2-7.慟哭
眞中くんが言っていた先生と君川先生の噂は、すぐに私の耳にも入った。
「実は付き合ってるんじゃない、あの二人」
「大学一緒だったらしいしね」
「けっこうお似合いだよね。年も外見も釣り合ってるしさ」
「担任の元カノっていう可能性だってありそう!」
修学旅行3日目、熊本。
1日自由行動の今日、私は班のメンバーと一緒に、あらかじめ指定された行動エリアを歩いていた。
いつもなら、どんなお土産を買おうかとか、どこでお菓子をつまもうかとか、そういう話で盛り上がるんだけど…今日は様子がまるで違っている。
というのも、この旅行中、君川先生と先生の距離感がやけに近いと生徒たちの間で噂になっているのだ。
ビックカップル誕生の予感に女子たちは興味津々、その証拠に朝からずっと周囲はその話題でもちきりだ。
当然そこに加わることができない私は、前を歩く千沙と志保の話を、ただ俯きながらじっと聞いていた。
「…大丈夫だよ、紗妃。噂がありえないってこと、一番わかってるでしょ」
気を遣ってか、二人に聞こえないように佳穂が耳元で言ってくれた。
私は頷き、自分に何度も言い聞かせる。
…そうだよ、その噂が嘘だってこと、他の誰でもない私が知ってる。だって先生は、私の恋人なんだから。
「千沙、志保。それ、なんの確証もないんでしょ?」
佳穂が嗜めると、こういう噂が大好きな志保が「けどさ」と振り返って口を尖らせた。
「火のないところに煙はたたないっていうし。少なくとも、仲は悪くないってことだよね。二人らしき人がデートしてるのを見たっていう話も聞いたよ」
「そんなの、絶対人違いよ」
「あ。何よ、佳穂ー。いつもならこういう噂には飛びつくくせに。さては担任が好きだな?」
志保が佳穂をからかうように覗き込んだら、佳穂が大きく顔をしかめた。
「はあ!?冗談よしてよ、気持ちわるっ」
「じゃあなんでそんなにこだわるわけ?」
「そんなの、君川ちゃんが可哀想だからに決まってんでしょ!あの担任と噂になってるなんて知ったらマドンナの評判に瑕がつくじゃん」
「…佳穂ってほんと担任に辛口だよね、恨みでもあるの?」
志保と千沙が苦笑するそばで、私はかすかな愛想笑いでなんとか耐えている。
すると、ずっと押し黙ったままの私を二人が心配そうに覗き込んだ。
「ねぇちょっと紗妃、大丈夫なの?さっきから顔色悪いよ?」
「君川先生のとこ、いく?」
二人の言葉にはっとして、慌てて首を横に振る。
「ううん、大丈夫。ちょっと、考え事してただけ」
「ならいいけど…。気分悪くなったら言ってね?私たちも君川先生のところ一緒についていくし」
「うん、ありがとう」
本当は話題そのものが辛いだけなんだけど、二人に言えない秘密を抱えている私にも非はある。
それでもその気遣いは素直に嬉しかったから、精一杯笑みを浮かべた。
「――ほんとに平気か?」
と、突然後ろから声がした。振り返ると、そこには眞中くんがいた。
昨日のことを思い出したら気まずくて、すっと視線を逸らす。
「あ、…うん。ごめん。体調は全然…」
「じゃなくて。精神的に、だよ。辛いなら俺が相談にのるよ?」
彼がにっこりと笑って、私は一瞬面食らう。
すると、私の隣にいた佳穂が私達の間を割るように手を伸ばした。
「ちょっと眞中くん。うちの紗妃をたぶらかさないでくれる?」
「別にたぶらかしてなんか。大崎こそ、親友だからって首を突っ込みすぎだと思うけど」
「紗妃はご覧の通り純な子鹿だからね、私がハイエナどもから守ってあげなくちゃいけないの」
「俺は優しいライオンだからハイエナから守ってやれるよ」
「その優しいライオンもいつ豹変するか分からないでしょ」
佳穂と眞中くんの視線が静かに、だけど激しくぶつかる。
それも全部私のせいだ。佳穂の言うとおり、私が優柔不断なせい。そのことで、これ以上二人がケンカしちゃうのは嫌だった。
「本当に、私は大丈夫だから。…佳穂、行こう?」
私は佳穂の腕を取って、少し前を歩く千沙と志保のところに逃げ込んだ。
**
午前中は買い物や観光したりして楽しく過ぎた。ランチを食べて、陽射しの暖かな午後。
次の目的地まで歩いている途中で、千沙がお手洗いに行きたいと言ったことをきっかけに、私達は通りがかりの公園に寄っていた。
ついでに私も、と志保と佳穂も入っていったので、私はトイレの出口付近にあるベンチに腰掛けて3人を待つ。
ふと見つめた先、公園沿いには大通りがあって、信号待ちの車が長く並んでいた。
なんとなくそれを眺めていると、その中に偶然に――本当に偶然に、レンタカーを運転している先生を見つけた。
そして同時に、助手席に座る君川先生の姿も…。
途端に、胸が不安に覆われる。
でもそれを私は理性で必死に振り払った。
(今日はたまたま君川先生と一緒に見回りってことだよね)
日中、先生達は二人一組で生徒達の見回りをしている。
今日は先生と君川先生でペアを組んだということなのだろう。
実際、前を見据える横顔は真剣そのもの、時折ちらちらと助手席を気にしてるのも、仕事の話をしているからに違いない。きっと、それ以外の理由など、ないに決まっている…――。
(え…君川先生、泣いてる…?)
