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1-2.警戒

お風呂からあがって、ようやく人心地がついた。

借りた服は丁度いいサイズだったから、先生の妹は私と同じくらいの背丈なのだろう。

とはいえ、勝手に借りてしまって申し訳ない。色々落ち着いたら綺麗に洗濯して返さなければ――少なくともそんなことを考えられるくらいには、冷静を取り戻していた。


ドライヤーで髪を乾かしながら、ふと脱衣所を見渡してみる。洗面台と洗濯機が隣合わせで置かれていて、それだけでこの部屋の半分を占めている。

お風呂もそうだったけど、お世辞にも広いとは言えない。でも狭すぎるわけでもない。多少の圧迫感は感じるけれど、賃貸なんだろうし、こんなものだろう。

洗濯機の上にはラックがあって、そこにタオル類や衣料洗剤が並べられている。他にも、洗面台には歯ブラシや男性用洗顔料、シェーバーなどがあって、先生の生活が垣間見えるようだ。先生も一人の人間だから当然のことなのだけれど、今まで教師の顔しか知らなかったから、なんだか不思議な気分になる。


(…そう。先生は、男だ)


鏡の中の私が、強く警告している。

教師という仮面をかぶっていたとしても、学校を離れればただの男。

それはつまり、力でねじ伏せようとするケダモノになりえるということ。

油断してはいけない。警戒しろ、決して隙を見せるな。

厚意の裏には薄汚れた勝手な欲望があることを知っているでしょう。

この優しさだって――私を丸め込むための作戦かもしれないのだから。


(こんなところ、早く出て行かなくちゃ)


信じられるのは、自分だけ。

行くあてはないにしても、男と居るより一人の方がよっぽど安心だ。

だけどその前に一言ぐらいお礼を告げるべきだろうか。

勝手に連れてこられたとはいえ、結果的にお風呂を借りたし妹さんの服ももらった。

このまま出て行ってもいいけど、後味の悪いことはしたくない。

それにあの先生のことだ、勝手に出て行ったらそれこそ無理矢理連れ戻されるか、家に連絡されるだろう。それだけは避けたい。


脱衣所のドアを開けて廊下に出ると、ひんやりした空気が火照った肌を包んで心地良く感じた。

ちらりと玄関の方を見ると、いつの間にか鍵がかけられていたから、忍び足で近づき、音を立てないように気をつけながら開錠できることを確認する。…大丈夫、これでいつでも逃げ出せる。

