2-8.掴んだ手は、誰のもの?
必死で先生の車を追いかけていたら、いつの間にか知らない道に出てしまった。
土地勘がない私はそれでも記憶を辿って道を引き返してみたけど、ただ悪戯に混乱しただけだった。
すっかり迷子になってしまった私は、途方に暮れて、通りすがりのベンチに腰を下ろした。
咄嗟のことだったから、携帯も鞄もトイレの入り口付近に置いたままだ。
タクシーをつかまえたところで、ここから遙か遠いホテルの名前すら思い出せない状態では行き先を告げようもない。
きっと今頃、みんな私を探し回っていることだろう。せめて携帯があれば連絡をとれたはずなのに、完全に行き詰まった状態だ。
――それから、もうどれくらい経っただろう。
オレンジ色に染まる空の下を、私はとぼとぼと歩いていた。
思いきり走った上に長時間歩き彷徨ったせいで、足がひどく痛む。
踏み出す一歩すら辛いけど、歩みを止めるわけにはいかない。
最低でも、明日の朝までにはホテルに帰らなければ。明日には長崎に移動する。
時折道案内の看板を見ながら、私は見覚えのある道を探した。
せめて、あの公園に戻ることができれば、誰かが私を見つけてくれるかもしれない。
(でも無事に戻れたところで…どんな顔して先生と会えばいいの?)
戻らなくちゃと思う一方で、戻りたくないと思う自分がいる。
だって先生と君川先生を見てしまったら、自分がどうなるか分からないから。
修学旅行の1日目、先生が他の女子生徒と一緒に写真を撮ったとき、私は自分が醜くなっていく気がして怖かった。
そして今も、私は自分が怖い。
私はきっと、君川先生をただの教師としてはもう見れないだろう。
いつも様子を探るように、先生のことが好きなんじゃないかって勘ぐるように、私は彼女を恋敵として見てしまう。
穏やかな気持ちでなんて見れない。先生にお似合いの女性だから…なおさら。
(先生は君川先生のことが好きなのかな…)
昼間に見たあの景色が瞼の裏に焼き付いている。
あのとき、しがみついた君川先生を、先生は振りほどかなかった。
それはどうして?そこに先生の本音が隠れているような気がしてならない。
(…本当、は)
自嘲気味に内心呟く。
本当は、先生はきっとああいう女性が好みで。堂々と一緒に街を歩いて、食事もできて。
私みたいに子供じゃないから、きっと先生の…大人の痛みや大変さを分かってあげられる。あの人となら、対等な恋愛ができる。
だけど、先生は優しい人だから。私が先生なしにはもうダメなこと知ってるから。
だから私を傷つけないように、私に隠れてあの人と会っていたんじゃないだろうか。
私を悲しませないように、毎日私の側にいてくれたんじゃないだろうか。
もしもそうなのだとしたら…もしも、先生の心はもう私から離れているのだとしたら。
先生をただ好きだった私は、先生は私のたった一人の人だと信じていた私は、なんて惨めなの?
先生の優しさを愛だと勘違いして、裏切られていることに気付きもしないで。
ただひたすらに先生を恋い慕って――馬鹿みたい。
卑屈になってるって、自分でも分かってる。
だけど、先生は私じゃなきゃダメだなんて、どうして言い切れるのだろう?
(…分かってた、のに)
そう。分かってた、こんなこと。
愛なんて所詮裏切るものなんだって、人を信じるってそういうことなんだって、知っていたのに。
でも先生は今まで出会った誰とも違う気がしていた。ついに私の居場所を探し出せたと思った。
この愛だけは、永遠だと信じる自分がいた。
そんな思い違いをしてるから、きっと呆れた神様が「いい加減目を覚ませ」って言ったんだ。
ぽたん、と頬に冷たいものが当たった。制服にも髪にも当たって、私の感覚が冷たさを訴える。
雨の音に街がざわめきはじめた。街に傘の花が咲いていく。私はその中を俯きながら、次第に強くなる雨の中を一人歩いた。
途中、何人かと肩がぶつかった気がしたけど、よく覚えていない。
…ただ覚えているのは、先生の笑顔と温もり。
私を訝しげに見る人の視線が憂鬱になって、適当に見つけた路地裏に入りこむ。
そうして誰の邪魔にもならない場所で、自分を抱き締めるようにしゃがみこんだ。それはまるで、先生に助けてもらったあの日のように。
あの夜、私は先生に手を差し伸べられた。――だけど今日は、先生に手を離された気がする。
生温い滴が頬を伝って、自分が泣いているのに気付いた。だけど私はそれを拭うことはしなかった。
どうせ、雨が洗い流してくれる。
いっそのこと、思い違いだらけのこの気持ちも全部洗い流してくれたらいいのに。
「…うっ、うう…っ」
嗚咽が零れて、とめどなく涙が溢れてきた。
裏切られたと分かっても、思い出すのは全部、先生のことばかりで。
笑い声、大きな手、優しい微笑み。
その全てが眩しくて切なくて、悔しいくらいに私の胸を締め付ける。
私の全ては先生でできているんだって、今ごろ実感するなんて。
「…どう、して」
どうしようもなく、大切で。
「こんなに、好きなの、に、…っ」
どうしようもなく、苦しいのに。
「せん、せい…っ」
――この人だ、と思ったのに。
悲痛な叫び声は、街と雨の喧騒に掻き消された。
だけどそのとき、独り街の片隅で泣く私を呼ぶ声が聞こえた。
「…原田?」
男の人の声に、私の心臓がドクンと鳴った。
――こんな場面を、覚えている。
それは、すべての始まりの日。
まさか、と思ってゆっくり顔をあげる。
まさか、私を迎えに来てくれたんだろうか。
いつも私を助けに来てくれる先生が、今日も私を探して救いに来てくれたんだろうか。
微かな願いを込めて、声のする方を見上げた直後。
その視線の先にいた彼の名前が、私の口から零れた。
「…眞中くん…」
眞中くんは私に笑って頷くと、着ていた上着を脱いで労わるようにかけてくれた。
彼の匂いと温もりが、冷えた私の体を温かく包み込む。
そして、彼は私の視線に合わせるようにしゃがむと、優しく私の髪を撫でた。
「やっと見つけた」
その微笑みは、孤独で折れそうだった私の心をかろうじて繋ぎとめた。
暗闇を照らす光に心が揺らめく――差し出されたその手を、私はぎゅっと握り締めた。




