1-3.賭け
腕が掴まれる。頬に痛みが走る。
生ぬるく気持ち悪い感触が首筋を這う。
全身に広がる嫌悪感、悲鳴をあげる本能。
――逃げて!
『やめて!いや!!』
これ以上ないくらい、必死に助けを求めているのに。
誰も、私を助けてくれない。
まるでこの世界には他に誰もいないみたい。否、もしかしたら初めからそうだったのかもしれない。
いつだって、あの時だって、今だって。
誰も私を――愛してくれない。
「…っ、イヤああ…っ!」
叫び声と共に私は目を覚ました。
真っ先に目に飛び込んできたのは白くて高い天井。
辺りを見渡し、この空間に自分一人であることを認識したところで、私は大きく息を吐いた。
「…ゆ、め…」
呼吸は荒い。胸を押さえ、さっきまでの恐怖はもう現実じゃないと何度も自分に言い聞かせた。
「夢…ただの、夢よ…」
――ああ、どうして。
忘れてしまいたい記憶なのに、どうして。
あんなに鮮明に残酷に、私の中に残っているのだろう。
窓の外はもう明るく、カーテン越しに陽の光が差し込んでいた。ふと目に入ったのは、見覚えのない時計。どうやら私はぐっすり眠ってしまっていたらしく、時刻は10時を過ぎている。
ぐるりと視線を動かすと、こちらも見覚えのないクローゼットやチェストがあった。そんないつもとは違う景色に一瞬戸惑ったあとで、私はようやく昨夜のことを思い出した。
(…先生、あれからどうしたんだろう)
昨夜は急展開すぎて考えることもできなかったけど、私がここに一人ということは先生の寝る場所を図らずしも奪ってしまったわけで。
先生はあの後どこで夜を過ごしたのだろうか。
一夜だけだし、ホテルに泊まったのかな。…それなら、私をホテルに泊まらせてくれればよかったのに。
とそう思った矢先、インターホンが鳴った。
(…先生?)
ベッドを降りて玄関に向かおうとしたところで、私はふと足を止めた。
(…まさか、あいつ…?)
想像しただけで、心臓が凍りついていく。
でも、まさか、ありえない。こんな場所まで――だけど絶対なんて、どうして言い切れるだろう。
最悪の事態を予測するべきだと、冷静な自分が訴える。すると、インターホンが繰り返された。
私は枕元のハサミを握りしめ、ゆっくりと玄関に向かう。
怯える自分を宥めながら、ドアスコープを恐る恐る覗くと、その先に見えたのは昨夜見送った先生だった。
私はほっと息をつくと、大きく深呼吸をして鍵を開けた。
「おはよう」
眩しい光を背に、先生が私に微笑んだ。
昨日はスーツ姿だったけど、今朝は私服だった。シャツとジーンズ、いたって普通だけれど初めて見る私服姿は思ったよりカジュアルで、学校とはまた違う印象を受ける。そして見る限り、新品というわけではなさそうだ。
小さな声で「おはようございます」と返したら、私が手に握り締めているものを見て先生が首をかしげた。
「何でハサミを?」
私は何も答えない。だけど先生はそれ以上何も聞かず――恐らくその理由が分かったのだろう――、ただ苦笑した。
「…上がっていいかな?」
自分の部屋なのに、先生が訊ねた。
「先生の部屋なんだから、どうぞ」
それもそうか、と先生がまた笑う。
それを一瞥すると、私は先生に背を向けて脱衣所に向かった。すっかり乾いた服を洗濯機から回収し、玄関に舞い戻る。そして無表情のまま軽く頭を下げて礼を告げた。
「昨日はどうもありがとうございました、服は洗濯して後日お返しします。さよなら」
そう言ってハサミを靴箱の上に置き、サンダルを履いてドアに手をかけた――のだけれど、「待て」と私を呼び止める声があった。
「そう焦るなよ。話がある」
「話なら今、ここで」
男とは一秒たりとも二人きりになりたくない。
できることなら、今すぐここから走り去ってしまいたいぐらいだ。
だけど先生は遠回しに拒絶する私に気付かないまま…あるいは気付かないふりをして、中に入るように促した。
「大切な話だから。上がれ」
教師口調で強く言われて、私は渋々サンダルを脱いだ。
そして靴箱のハサミを再び手に取ると、先生の大きな背中を追ってリビングについていった。
「話って、なんですか?」
先生に向き合う形でダイニングチェアに腰を下ろし、手短に訊いた。
もしも何かしようものならこのハサミで突き刺してやる――そんな固い決意とともに。
「下宿先の保護者に話はつけといた。原田のことは俺が預かることになったから、今日からはここに住め」
思考が止まる。
…いま、何と?
