1-14.打ち明ける過去
今回も少し乱暴な表現がありますので苦手な方はご注意ください。
私が泣き止むまで、先生はずっと髪を撫でていてくれた。
そうして泣き疲れた私は、いつの間にか眠ってしまったらしい。
気が付いたら、先生のマンションのベッドで寝ていた。
殴られた頬にはガーゼが当てられている。きっと先生が手当してくれたんだろう。
ベッドから降りてリビングに入ると、ダイニングテーブルで仕事をしていたらしい先生が私を振り返った。
「もう大丈夫か?」
こくりと私は頷く。
「そっか。なんか飲む?」
再び頷く。先生は微笑んでキッチンに入り、温かいコーヒーを作ってくれた。
私が大の甘党と知っている今は、そこにたっぷりの砂糖とミルクを入れて差し出してくれる。ソファに座って一口飲んだら想像以上に優しい味がして、泣きそうになった。
(初めてここに来た時もコーヒー出してくれたっけ…)
そう…あの時は、先生のことなんて信じられなくて。コーヒーカップに口をつけることもしなかった。
先生も他と変わらない欲望を隠し持っていて、信用ならない敵だと思っていた。
それが今はどうだろう。私は何の疑いもなくコーヒーカップを手に取って、口に運んだ。
――本当は、と今更ながらに思う。
本当は私、ずっと知ってた。拒みながらも求めていたものが此処にあること。
だけど気付かないふりをしていた。また傷つくのが怖かったから。
でも一緒に生活しながら先生を知るうち、いつしか恐怖は期待に変わっていった。
「…先生」
視線を合わせないまま、隣で私の様子を見ていた先生を呼ぶ。
「うん?」
その声音のなんと優しいことだろうか。きっとたくさん傷つけたのに、それでも笑ってくれる尊い人。
「…ごめんなさい」
それは、いろんな意味での謝罪だった。
先生を、信じられなかったこと。自分の気持ちに背を向けていたこと。
先生に酷いことを言ってしまったこと。そして、迷惑をかけてしまったこと。
誰も信じなければ誰にも裏切られない、そう思っていた。それが私の強みですらあった。
だけどいつまでもそうやって自分を守っていくのは難しい。
世界に背を向け、独りで生きていくのは難しい。
あの時先生に助けられてようやく私はそのことに気付いた。
「いいよ。原田が笑ってるなら、それでいいんだ」
優しく微笑んだ先生。高鳴る鼓動に後押しされて、私は覚悟を決めた。
「…聞いてくれますか。私の、過去について」
隣の柔らかな雰囲気がわずかに緊張を帯びたものに変わるのが分かった。
握るコーヒーカップの水面はわずかに揺れている。どこか不安定なそれは私そのものにも見えた。
でもそれも確かな支えを得れば鎮まるだろう。きっと、一滴の揺らぎもなく。
私はコーヒーカップをテーブルに置くと、視線をゆっくり先生へと向けた。
少しの間、言葉を探すように沈黙が続く。今までになく真剣な瞳がぶつかって、私たちは見つめあった。
それは、佳穂にすら未だ話していない過去。
これから先もずっと一人で、抱えて生きていくんだと思っていた。
だけど先生ならこの深い傷も癒してくれるかもしれない。
…ねぇ何を聞いても変わらず側にいてくれると、信じてもいい?
「私の家族には愛情なんてありません。今も、昔も。両親が気にするのは世間体だけ、私は完璧な家族を演じるために必要な人形のようなものなんです」
冷え切った両親。親同士が決めた結婚だったから、とお母さんは言い訳する。他に好きな人がいたのにと、二人の娘であるはずの私の前で平然と。
物心ついた時からそんな両親だったから、私には家族で旅行に行った記憶も、お父さんに肩車や抱っこをしてもらった記憶もない。
だから私にとって、両親とは「共に生活する大人」。
友達の誰もがそんな家庭事情を知ると可哀想だと言う。だけどそんな感情、私にあるわけがない。だってそれが私にとっては普通なのだから。
幼いころ、お母さんはよく言っていた。誰かに期待することは空しいことなのだと。
私はその意味を成長するにつれて理解するようになった。
期待して、求めたものが得られないと気付いた時、現実の残酷さを知る。
そうしていつしか慣れて、それが当たり前だと受け入れるようになる。
その最たるものが愛という形ないもので、これほど不確かなものはない。
私の両親こそがその証明、二人を結び付けているのは愛ではなく世間体だけ。
男は稼ぎ女は家庭を守る、それさえ守ればお互いに干渉しない。愛などに振り回されて離婚するなど、みっともない――そんな価値観だけは、奇しくも共通していたらしい。