私は一つ深呼吸をすると、言われたとおり一番奥の部屋へと向かった。



その扉を開くと、少し広いリビングが姿を現した。モノクロを基調として整えられた部屋は男性の部屋だということを思い知らせて私を緊張させる。

入口の右手にはカウンターキッチンがあって、そのすぐ側のダイニングテーブルに先生はいた。

仕事をしていたのだろう、その手元にはノートパソコンが広げられている。


「お。ちゃんと温まったか?」

無言で頷く。先生は「そうか」と笑うと、ノートパソコンを閉じて立ち上がった。

そしてキッチンに入りながら、部屋の中央付近にテレビと向かい合わせに置かれたグレーのソファを視線で示した。


「そこに座って。生憎お茶切らしてて、コーヒーしか出せないんだけど。原田はきっと、甘めが好きだよな」

「…どうしてそれを?」


先生の推測どおり、私は甘党だ。それもかなりの。

コーヒーは好きだけれど、そのままでは苦過ぎて飲めない。たっぷりの砂糖とミルクが必要なのだ。

なぜそのことを知っているんだろう、と訝しく思っていると、先生は思考を読んだようにこう言った。


「初めて会ったとき、コーヒーミルクが好きだって言ってたから」


言われて、なるほど、と納得した。

事情があって、私は今年の4月に今の学校へ転入してきた。その転入説明の際、先生が自販機でコーヒーミルクを買ってくれたのだ。

好きなものを選べと言われて、私は迷うことなく大好きなコーヒーミルクを選んだ。どうやら、それを覚えていてくれたらしい。


どうぞ、と言って、先生がソファの前のセンターテーブルにコーヒーを置いた。

香ばしい匂いが鼻腔をくすぐるけれど、そのコーヒーに口をつける気にはなれなかった。

だって何が入っているか分からない。例えば私を貶めるための薬が――睡眠薬とかが入っているかも、しれない。


「ありがとうございます。でも結構です。もう行きますので」

「行くって、どこに」

「…わかりません。でも、大丈夫です。何とかします」


先生と視線を合わせたくなくて、ティーカップから立ち上る湯気を見つめながら答えた。

無謀な言葉に先生が顔をしかめたのが視界の端に映ったけれど、他に答えようがない。

テレビがついているおかげで無音ではないものの、二人の会話が気まずく途切れた。

テレビのニュースキャスターは難しい顔で差し迫った国政選挙の情報を伝えているけど何一つとして今の私には届かない。

無理もない、だって私にはこの国の行く末より、これから自分がどうなるかの方がよっぽど重要だ。


「何とかするって…あのな。女子高生が一人で何とかできるわけないだろ。しかも夜に、危険すぎる」

「先生には関係ありません」

「関係なくはない。俺は教師だし、危険と知っててみすみす送り出せない」


だったら、あの時知らないふりをすればよかったのに。

学校外なんだし、保護する義務なんてなかったはずだ。


でもそれを口にすることすら今はもう面倒くさい。

だから私は視線を逸らして、これ以上話す意志がないことを暗に示した。

頑なに交渉を拒む私に先生は溜息をつくと、やがて「分かった」と一人頷いた。


「しょうがない。今夜はここに泊まれ」

「え…?」

それは予想外の言葉だった。視線を先生に戻し、その意図を探る。自然、表情が険しくなるのを止められない。

でも先生はまるでそれが最善策だと言わんばかりに納得して言葉を続けた。


「明日は土曜日だしな。明日の朝、また話そう」

「…嫌です。信用できませんから」

「さっきも言ってたけど。信用できないとは、何故?」

「だって、男だから」

「…どういう意味?」


その質問には答えなかった。

やがて説明する意思がないことを理解すると、先生は「分かったよ」と頭を掻いて告げた。


「なら、今日は俺が出ていく。とにかく今夜はよく休んで。家の中のものは適当に使ってくれていい。もし何かあったら連絡くれ。連絡網で知ってると思うけど、一応連絡先書いとく」


先生はそう言うと仕事用(と思われる)鞄から手帳を取り出し、一枚破って携帯の番号を書きとめた。

そしてそれをテーブルの上に置くと、鞄の中にノートパソコンをしまって私を振り返り、「じゃ、また明日。おやすみ」と言い残して玄関の方へと消えていく。すぐに玄関の扉が開く音がしたかと思うと、ガチャ、と鍵の閉まる音がした。


それは本当にあっという間の出来事で――私は暫し、先生が出て行った玄関を見つめたまま呆然としてしまった。

残ったのは主人を失って静まり返った部屋と、呆然と佇む私だけ。


「…嘘、でしょ…?」


一人残されて、私は状況を理解するのに必死だ。

とても信じられない展開。まさかあの先生が、こんなにもあっさり引き下がるなんて。


(何が目的…?)


本当に私を心配してくれたのか、それとも何か企んでいるのか。

なぜ先生が私をここに連れてきたのか、先生の本意は何なのか――何も分からないけれど、状況から察するに、ひとまず今夜の寝床は確保できたらしい。


(まあいい、あとで考えよう…)


溜息をついて、私は考えることをそこで止めた。

と、一人になって気が緩んだ途端、急激に疲労が襲ってくる。

頭はこれ以上の思慮を拒否している。それくらい今日は、色んなことがありすぎた。考えるべきことは明日の自分に任せて今は眠ろう。

今日はどうにかなっても、明日からはどうなるか分からない現実なのだから。


私は得体の知れないコーヒーをシンクに流してから脱衣所に向かうと、濡れた服を洗濯機に入れた。洗剤をいれて、洗濯・乾燥コースを選んで回し始める。

適当に使って、と言っていたし、洗濯機を使っても問題ないだろう。これで明日の朝には自分の服を取り戻せる。


それから玄関に向かい、施錠を確認した。念のため、チェーンも忘れずに。

リビングに戻って、ベランダの鍵も確認すると、カーテンを隙間なく閉める。

だけどそれでも安心できなくて、リビングの棚にしまわれていたハサミを見つけると、ぎゅっと胸に抱きしめた。

これで、たとえ先生がスペアキーで侵入してきたとしても自分を守れる。…それでようやく、緊張がほぐれた。


「…寝よう」


自分の安全を確認したら、いよいよ瞼が重くなり始めた。

直感に任せてリビングの隣の部屋を覗くと、予想通りベッドルームだった。

一人で寝るにはやけに広いベッドは、もしかするとキングサイズかもしれない。

腰をかけるとほどよい沈み具合で、寝心地が良さそうだな、と呑気なことを思った。

明かりを消してベッドに入る。すぐ手が届くように、ハサミは枕元に置いた。

そうして目を閉じたら、疲れと安堵のせいだろうか、私はあっという間に眠りに落ちてしまった。


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