はじまりの季節 2 -side Ryu-
夏になり、原田が転入してから数ヶ月経った。
彼女は学校生活に慣れてきたようで、クラスメイトとも大分馴染めている。ただしそれは女子だけで、やはり男子は苦手らしい。
必要以上に自分から話しかけることはほとんどなく、近づくこともない。が、あからさまに邪険にするわけでもない。
そしてそれは俺に対しても同じで――いや、教師という立場もあるからか、それよりもっと壁がある。
交わす言葉といえば最低限の挨拶と業務連絡だけ、下手したら朝礼時の出席確認でしかその声を聞かなかったなんてこともザラにある。
だがそれも仕方ないことだ。
少し寂しさを感じているのは、気軽に話しかけてくる生徒が多いので、それと比較してしまっているだけなのだろう、と思っていた。
実際、初めて会った日のような動揺はすっかり収まり、いつもと何ら変わらない日常を送れていたのだ。
――そう、あの日までは。
その日の夕方、俺は職員室で夏休みの課題プリントを大量に印刷していた。1人15枚を3クラス分。単純作業だが、とにかく多いので地味に時間がかかる。他にも今日実施した小テストの採点もしないといけない。あと振り返りのためのプリント作りも。
(――はあ、今日は部活に顔出せないかもな、こりゃ)
俺がいなくても自分たちでメニューを組み立てて練習できているだろうが、可能な限りはちゃんと見て指導したいところ。とはいえ、授業の準備が最優先だ。
(印刷待ってる間に小テストの丸つけ始めよう)
時間は有効に使わねばならない。
印刷が終わるまでもう少し時間がかかるだろうから、俺は自席に戻り小テストの解答用紙を取り出した。
これも時間がかかるが、やらねば終わらぬ。しかも集中力が必要だ。いつも通り、気合いと根性でのりきるしかない。
採点する前に、まずは記名の横に書いてあるクラスと出席番号をもとに並び替えるところから始める。回収したときのままなので、順番がぐちゃぐちゃなのだ。最後に点数をPCに記録しなければならないのだが、その名簿は出席番号順なので、効率を考えるとこの作業は事前準備として必須だった。
「失礼します」
と、並び替えを始めたところで数学準備室に一人の女子生徒が入ってきた。聞き覚えのある声だったので顔を上げるとそこにいたのは原田、手には学級日誌を持っている。今日日直だったので、提出にきたのだろう。
「日直の仕事が終わりましたので、日誌確認をお願いします」
相変わらず彼女の口調は淡々としている。なんの感情もなく、まるで決められた台詞をなぞるように。
「ご苦労さま。ちょっと待って、…8、9、10番っと。はい、お待たせ」
揃えられたところまでの解答用紙を一旦脇に置き、日誌を受け取ると、今日のページの端が三角に折られていた。すぐに俺が開けるようにという心遣いだろう。
感心しながらページを開くと、綺麗な文字で今日の活動概要が綴られていた。読みやすいし簡潔に書かれてあるし、地味に助かる。今日みたいに仕事が山積みの場合は特に。
「オーケー。他、なんかある?」
「あの、明日の英語の自習ですが、課題は決まってますか?プリントなどあれば、今日のうちに教室に持っていっておきますが」
言われて、げ、と俺は顔を顰めた。
――そうだった。すっかり忘れていた。
ちらりと英語担当の篠咲先生に視線を向けると、学年主任と何やら話している。眉間に皺が寄っているので楽しい話ではなさそうだ。今はとても割って入れる雰囲気ではない。
「あーごめん、ちょっとまだ篠咲先生に聞けてなくて。明日の朝までには聞いておく」
「分かりました。それから、教室にある共有パソコンをシャットダウンしようとしたら、更新プログラムの通知が出ていました。更新するためには先生のIDで再ログインが必要なので、お願いできますか?」
「うわ、それもか」
思わぬところで仕事が増えてしまい、俺は眉をひそめた。
一ヶ月に一度の更新タイミングが運悪く今日に重なってしまったようだ。明日以降の更新でも構わないが、そうなると管理者でもある情報システムの先生にチクチク言われてしまうだろう…。
さっさと片付けておくか。どっちにしろ、教室確認もしなければならないし。
そう思いなおすと、俺は日誌を閉じて席を立った。
「了解。すぐ行って対応しておく」
「よろしくお願いします」
そう彼女が言ったところで、プリンターの音が止まった。ようやく印刷が終わったらしい。
「悪いけど、あのプリンターの印刷物を取ってきて俺の机の上に置いといてくれる?あとでホチキス留めするから」
