秘密の時間
時間軸は一部終了の翌日です。
私の想いが先生に通じた翌日。
目を覚ましたら、もうご飯の匂いが寝室にまで伝わっていた。
私はいそいそとベッドから起き上がり、リビングへ繋がるドアを開ける。
すると新聞に目を通していた先生が顔をあげ、視線が合った。
「おはよう」
「…おはようございます」
ただ挨拶するだけなのに恥ずかしくて、でもすごく嬉しい。
昨日のことは決して夢なんかじゃないって今更実感してきた。
「飯、できてるよ」
「あ…はい。すみません。ありがとうございます」
ぎこちない会話でダイニングテーブルの席に着く。
テーブルには焼きたてのトーストにスクランブルエッグ、シーザーサラダにわかめスープまで並んでいて、食欲をそそる。
まともに先生の顔を見られないまま箸を握ると、その動作すら不自然だったのか先生が「そんなに緊張しなくても」と苦笑した。
「じゃあ、俺はそろそろ行くから」
「はい」
先生は新聞をたたみ、仕事用の鞄を手に取った。
「戸締りよろしく」
「はい。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
先生はそう微笑むと、私の頬に1秒のキスを落とす。
そして「学校でな」と髪を撫でて、部屋を出て行った。
***
「おはよー、紗妃。行こうか」
先生を見送って、数十分後。
いつもの場所で佳穂と合流した私は、努めていつもの様子で、佳穂の様子を窺いつつ打ち明けた。
「…ねぇ佳穂。あのね、言いたいことがあるの」
「ん、なにー?今日のテレビ?今日のテレビの私的オススメはね…」
「ううん、そうじゃなくてね。あのね、実は――付き合うことになった」
「へぇーそりゃおめでたい………ん?」
さらりと流すように頷いた後、佳穂は一転して訝しげな表情で足を止めた。
そしてそれから何かを思案すること数秒。
「はああ!?」
朝の賑わう街中で、佳穂が絶叫した。
――それから学校に着くまで、昨日のことを根掘り葉掘り佳穂に問いただされた。
佳穂は驚きつつも、最後には「やっぱりそうなったかー」って納得した様子で。
「これから学校での二人の様子が見物だわ」なんて茶化されたりもしたけど、最後にはちゃんと「よかったね」って祝福してくれた。
「きりーつ」
朝礼の時間、配布物を手に教室に入ってきた先生を見て、私の胸が無意識に高鳴った。
ただ先生の姿を見れただけでとても幸せな気持ちになるなんて、恋というものは恐ろしい。
「きをつけー、礼ー」
委員長の号令で一礼しながら、私は先生がこっちを見てくれないかなと勝手な期待をしていた。だけど…。
「おはよう。じゃ、さっそく連絡事項…」
期待もむなしく、先生は完全な仕事モードだ。メモを見ながら、淡々と連絡事項を伝え始めた。
私は後ろの席で、それをやけに落ち着けない気分で眺める。
――あの人が、私の恋人なの。私を好きだって、言ってくれたの。
今は「先生」の顔をして、「今度の中間テストで赤点とったらぶっとばす」なんて脅しかけたりしてるけど。
でも、私は知っている。先生は本当は優しい人で、とても頼れる人だってこと。
学校ではクールなイメージだけど、家ではよく笑う人だってことも。
私は、先生の笑顔が好き。先生が笑ったら、胸がきゅーって苦しくなって、すごく愛しくなってしかたがない。
でもそれは、私と先生だけの秘密。
私と先生が付き合ってるってこと、佳穂を除いては、他の誰も知らない。スリルにも似た緊張が、今の私にはある。
「あと、一時間目の国語、自習になったから。これ、自習課題。要提出とのことだ」
先生が言うと、「自習」という言葉にクラス中から歓声があがった。
「ちなみに自習監督は俺。遊べると思ったら大間違いだからな」
今度は、クラス中の歓声が一瞬にしてブーイングに変わる。すると先生は口の端を少し上げて言った。
「なんだその嬉しそうな声は?なんなら、次の数学と合わせて二時間ぶっとおしでやるか?」
「嫌ー!それ絶対無理ーっ!」
「先生、俺たち国語の勉強したいです!」
クラスのあちこちから抗議の声が起きて、先生がにやりと笑った。
国語の次の授業は数学。数学はただでさえ皆が嫌いな教科だから、「数学二時間連続」に眉をひそめてるのだ。