そんな二人は、娘の私にも「子ども」としての役割を求めた。すなわち、親の言うことをよく聞いて良い学校に通う優等生であるということだ。
だから躾は厳しかった。理想通りの娘を演じられないと容赦ない罰が――身体的暴力こそなかったけれど、無視されたりご飯を食べられなかったり――いつも待っていた。
その代わり、いい成績をとったり表彰されたりすると、なんでも望むままにご褒美がもらえた。
親の機嫌が良い限り、怖いことは起きない。
そう学んだ幼い私にとって、「優等生」であることは必要不可欠なステータスだったのだ。
だけど高校二年の時、ある事件を境に私は不登校になってしまう。
いじめに遭ったのだ。
当時私は、女子バスケ部に所属していた。
その日、掃除当番だった私は、部活後に体育館倉庫で後片付けをしているところで、一人の男子に声をかけられた。
彼は一学年上だし部活も違うけれど、バスケ部の先輩の彼氏で、顔を見かけたら挨拶する程度の知り合い。…と、私は思っていたけれど、彼はそうじゃなかった。
私を恋愛対象として見ていなくても、「一人の女」としては見ていたのだ。
片付けを手伝う振りをしながら意味深な笑みを浮かべた彼は、私が油断したその一瞬を見計らうと力任せに壁に押しつけ、キスをしてきた。
興奮気味に息を荒くし、野獣と化した彼の表情を今でも私は忘れることができない。
いつも穏やかに話す人だったのに、まるで別人。とても説得できる状態でもなく、私は必死で抵抗した。
だけどすぐに力で抑え込まれて、声をあげることもできなかった。その時、たまたま近くを通りかかった人が物音に気付いて扉を開けたからなんとか助かったけれど――最悪なことに、よりによって、それは彼女でもあるバスケ部の先輩で。
焦ったその男は「こいつが誘ってきたんだ」と大声で叫んだ。違う、そうじゃないと私は必死に否定したものの、先輩は怒りを滲ませた瞳でただ私を見つめていた。
その翌日から、部活内でいじめが始まった。
ユニフォームを破られたり、シューズが捨てられてたり…練習で仲間外れにされたり、ボールをわざと当てられたり。
そのうち噂を聞いたクラスメイトも軽蔑の目で見るようになって、避けられて――。
そんなことが続いたある日、私はある日突然学校に行けなくなった。
足がすくんで、前に進まないのだ。通学路は地獄への道のり、自分を叱咤し時間をかけてなんとか進んでも、学校が見えた瞬間に吐き気を催す――そんな状態だった。
母はしきりに理由を知りたがった。つい先日まで皆勤だった娘が急に学校に行かなくなったのだ、当然だろう。
だから私は意を決して全てを母に打ち明けたのだけれど、母から返ってきた言葉は――「あなたが思わせぶりな態度をとったんじゃないの?」。
その一言で、私は完全に心を閉ざした。諦めた、と言ってもいい。以来、学校はもちろんのこと、部屋に引きこもる日が続く。
そしてそんな私を、当然両親はよく思わなかった。「不登校」で「引きこもり」の娘など、「世間体が良くない」からだ。
そんな日々が半年以上続いた頃、両親は私に東京への転校を提案した。要は、彼らが望む「子ども」の役割を全うできない荷物など、要らなくなったということ。
私にはその提案を拒む理由などなかった。
そうして私は生まれ育った故郷を離れ、新しい場所で生きていくことを決意した。
転入先の学校は、下宿する叔母の家から一番近い隆章学園に決めた。
できれば女子高がよかったけれど、家から遠く、学費も高かったこともあり諦めた。
叔母さん達夫婦は子供はいないけれど夫婦仲も良好で、両親よりも私を可愛がり、気にかけてくれたように思う。
ところが、ほんの少し肩の荷が下りた気がして生活にも慣れ始めた頃、悪戯な運命はそこでも、残酷に私を苦しめることになる。
新しい生活が始まって数ヶ月たったある日、知り合いに不幸があり、叔母夫婦が家を空けた。
そんな時、宅配業者と名乗る男が訪ねてきて、疑いもせずに玄関を開いた瞬間、その人は私を強引に組み敷いて、犯そうとしたのだ。
その男は近所に住んでいて、何度かすれ違ったことがあった程度。その度に私をジロジロと見て、気持ち悪いと感じ始めていた矢先のことだった。
状況をとっさに呑み込めないまま、それでも本能で必死に抵抗したけど、突き出されたナイフに感覚が全て凍りついた。
――「殺されたいのかよ?」
その声音、口調。今でも鮮やかに覚えている。声も出せない、抵抗もできない。
人間なんて…女なんて、こんなとき無力だ。生命の存続以上に本能が求めることなんてない。
そしてそれは私も例外でなく。私は、ただ泣くことしかできなかった。