親指で示せば、原田もそちらに視線を移した。
「分かりました。学習プリントですか?」
「うん、夏休みの課題。1人につき両面印刷のプリントが15枚、つまり30日分だから長期休暇にぴったりだろ?楽しみにしてて」
冗談めかして言ったが、彼女はにこりともしなければ嫌な顔をすることもない。…ま、これが平常運転である。
「結構な量ですね。先生一人でホチキス留めするんですか?」
「ん?まあ、そうだな。つっても左上をパチパチするだけだから」
余裕がないと思われたくなくて、敢えて軽く言った。だからと言って、原田の表情が動いたわけでもないけど。
「じゃ、気をつけて帰れよ」
そう原田に言い残すと、俺は職員室を出た。
そうして足早に教室へと向かったのだが、その途中、放課後解放している自習室で勉強していた生徒に呼び止められた。
それは俺が数学を担当しているクラスの生徒で、聞くと数学の問題で聞きたいところがあるのだと。
勉強となれば断るわけにはいかない。俺はそこでしばらく数学の解説をしたあと、今度こそ急いで教室に向かった。
さすが原田だと言おうか、黒板もチョークの在庫も明日の時間割も、教室は完璧に整えられていた。
一つや二つやり忘れていたり不十分だったりする生徒も結構多いのだが、彼女の場合それが全くない。
こういうところに性格ってでるよな、と思いつつ最終確認して、パソコンの更新設定を行い、教室をあとにした。
腕時計を見ると17:00を過ぎたところ、仕方ないことだが、思った以上に時間がかかってしまった。少し駆け足気味になりながら、頭の中で仕事の予定を組み立てなおす。
戻ったらまずは篠咲先生に自習について確認しよう。話しかけられなかったらPCでメッセージを送ればいい。
その返事を待ってる間にテストを並び替えて採点、振り返りプリントを作って、最後に課題をホチキス留め。
…うん、多分これが一番効率的だ。
上手くいけば18:30には部活に顔を出せるはず。ここから本気出せばきっと大丈夫、俺はやればできる奴なんだ。
ようやく職員室に戻った俺だが、そこには想定外の光景が待ち受けていた。
一体どういうわけか、印刷しただけの夏休みの課題プリントが、ホチキス留めされた状態で、しかもクラス単位でクリアファイルに入れられて机に置かれていたのだ。
それだけじゃない。
その隣には、小テストの解答用紙が出席番号順に並び替えられて置かれていた。
極めつけに、そのすぐ側に貼られた付箋に書いてあったのは――。
『明日の英語自習について(篠咲先生確認済み)
①Lesson 6の文法プリント(両面)
→教室の教壇のひきだしに入れておきます
②教科書P60~P65の本文を予習・要約
③単語の書き取り(No51~100)
※別途、メールでも上記申し送るとのことでした』
なんと、明日の英語自習の課題だった。
「嘘だろ…」
俺は付箋を手に呆然と呟き、そして隣の市之瀬――三年の数学教師で同期でもある――に、ほぼ確信を持って尋ねた。
「おい、この資料って…」
「ああそれ、さっきの日直の子が置いてったよ」
――やっぱり、と思った。
だってこの付箋の字は原田のものだ。それにこの資料の揃え方から見える几帳面さ。彼女以外には考えられない。
(マジかよ…俺の仕事半分以上片付いちゃったんだが…)
俺が教室に行って帰ってくる間に原田が色々整理してくれたおかげで、なんということだろう、残りは採点と点数記録、それから振り返りプリントの作成だけになった。これなら、余裕で18時過ぎには部活に行ける。
「頼まれて文具とか貸したんだけど、なんかまずかった?てっきり高上の指示かと…」
資料を見て固まる俺を見て、何か問題があると思ったのか、市之瀬が困惑気味に尋ねた。
「いや、そうじゃなくて…感動してた、あまりに出来すぎてて」
そう答えたら、なるほど、と市之瀬は安心したように笑った。
――そう。俺は感動のあまり固まってしまったのだ。
だってまさか思わないだろう。俺の言葉や机の状態から何をしようとしているか理解し、指示されたわけでもないのにここまでやってくれるなんて。
「で、原田は?もう帰った?」
その姿を探しても、彼女はもう職員室にはいない。やるだけやってもう帰ってしまったのだろうか。
「うん。ついさっき、5分くらい前だったかな」
どうやらちょうど行き違いだったらしい。
だが、ということはまだ校内にいるはずだ――そう思った次の瞬間には、もう足が動いていた。