私の気のせいだろうか?助手席の君川先生は俯き、泣いているように見えた。
そしてそれを見つめる先生はどこか切なげな表情で…。
すると、君川先生が突然先生にしがみついた。
私の胸を急激に襲う、今にも狂いだしそうな嫉妬。
――やめて!
その胸は、あなたの為にあるものじゃない!
それでも私は、きっと先生が彼女を拒むものだと信じていた。
縋る手を振り払って、冷たく突き放してくれると。
だって先生、あなたは私のもののはずでしょう?
その祈りはしかし、あっけなく裏切られた。
先生は彼女を突き放すどころか、慰めるようにそっと髪を撫でたのだ。
それに応えるようにして君川先生が視線を上げ、二人は見つめ合った。彼女を見下ろす先生の瞳は優しく、とても愛おしいものを見ているようで――。
(そん、な…)
途端に、全身から力が抜けていくような虚無感に襲われた。
学校では無愛想な先生が、君川先生に笑っている。…私だけに向けられるものだと思っていたのに。
助手席の君川先生が、先生を見上げている。…私ですら、そこに座ったことがないのに。
二人で何かを、親密そうに話してる。…私の特権のはずなのに。
呆然と二人を見ていたら、信号が青になった。止まっていた車が少しずつ動き出す。
それは先生の車も例外ではなく、それぞれの席に座りなおした二人が前を向いた。
車が最初ゆっくりと、次第に加速をつけて進んでいく。二人が…私から離れていく。
――ねえ何処へ行くの?二人で何をするつもりなの?
私はいつの間にか、荷物も持たず走り出していた。
助手席、涙、君川先生。
いつから、なぜ、どうやって。
大人、子ども、教師、生徒、同僚。
笑顔、恋愛、学校――浮気、崩壊、幻想。
一瞬にしてたくさんのことが、ぐるぐると私の中を巡る。
だけど最後に辿り着いたのは、たったひとつの名前で――悔しいほどにたったひとつで。
先生。先生。
先生、先生、――先生!
同じ名前をただひたすら呼びながら、脚は動き続ける。
いつの間にか涙が溢れて、息ができなくなるほど胸が詰まっていた。
先生は、行ってしまうの?
私じゃない女を、隣に乗せて。
ねぇ、私は此処にいるのに。
「先生…っ」
車を追いかけ、公園から駆け出した。私を嘲笑うかのように、先生の車はあっという間に遠ざかっていく。
先生がどうにかして私に気づいてくれたらって必死に走ったけど、結局それは叶わないまま、最後、車は道の向こうに消えた。
車が見えなくなっても諦めきれなくて、私は勘を頼りに探し続けた。
だけどやみくもに走っていたせいで、すぐに体力が底をつく。
やがて息が苦しくなって、とうとうその場にしゃがみこんだ。
荒い息と一緒に嗚咽が零れる。と同時に、大粒の涙が膝に零れ落ちた。
「どう、して…っ」
涙に濡れた叫びは、先生には届かない。冷たい風がただ私の横を通り過ぎていく。
ずっと信じていた、信じていたかった何かが、私の中で音を立てて崩れていった。




