しきれなくなる。
それはやがて態度に表れ、私はそっぽを向きながらぶっきらぼうに答えた。
「別に…理由なんか、ありません。ただなんとなく、散歩したかったから」
「……」
私の言葉に、先生が眉をひそめた。
勘のいい先生のことだ、きっと嘘だと見抜いているだろう。
でも簡単に私を懐柔できると思っているなら大間違いだと、そう思い知らせたかった。
そんな大人の顔など、崩れてしまえばいい。
教師の仮面なんか外して、怒ればいいじゃない。
どうして、私を宥めるように言うの。壊れ物を扱うように優しくするの。
…私のために、頭をさげたりするの。
その全てが、私を苦しくさせる。
私は無力なんだって、思い知らせる。私は先生には相応しくないんだって。
「…そんな言い訳が、通用するとでも思ってるのか?」
低い先生の声が聞こえた。今度こそ、怒らせてしまったのかもしれない。
だけど、私は表情一つ変えなかった。
むしろ、もっと理性をなくせばいいと思った。
「理由もなくいなくなるような人間じゃないだろう」
「まるで知ったような口ぶりですね」
「何を突っかかってるんだよ。らしくない」
らしくない、その一言が私の怒りを増大させた。
――つまり、優等生らしくない私など価値がないと?
先生も両親と同じように私を見ていたの?
「"らしくない"…。そうですね。いい子じゃなくて、ごめんなさい」
「そういうこと言ってるんじゃなくて」
はあ、とこれ見よがしのため息が先生から漏れる。
これ以上悪態ついたら嫌われてしまう、そう分かっていても――止めることができない。
「今回は眞中が見つけたからよかったものの、自力で戻ってこれなかったらどうするつもりだったんだ」
「探してもらわなくても、どうにかしてきっと戻れました」
「その保証は?」
「だって私、もう18です」
そう言ったら、先生が呆れたため息をついた。
「まだ18、だろ?」
「…――っ!」
「18の学生なんか子供同然だ。一人で何ができる」
怒りを含んだ先生の瞳に私は凍りついた。
いつも優しかった先生が、これほど厳しい眼差しを私に向けるのは初めてで――それが私を一層追い込んでいく。
「そういうのは驕りっていう。他人にさんざん心配と迷惑をかけておいて、偉そうな口を叩くんじゃない」
「じゃあ…っ!」
私は半ば自棄になって、涙目で先生を睨みつけた。
「じゃあ、その"子供"に欲情した先生はなんなんですか!?」
「それとこれと今は関係ないだろ」
あっさりと言い返した先生に、私は言葉を詰まらせる。
私を見つめる先生の目は冷静で大人で…完全に子供を諭す目だった。
「いいか、俺はいま、教師として紗妃に話してる。だから紗妃も、そのつもりで話を聞くんだ」
有無を言わさない口調の先生に、私の不満はついに爆発した。
私は鼻で哂って先生を見返す。
「…先生はそうやって、都合がいい時にだけ大人ぶるんですね」
「なに?」
先生の表情が冷たく動いた。私は涙目で先生を見上げて言い放つ。
「そうでしょう。こういうときだけ教師ぶって、私を子供扱いする。先生がそうやって距離を作ろうとするから私も抵抗する。私をここまで追い詰めたのは先生なのに。私がこんなになったのは、先生のせいなのに!」
そうよ。何もかも全部、先生のせいだ。
こんなに私の胸が苦しいのも、「教師」の先生に反抗するのも。
私があんなことになったのも、こんなことになったのも、全部全部、先生のせい。
どうして私だけがこんな目に合わなくちゃいけないの?
