もっと近くに2
その日の夜、私は和やかな雰囲気の裏でタイミングを探っていた。
先生は一見普通で、ソファでコーヒーを飲みながら絶やすことなく話題を提供してくれている。
でも、そのマグカップに残っているコーヒーは残りわずか。これを飲んだら今日もまた実家に行ってしまうに違いない。
「あの、先生」
話題が一区切りついたところで、思い切って切り出した。
「ん?」
「先生が毎晩実家に戻られているのは、ひょっとして私のせいですか?」
「…え」
それまで柔らかだった先生の表情が、突然強張った。
先生にとってはあまり歓迎できない話題だったのだろう。
けれど、ここで止まるわけにはいかない。
「私が隣の部屋で寝てるから、眠れないのでしょうか」
「あー…えっと」
先生は口ごもりながら、視線をわずかに逸らした。
言いにくそうなその態度が、私の予感を確信に変える。
――ということは、つまり…。
「やっぱり、そうだったんですね…」
私は箸を置いてうなだれた。
――なんということだろう。先生の悩みにも気づかず、私だけ毎日呑気に眠って。
情けないにも程がある。同居人としても恋人としても失格だ。
唇を噛む私を見て、先生が慌てて言った。
「あ、いや、違うんだよ。原田が悪いわけじゃなくて…」
そうやって気を遣わせてしまっていることがとても申し訳なく、なおさら泣きそうになる。
「それは俺の問題っていうか、ちょっと保たないっていうか‥」
「保たない…?」
「そう。だから、そういう心配はしなくていいよ」
私を安心させようと先生が微笑んだけど、到底納得できるわけがない。
ここは先生の家なんだから、全ては先生基準であるべきだ。
「そうはいきません。正直に、遠慮なく言ってください」
「いや、遠慮なくって言われても…。しらふで言えるようなことじゃないっていうか…」
しらふで言えるようなことじゃない、と聞いて驚愕だった。どうやら私のイビキは相当ひどいらしい。
「そ、そんなに…?」
「まあ、その…でも仕方ないことなんだよ」
「仕方なくなんてないです!すみません、私全然気付かなくて…。教えてください、私どれくらいイビキうるさいですか?」
涙目で訊ねると、先生が「は?」と目を瞬かせた。
そんな先生に私も「え?」と首をかしげる。
二人同時に見つめあうこと数秒、私がそうするよりも早く先生が状況を理解したらしく――突然、笑い出した。
「せっ…先生っ」
目の前の先生を、わたしはねめつけた。
だって私がこんなに真剣に悩んでいるのに、お腹を抱えて笑うなんてひどいと思う!
「なるほど、そっちだと思ったのか。原田ってけっこう天然だよなぁ」
「先生!?」
さっきよりもきつく先生をねめつけると、先生が「ごめん、ごめん」と笑いを噛み殺した。
「そうじゃなくて。言ったろ?俺の問題なの。自主規制してるだけで、原田は何も悪くない」
「自主…規制?」
先生が苦笑して頷いたけど、私にはその意味がよく分からなかった。
「あの、すみません。それって、どういう…?」
「だから、つまりさ…」
先生はマグカップをテーブルに置くと、私の腕を引いて抱き寄せた。
顔が近づいてきて、自然に目を閉じる。でも…。
「――っ!」
いつもとはまるで違うキスだった。
今までのどんなキスよりもずっとずっと深くて、頭の中が真っ白になる。
そのあまりの熱さに意識が遠くに飛ばされてしまわないよう、精一杯先生にしがみついた。
「…分かった?」
甘い沈黙の後、先生が困ったように私を見下ろして笑った。
「俺はさ、男なんだよ」
「…?はい」
何を分かったことを、と私は首を傾げた。
でも私は本当の意味でその言葉を理解していなかった。
そのことに先生は気付いていたのだろう、丁寧に、言葉を選ぶようにして後を続けた。
「俺は原田に惚れてる。めちゃくちゃ惚れてる。…それは分かる?」
突然告白され、顔が赤く染まった。照れつつも頷くと、先生が頷いて続けた。
「うん。で、俺も男だから。いつまでも理性を保っていられるわけじゃない。時々、一線を越えてしまいそうになる」
「…え…?」
先生に言われたことの意味を理解するのには、少しの時間が必要だった。
とはいえ、その言葉の意味が分からないほどもう幼くもない。
「…せ、んせい…?」
戸惑って見上げると、先生が「やっと分かった?」と苦笑した。
「そういうこと。てなわけで、これは完全に俺の問題。手が届く場所にいるって思うと、どうしても胸がざわつく。だから折り合いがつけられるようになるまで、夜は実家に帰ろうと思う。原田には心配かけたくなくて言わなかったんだけど、逆に不安にさせたな。ごめん」
そう言って、先生が私の瞼の少し上にキスをひとつ落とす。
見上げる先生の瞳は、胸が苦しくなるほど切ない。
「じゃあ俺、実家に行くよ。明日はそのまま部活に行くから、遅れないように」
優しく髪を撫でたあと、先生は立ち上がってジャケットを羽織った。
リビングを出て行く先生の背中を、私は信じられない気持ちで眺めていた。――だってそんな理由だなんて、予想だにしていなかったから。
先生の足音が遠のいていく。
今も頭の中ではいろんなことがぐるぐる回って、真っ白で、何も考えられない。
でも先生が玄関で車の鍵を取った瞬間、私の体が…気持ちが、何より正直に動いていた。
気が付けば私は立ち上がって先生に駆け寄り、その大きな背中にしがみつくように抱きついていた。
ちょうど先生に想いを告げた、あの日のように。
「…原田?」
戸惑う先生の声。でもそれは私も同じだ。
――私は一体何をしようとしているのだろう。
だけどこの背中を行かせたくないと思った。だって私。
―― 先生の本当の気持ちを知って、喜んでる。
「…いい、です」
「え」
小さな声だったけど、先生には届いたようだった。私は先生を抱き締める腕の力を強める。
「いい、です。…もう、我慢しないで」
そう小さく告げたら、先生が肩越しに私を振り返った。
その瞳は半信半疑に揺れている。
「…俺は、原田に無理をしてほしくない。大事だから、気持ちを待ちたい。だからもし今原田が――」
「無理なんか、してません」
先生の声を遮って私は強く言い切った。
無理なんかじゃない。私だって、先生が欲しいと思ってる。
先生を独り占めしたい。もっともっと、その温もりの奥まで触れてみたい。
そう思うことは、悪いことじゃないよね?
「先生がいい。先生なら、全部嬉しい」
赤く染まる顔を見られたくなくて、先生の背中に顔を埋めてみたけど、きっと先生はお見通しだろう。
でも顔が見られないと分かると、ほんの少し度胸がつくらしい。そのおかげで、これ以上なく挑発的な言葉が私の口から零れた。
「先生とひとつになりたいです…私」
過去の私なら考えられない台詞。
でもそれを言えるのは先生だから。私を変えてくれた、あなただから。
世界が変わるときはいつだって、あなたと一緒がいい。
「…ごめん。その一言はちょっともう、何て言うか…ダメだわ…」
先生は口に手を当ててそう呟くと、静かに私の方を振り返った。
情熱を帯びた眼差しで見つめられて胸がぎゅっとなる。
先生は大きな手を私の頬に添えると、静かに尋ねた。
「本当に…大丈夫?」
それは最終確認だった。躊躇い半分、期待半分の。
だけど先生はその後、迷いない返事を聞くと、一瞬強く抱きしめて――それからそっと、私を抱き上げた。