「教科書とか制服とか、取り急ぎ必要なものは今日中に宅配便で送ってもらうことになったから。その他の荷物については来週中にまとめて送ってくれるそうだ」
「ちょ…っ、ちょっと待ってください!」
慌てて言葉を遮る。何もかも私を置いて進めようとしている先生に納得できなかった。
「どういうことですか!?」
「だから、今言ったとおりだけど」
動揺する私とは対照的に、先生はいつもどおりの冷静さ。微笑みすら浮かべて余裕だ。
だけどその笑みの裏に何かやましい意図を感じるのは、絶対に気のせいじゃない。
「だって家に帰るのが嫌なんだろ?」
「でも私、家賃払えません」
駅近で、見たところ2LDKほどの広さがあるこの部屋は、家賃もそれなりにするはずだ。
親からお小遣いをもらっているとはいえ、そんな大金支払えるはずもない。しかも校則が邪魔して自由にバイトもできないのだ。それは先生も十分に承知しているはずなのに。
「いらない。ここ、俺の持ち家だし」
先生があっさりと言って、私は目を瞬いた。
「持ち家?」
「そう。数年前に身内から譲り受けて。だからそういう心配はいらない」
「で、でも、それじゃあ、先生は?」
「俺?」
「先生はどこに住むんですか?」
「どこって…ここだけど」
先生が当然とばかりに言った。
「……え?」
「当然だろ、ここ俺のマンションなんだから」
その先生の言葉に、私は暫し沈黙して。
やがて怒りと共に立ちあがった。
――この人、昨日の私の話聞いてたの?
男と二人で暮らすなんて、冗談じゃない。
その選択肢だけは、絶対にありえない。
「いいです、私。どこか見つけて一人で暮らしますから」
「バイトせずにどうやって?それとも下宿先か実家に帰るのか?」
「どっちも嫌!」
私はある出来事から地元を出て、叔母のいる東京へやってきた。
それ以来、叔母夫婦の家でお世話になってきたのだけれど、そこにも居られなくなったのが昨日のこと。
どちらにも帰りたくない。帰る場所なんてない、どこにも…。
「じゃあ、決まりだな」
「決まりって…!」
強引な先生の言い分に反論する。
「昨日も言ったでしょう。私、男なんて信用できないんです!男なんてみんな一緒だし、汚いし…!先生だって、信用できません」
「なんでだよ。昨日も訊いたけど」
「…言いたくありません」
顔をそむけた私に先生はひとつため息をつく。そしてそれからとても正気とは思えないことを言い出した。
「それなら――俺がその男不信、直してやる」
「…は?」
耳を疑う、とはこのことだ。私は先生の言っている意味が、全く分からなかった。
「賭けをしてみないか?」
「賭け…?」
先生が頷く。それも、どこか楽しそうに笑いながら。
「期間は…そうだな、一ヶ月。一ヶ月でその男不信を直してみせる。もしも一ヶ月経っても男を…俺を信じることができなかったら、原田の勝ち。その時は、高校卒業するまでここで生活すればいい。もちろん俺は出て行くし、生活費も出してやる。どうだ?」
私は思わず息を飲んだ。…この人は一体、何を言っているんだろうか。
「その代わり、もし俺を信じることができたなら…」
「…できたなら?」
言葉を切った先生に、先を促す。
「そのときは、俺の願いをひとつ聞いてもらおうかな」
「お願い…?」
「詳細は、俺が勝ったときに」
意味深に先生は笑ったけど、私は特に深追いしなかった。
だって要するに、私が勝てばいいだけの話。
そう。冷静に考えてみれば――決して悪い話じゃない。
先生が一ヶ月で私の信を得るなんて、不可能だ。
一ヶ月どころか、何年かかっても無理だろう。だとしたら、たった一ヶ月…言い換えて、31日。
ただ辛抱するだけで、残り一年半の高校生活が保障される。
これほど簡単な賭けがあるだろうか。
(…悪くない)
私は目を伏せてしばらく逡巡すると、強気に先生を見返した。
「分かりました。…だけど」
言いながら、ひょっとしたら私は今、とんでもない道に足を踏み入れようとしているのかもしれない、と漠然と思った。
それでも、ここまで来たら引き下がれない。帰る場所がない以上、進むしかもう道は残されていないのだから。
「私に触らないって、約束してください。もしも約束を破ったら、その時点で賭けは私の勝ちとします」
「いいよ」
先生は余裕の顔で頷く。そして立ち上がり、満足気に私を見すえた。
「契約成立だな。分かってると思うけど、このことは他言無用で。これからよろしく」
「…よろしくお願いします」
先生を冷めた目で見ながら、私は一人心に誓う。
――私は絶対堕ちたりなんか、しないんだから。