でも私はクラスの皆とは反対に、数学でいいのにと思った。
だって数学が二時間連続ってことは、それだけ長く先生の声をずっと聴いていられるから。
…はあ、どうしよう、私。
先生を好きだと認めたら、もうこの想いに果てがなく思える。
離れている一秒が惜しい。話せなくてもいいから、一緒に過ごしたい。ずっと見ていたい。声を聞いていたい。
「ま、今日は勘弁してやるか。えーと、あと連絡は…あ、今日のLHRは視聴覚室3に来て。人権学習ってことでDVD見せるから。所感書かせるからな、ちゃんと起きてろよ。連絡は以上。あと、今日の日直は…原田、頼む」
先生が私の名前を呼んだとき、先生と目が合って私は一瞬ドキっとしたけど、先生はなんてことないようにあっさりと視線を逸らした。
「はい」と事務的な返事を返しながら、ちくりと痛む胸を必死で宥めていた。
***
「あ、一番後ろ空いてる。紗妃、右端行こー」
LHRの時間、視聴覚室に入って前の席に行こうとした私の腕を佳穂が引っ張った。
「後ろ?佳穂視力悪いのにいいの?DVDが見えにくくない?」
「もー紗妃ってばほんとに真面目なんだから。所感書ける程度に半分見て、残り半分寝るに決まってんでしょ」
「佳穂ったら」
佳穂の企みに呆れて苦笑したところで、先生がその手にDVDを持ってやって来た。
「委員長、全員いる?」
「そろってます」
「オッケ。窓側と廊下側の人、暗幕閉めて。言っておくが、くれぐれも寝るなよ?後ろから見てるからな」
先生がそう言うと、あちこちから残念そうな声が漏れた。どうやら佳穂と同じ考えの生徒は他にも多数いたらしい。
ちなみに佳穂はというと、あからさまにがっくり肩を下ろしていて、思わず笑ってしまった。
「残念だったね?」
「ふんだ。べつにいーもん。起きたまま寝るから。知ってる?私の特技。目を開けたまま寝れるの」
「え、本当!?すごいね」
「いや嘘だから。魚じゃあるまいし」
素直に信じて驚いた私に佳穂が「紗妃ってほんとピュアだね~」と揶揄う。
佳穂をねめつけると、「ごめんってば」と佳穂が肩をすくめて謝った。
教室の左前に設置されているテレビは大きいから、一番後ろでも見えないことはない。
だけど、内容が内容なだけに少し退屈だった。
それでも見た後は所感を提出しなくちゃいけないから、私は頑張って観ていたんだけど。
開始早々、隣の佳穂が私の肩に頭をのせた。
「紗妃、私もうダメ…眠い」
早くも瞼が閉じかけている佳穂を、私は小声で励ます。
「まだ半分以上残ってるよ。頑張って」
「無理です隊長…潔くここで散らせてください…」
まるで死にゆく覚悟を決めた戦士のような台詞、さすがに大げさすぎる。
「こら、頭あげろ」
と、すぐ後ろから小さく叱る声がして、私と佳穂は揃って振り向いた。
するとそこにはいつの間にか先生がいて。
「んげっ」と顔を歪めた佳穂の側で、私は嬉しさを隠しきれない。
「チョーパーかけられたいか?」
脅すような言葉はテレビの音量でほとんどかき消されたけど、私たち二人にはちゃんと届いた。
「謹んで遠慮しておきます…」
佳穂は眉をひそめつつ、頭を起こす。
「その痛さを誰より知ってるのは私だっつーの…」
佳穂がそう小さく呟いたから、私は思わず吹き出してしまう。
子供の頃から事あるごとに先生にプロレス技をかけられていた佳穂はその痛さを身をもって実感しているらしい。
「よいしょ」
先生は佳穂が起きたのを確認すると、私のすぐ右隣にパイプ椅子を広げて座った。そして教室全体を見渡しながら呟く。
「いいな、ここ。全員がよく見える。さて、何人没落していくかな」
その先生の言葉に佳穂が顔をしかめた。
「ちょっとセンセイ。そういうのって教育者としてどうなんでしょうか」
「なんてな。冗談、冗談」
にっこり笑う先生を、佳穂は目を細め疑っている。
「…せんせーの笑顔が悪魔に見えます…」
「ごちゃごちゃうるさい。ほら、集中する」
「話を逸らしやがって…」
佳穂は悔しそうに愚痴をこぼすと、渋々とテレビに視線を移した。二人の間に挟まれて、私は一人苦笑していた。
…本当にこの二人って、仲がいいんだか悪いんだか分からない。
でも喧嘩するほどって言うし。きっと仲はいい…んだよね?(あれ?)