付箋の内容から察するに、彼女は英語のプリントを持って教室に向かったのだろう。きっとまだ追いつけるはずだ。
歩いていた足が急ぎ足になって、最後は走っていた。
――冷静に考えれば、今日は残りの仕事を優先して、明日お礼を言うのでもよかったかもしれない。
でも、どうしても言いたかった。
今じゃなきゃダメだった、だから彼女を追いかけた。柄にもなく、本気で。
「――原田!」
教室の手前まで来たところで、ちょうど鞄を手に靴箱へ向かおうとしている原田を見つけた。
名前を呼ぶと、彼女が驚いたように振り返る。
まさか俺が来るとは思っていなかったらしい。
「資料ありがとう。あと自習の確認も。悪かったな、やってもらって」
「いえ…私でもできそうだったので。あれで大丈夫だったでしょうか?」
「うん、ばっちり。戻って机の上見て驚いたよ、頭の中覗かれたのかなって。お礼にジュースでも奢ろうか。あ、購買のパンとかお菓子でもいいよ」
そう言ったら、原田がふっと笑った。
初めて会ったあの日と同じ、あの柔らかい笑顔で。
「いえ、結構です。先生のお役に立てたなら、それで」
そのとき、どこからともなく青い夏風が廊下を吹き抜けた。
窓から差し込む夕陽に照らされて、長い髪を揺らしながら微笑む彼女はまるで一枚の絵画のように美しかった。
それを目の当たりにして、俺の思考も行動も全てが時を止める。と同時に胸を襲ったのは言葉にできないほどの喜びだった。
そして唐突に気付く――俺はずっと、この笑顔を渇望していたのだということに。
「では、失礼します」
原田はそう言って一礼すると、背中を向けて歩き出した。まるで何事もなかったかのように、いつもの様子で。
「…原田!」
「……?」
咄嗟に呼び止めたが、何か言いたいことがあったわけじゃない。
ただ、もう少し話したかった。その瞳に俺を――映してほしかった。
「えっと、その…また明日な」
呼び止めるほどでもない会話だったが、他に言葉が出てこなかったから仕方ない。
でも原田は特に訝しむわけでもなく、ただ一言「はい、また明日。さようなら」と言い残してまた歩き出す。
その背中は、もう俺のことなど忘れてしまったように無関心で冷ややかだ。その証拠に、彼女はその後一度も振り返ることなく行ってしまった。
多分、言葉を交わしたこともその内容も、彼女にとっては何の価値もない、取るに足りないことだろう。
でも俺にとっては違う――もう今までと同じようには思えない。だって知ってしまったから。
一見そっけなく振る舞っていても、実は相手をよく見ていること。そしてそれを負担に思われないように上手く立ち回り、さりげなく配慮することも。
(あ―…まずいな、これは)
原田の姿が見えなくなっても、俺は動けないまま佇んでいた。胸が熱くなるのを感じて、鼓動が高まるのを止められない。
昔から、こういう優しさに弱いんだ、俺は。
家でも学校でも何かを常に期待され、それに応えることが当然だったから。弱みを誰かに見せることも、誰かに助けを求めることも、実は苦手だった。それは大人になっても変わることがなくて。
だけど、原田は敏感にそれを感じ取って、俺を助けてくれた。ごく自然に、まるでそれが当然かのように、しかも見返りを一切求めずに。
こんなの、こんなの…好きになるなって方が無理だ。
(――え?俺、今何を…)
胸の奥から突然転がり落ちてきた声に、俺は自分で戸惑った。
「好きになるな」ってなんだ?
まさか、好きになったのか?生徒である彼女を?
いや、まさか。ありえない、それだけは絶対に。
社会的に、立場的に、倫理的に…とにかく色んな意味で、決してあってはいけないことなのだ。
…だけど、嫌な予感というものは得てして当たるものである。
その日以来、俺はどうしても原田のことが気になってしかたなかった。
彼女を見る度、勝手に視線で追ってしまう。声を聞けたら嬉しいと思ってしまう。
例え微笑み一つ見せなくなったとしても、その裏側に隠された優しさを知ってしまったから、無愛想だなんて一ミリも思えない。
話したくて近づきたくて、なんでもないようなことで話しかけて。
時折原田の行動の中に優しさの欠片を見つけては、胸が熱くなった。彼女が日直になる日が待ち遠しくて、そのうち夢にまで出てくるようにまでなった。しかも夢の中の彼女はいつも俺に笑ってくれるんだ。全てを包み込んでくれるような、あの優しい笑顔で。
そうして、やがて俺はついに認めざるをえなくなる。
――俺は不覚にも、原田に恋をしてしまったのだということを。