元はといえば先生が助手席に君川先生を座らせたうえ、抱き合ってたからいけないんじゃない。
なのに自分のことは棚にあげて、さも自分が正しいかのような顔をして。
大人の顔だけじゃなく、さらに教師の顔をして、高いところから私を見下ろすなんてズルすぎる。
「何もかも先生のせいです!なのに先生は、全部私のせいにする。そうやって私に嘘ついて、いつまでも騙し通せると思ってるんでしょう?」
「なんだって?」
「私みたいな子供、騙すのなんて簡単だって、そう思ってるんでしょう!?」
「は…?」
先生の顔に、怒りではなく怪訝な色が浮かんだ。
でもそれすらも、私にはクサい演技に思えて仕方がなかった。
「今度は知らないふりをするんですか?本当に大人って卑怯ですね」
「…待って、さっきから何言ってるんだよ。俺がいつ、紗妃を嘘ついて騙した?」
「きっと、ずっと前からです!…先生を、信じていたのに」
言いながら、悔しさのあまりついに涙が零れた。
信じてたのに。先生のこと、信じてたのに。
誰よりも一番信じていたのに。
「先生なら大丈夫って思ったのに。…だけど先生も結局、私を裏切った」
「紗妃…?」
先生の瞳が大きく揺らいだ。
でももう、遅い。何もかも、遅すぎるの。
「え、ちょっと待って。もしかして紗妃が今回コースを外れたのは俺のせいってことなのか?なんで?俺たち、昼間会わなかったじゃないか。昨日の夜、会ったときは普通だったよな?今朝は点呼の時しか会わなかったし…俺、紗妃を騙した覚えなんて全くないんだけど」
「"騙した覚えなんてない"?よくそんなこと言えますね。白昼堂々と抱き合っていたくせに」
「…"抱き合ってた"…?」
まるで記憶にないと言わんばかりの態度。
とぼける先生を睨みつけながら、その嘘をついに私は暴いた。
「私、見たんですから。車の中で君川先生と一緒にいる先生を」
「…君川?」
「そうです。この目ではっきりと見たんですから。…君川先生が好きなら、そうはっきりと言えばいいのに!」
最後、感情がこもって声が荒くなった。でもそれだけじゃ気持ちは到底収まらない。
私は近くにあったベッドのクッションを手に取ると、目を瞬く先生めがけて投げつけ、叫んだ。
「私だけって、言ったのに!…先生なんて、大嫌い!」
先生がクッションを受けとめて油断している間に、私は出口まで走ってドアノブに手をかけた。
昨日はここで私を抱き締め、愛の言葉を囁いた先生。
だけどそれも全部嘘だったのかもしれない。
私に対する後ろめたさから、あんなことをしたのかもしれない。
なのに、それを素直に喜んで、愛しいと思った私。閉じたドアの向こうで、先生は私を嘲笑っていたんだろうか。
「待てって!」
背後から私を呼び止める先生の声が聞こえたけど、私はそれを強引に振り切り、先生の部屋を飛び出した。
「――紗妃!?」
部屋を飛び出したところで、廊下の向こうから私を呼ぶ声が聞こえてきた。
はっと顔をあげると、そこにはさっきエレベーターで別れたはずの佳穂がいて、こちらへ駆け寄ってくるところだった。
「佳穂…?なんで…」
「私、やっぱり心配で…教頭先生から担任の部屋に行ったって聞いて…って、なんで泣いてるの!?」
佳穂が慌てて私の涙を袖で拭う。
その存在を感じた途端、ずっと張り詰めていた緊張が途切れて、私は思わず佳穂に抱きついた。
「紗妃…?」
「どうしよう、佳穂。もう、私分かんないよ…っ」
苦しい嗚咽を零しながら、佳穂にしがみつく。抱き留める温かい手の温もりが、さらに涙を誘った。
ねえ佳穂。私、もう分からないよ。
あんなに信じていたのに、あっけないくらい簡単に崩れてしまった。
これから私は、一体何を信じればいいの?
直後、部屋のドアが開いて先生が出てきたのが気配で分かった。
私は先生に背中を向けたまま、佳穂のジャージをぎゅっと握り締める。
佳穂には多分それで伝わったのだろう、私を渡さないという風に抱き締めなおすときっと先生を睨みつけた。
先生はそんな私たちの様子を見て、諦めたようにため息ついた。
「…これ、今晩泊まる部屋の鍵。明日また、ゆっくり話そう」
先生がそう言った直後、チャリンと音がした。おそらく、鍵が差し出された音。
佳穂は私に代わって乱暴にそれを受け取ると、「紗妃、行こう?」と私の背中を促した。
後ろから先生の視線が突き刺さって、ただ胸が苦しかった。