室内には、テレビから流れる人権の説明だけが響いている。
みんな先生が恐いのだろうか、眠いけど必死に起きている様子がうかがえる。
私はといえば、隣に先生の気配を感じて、眠気も吹き飛ぶぐらいに緊張していた。
胸が高鳴って、視線はテレビに向いてるのに、内容が全然入ってこない。
それどころか、一番後ろの席で、しかも真っ暗な室内、ちょっと触れるくらいバレないかな、なんてことまで考えてる。
先生の手をちらりと見てみると、指先はズボンのポケットに突っ込まれているけど、半分以上は見えている状態。
…その手に少し触れてみたら先生はどんな反応をするだろう?
(…だめ、そんなこと)
私は本当に触ってしまおうか、と思った自分を戒めた。
そんなことしちゃだめ。先生、公私混合なんて絶対しなさそうだもん。
そんなことしたら、逆に怒られちゃうかもしれない。
(…家に帰ったら、いっぱい触れるんだから…)
自分に言い聞かせて、ぐっと本音を抑え込む。
家に帰ったら、たくさん抱きしめてもらえばいい。
だから今は我慢しなくちゃ。我慢、しなくちゃ。我慢…。
先生はテレビの方に視線を向けている。
ポケットに隠された大きな手。数日前までは怖いだけの「男の手」だったのに、今は違う。
(…ほんのちょっとだけ、なら…)
震える指先を、そっと先生へと伸ばした。触れるか触れないかギリギリのライン、鼓動が速まって息すら苦しくなる。
でもほんのちょっとだけ。ほんの一瞬だけでいいの。
先生の温もりを、感じさせて。
「…?」
先生の手に私の指先が触れた瞬間、先生が訝しげに私を見た。
途端に悪いことがバレたような気分になって、まるで夢から醒めたように恥ずかしくなった。
「ご、めんなさい…」
先生にしか聞こえないような、掠れた小さな声で呟く。
ひょっとして、呆れてしまっただろうか。私のこと、こんなところではしたないって、思っただろうか。
今頃になってそんなことを思い始めて、私は顔がどんどん熱くなっていくのを感じた。
(…恥ずかしい、私)
先生の視線がなんだか痛くて、私は髪を梳くふりをして真っ赤な顔を隠した。
室内が暗いとはいえ、テレビの明りが仄かに私を照らす。
そんな風に自分がやったことを深く後悔していたら突然、大きな手がそっと私の右手に触れた。
驚いて顔をあげると、先生が優しく微笑っていた。それだけで、不安が消えていく。
…たとえば、先生とただの同級生として出逢えていたなら。
きっと堂々とクラスメイトの前でも手を繋ぐ事ができたのだろうけど、でも、そんな我侭は言わない。
どんな状況であったって、私は先生と出逢えたことに感謝したい。
それが禁忌に触れたものだとしても、皆に祝福されなくても、構わない。
だから、どうかこの手だけは私から離れていきませんように。
それから、DVDが終わるまでの約30分間。
私と先生は、誰にも気づかれないように手を繋いでいた。
それは、二人だけの温もり。
誰も知らない、甘くて素敵な、二人だけの秘密の時間。