だけどその時、玄関先で車の音がして、叔母さん達が帰ってきたことを知らせた。
ほんの一瞬、男の意識が私から逸れる。
その隙をついて、私は男の体を全力で押しどけ、なりふりかまわず家を飛び出した。
後ろから叔母さん達の呼び止める声が聞こえたけれど、立ち止まらない。私は土砂降りの雨にもかまわず、どこか落ち着ける場所まで夢中で走った。
そしてようやく見つけた場所に座りこみ、自分を守るように身体を抱きしめたのだ。
絶望と悲痛の混じった涙が、とめどなく溢れて止まらなかった。
心底男が憎い。すぐに力で女を抑えつけようとする。男なんて、信じられない。
何を考えてるのか分からない。優しい顔してたって、その裏では酷いことばかり考えてる。
これからどうしたらいいのか。どう生きて行けばいいのか――いっそ、死んでしまおうか。
その問いに答えが返って来ることはない。頬に伝う雫は、私の涙なのか、それとも雨なのか。
もう叔母さんの家には帰れない。家を知られている以上、またあんなことが起きるとも限らない。
ましてや、実家にも帰れない。また私は居場所を失ってしまった。否、そんなもの元々なかった。生まれてからずっと…本当に安らげる場所なんて、どこにも。
雨は私の体温を奪っていく。
このまま私の記憶も、私の命でさえも、奪ってほしいと願った。
男に怯えることのない何処かへ連れて行って、そして…私を救って欲しいと。
そう祈っていた時、ふと降り注ぐ雨が止んだ。見上げると、傘を差し出す男性が立っていた。
――「…原田?」
私の名前を呼ぶその声は今思えば確かに、暗闇に差す一筋の光だった。
***
「そうだったのか…」
静かに私の話を聞いていた先生は、全てを聞き終えた後、やるせないような表情でため息をついた。
「そりゃ、愛情も信じられないし、男嫌いにもなるよなぁ…」
先生はどうしたものかと思い悩んだように頭を掻く。それから少し戸惑って私に視線を戻した。
「俺も…怖い?」
先生が不安気に訊いた。その問いに私は静かに首を横に振る。
「…本当に?」
半信半疑といった先生の問いかけに、迷うことなく頷いた。
「だって、先生は私を守ってくれる人だから…」
そう。先生は、怖くない。だって彼らとは違う。
先生の大きな手は、私を抑えつけるためにある手じゃない。今夜、それを証明してくれた。
「あの、一つ聞いてもいいですか」
「うん」
「どうして今日、私があそこにいるって分かったんですか…?」
なぜあの時私を助けられたのか。いつも車通勤の先生があそこにいる理由が思いつかなかった。
すると先生は少し気まずそうに言葉を濁して答えた。
「あー…実はさ、今日は電車で通勤したんだ、俺。早く帰れることが分かってたし、最近すれ違ってばかりだったから、その…ちゃんと話したくて」
「え…」
「なんとか同じ電車に乗れて、駅で原田のこと見つけたんだけど…声掛けたらさ、知ってる人に見られる可能性があるだろ。だからある程度家の近くまで来てからと思って、少し距離を空けて後ろからついていったんだ。途中信号にひっかかって追いつくのに時間かかったけど、原田が路地裏の方に入っていくのは見えたから…それで」
呆然と聞いている私を見て、先生は「ごめん、その…ストーカーみたいなことして」と頭を下げた。
でも私は首を横に振って、顔を上げるように促した。
「もとはと言えば先生を避けてた私のせいですし…何より、おかげで助かりました」
涙に潤んだ瞳で先生を見上げる。先生は優しく笑い、零れた私の涙を拭った。
「助けに来てくれて、ありがとうございました」
素直な感謝の言葉に先生が嬉しそうに頷く。
それから私の髪を撫でると、「ところで」と話題を変えた。
「腹減ってないか?」
なんとも場にそぐわない質問に、私は一瞬目を見張る。
だけどこんな状況にそんな普通すぎる質問が却って先生らしい。思わずくすりと笑顔がこぼれた。
「…うん、それでいい」
「え?」
見上げた先生は満足げに笑っている。
「言っただろ。原田が笑ってれば、それでいいんだ。何か作るよ、食いたいもんある?」
正直、今はまだ食欲なんてない。先生もきっとそれを分かっている。
だけど分かっているからこそ必要なのだ。私たちの日常を取り戻すために。
「…先生の得意料理でお願いします」
そう答えたら、先生が今度は得意気な顔になった。
「ありすぎて迷うなあ」
そう言いながらキッチンに入っていった先生の背中を、私は穏やかな気持ちで見送る。
このとき、二人の間で交わされた賭けのことなんて――ましてや、あの約束のことなんて。
私はすっかり、忘れてしまっていた。




