第7章 真実の共有
体育祭は予想通り中止になった。
教室に戻ると、クラスメイトたちが「下着消失現象」の話題で持ちきりだった。
女子たちは既に替えの体操着やジャージに着替え、警戒心を隠せない様子で固まっていた。
男子たちも困惑した表情で議論を交わしている。
俺の机の上に、小さな紙切れが置かれていた。
丁寧な文字で、「放課後、校舎裏で待っています。—有栖川」と書かれている。
心臓が高鳴る。
「陸、大丈夫か?」
佐々木の声が聞こえた。
彼は心配そうな顔で俺を見ていた。
「ああ、なんとか……」
「マジでヤバかったな、今日。お前のリレーの時に起きたアレ……」
「あ、ああ……」
気まずい雰囲気が流れる。
俺が「現象」の原因だと知られたら、どうなるだろう?
「……とりあえず、先に帰るわ」
佐々木は諦めたように肩をすくめた。
俺と彼の間には、今までなかった壁ができつつあった。
◇
放課後、校舎が徐々に静まり返る中、俺は有栖川のメモに従って校舎裏へと向かった。
それは桜の木が数本植えられた静かな場所で、普段から人気が少ない。
そこに彼女は既に立っていた。
白のブラウスに紺のスカートという制服姿に身を包み、風に揺れる黒髪が彼女の繊細な横顔を優雅に彩っていた。
「来てくれたのね」
有栖川が振り返る。
その表情には緊張と安堵が入り混じっていた。
晴れやかな五月の風が二人の間を吹き抜ける。
二人は緊張した面持ちで向き合う。
桜の花びらが風に舞い、時折二人の間を通り過ぎる。
沈黙が流れた後、彼女が決意を込めたような表情で口を開いた。
「私の能力は……興奮すると自分の下着が消えてしまうの」
その言葉に、胸が締め付けられる思いがした。
やはり、彼女も「能力」を持っていたのだ。
「俺は……興奮すると周りの人の下着が消えてしまう」
互いの告白に、二人の顔に驚きと安堵の表情が浮かぶ。
彼女の紫がかった瞳が大きく見開かれ、次の瞬間には少し柔らかくなった。
「あなたが原因だったのね……あの『現象』の」
それは非難ではなく、むしろ理解を示す口調だった。
「いつからその能力が……?」
俺の質問に、彼女は桜の木に背を預けるようにして答えた。
「一ヶ月前……ある日突然。朝起きたら、妙な感覚がして……それから、恥ずかしいことを考えたり、ドキドキすると……」
彼女の頬が赤く染まる。
普段の冷静な彼女からは想像できない、恥じらいの表情。
「俺も一週間前から……朝、隣に住むお姉さんとぶつかった時に初めて起きて……」
二人は互いの体験を、少しずつ打ち明け始めた。
風が彼女のスカートをわずかにたなびかせ、髪を揺らす。
太陽が傾き始め、二人の影が少しずつ長くなっていく。
「本当に辛かったの……」
有栖川の声には、これまで見せなかった感情の揺らぎがあった。
「常に冷静でいようとしているけど、恥ずかしい状況や……妄想が頭に浮かぶと、突然下着が消えて……」
彼女は俯き、自分の腕を抱きしめるようにして続けた。
「授業中に突然……トイレに駆け込んで……友達にも相談できなくて……」
「わかるよ。俺の場合は他人の下着だから、周りに迷惑をかけて……みんながパニックになって……」
俺も自分の苦しみを言葉にした。
二人で共有する秘密。
それは孤独な戦いだった日々に、僅かな光をもたらしていた。
「私たちの能力、なんで似てるんだろう……でも正反対」
彼女が不思議そうに首を傾げる。
その仕草が妙に可愛らしく、思わず見入ってしまう。
「何か関係があるのかな」
「そうかも……」
話しているうちに、気づけば二人の距離は自然と縮まっていた。
彼女の佇まいから漂う微かな香り—花の香りのような清楚な香水の匂い—が鼻をくすぐる。
風が強く吹き、有栖川の髪が舞い上がった。
彼女が髪を押さえようとする仕草に、俺は思わず手を伸ばした。
そして、偶然。有栖川の手に触れた。
「あっ……」
二人の声が重なる。
その瞬間、体を奇妙な感覚が駆け抜けた。
電流のようなビリビリとした感覚、そして全身に広がる不思議な安定感。
まるで長い間欠けていたパズルのピースが、ぴったりとはまったような感覚。
「今の……何?」
驚いて彼女を見る。
有栖川も同じく驚いた表情で俺を見つめ返していた。
「わからない……でも、なんだか落ち着く感じ」
彼女の声は小さかったが、確かな驚きが籠っていた。
「試してみようか?」
俺の言葉に、彼女はわずかに赤くなりながらも頷いた。
「私が……恥ずかしいことを思い出してみる」
有栖川は目を閉じ、深呼吸した。
その表情が徐々に赤みを帯びていく。
通常なら、この状態で彼女の下着は消失するはずだ。だが……。
「どう?」
「消えない……」
彼女の声には驚きと安堵が混じっていた。
次は俺の番だ。あの朝の沙織さんとの接触、授業中の緊張……恥ずかしい記憶を次々と思い出す。
心拍数が上がり、頬が熱くなる。
これが「能力発動」の前兆のはずだが……。
周囲に変化はなかった。
「俺の能力も発動してない……」
「まさか……」
有栖川の目が輝いた。
「私たちが触れ合うと、お互いの能力が打ち消し合う?」
その仮説に、二人の目が見開かれた。
まるで暗闇の中に一筋の光が差し込んだような希望。
俺たちはもう一度手を重ねた。
彼女の手は細くて柔らかく、少し冷たかった。
その接触で再び奇妙な感覚が体を巡る。
だが今度は驚きよりも、安心感の方が強かった。
「これって……つまり……」
「私たちが触れ合っていれば、能力は発動しない……?」
有栖川の言葉を受け、俺たちの目が合った。
そこには同じ希望の光が灯っている。
それは孤独との戦いに終止符を打つ可能性。
だが同時に、新たな複雑さも意味していた。
「でも、常に触れ合っているわけにはいかないよね……」
その現実的な問題に、二人は沈黙する。
だが、有栖川の表情には以前見たことのない決意が浮かんでいた。
「とりあえず……この発見は大きいわ」
彼女は小さく微笑んだ。その笑顔を見るのは初めてだった。
「もう少し調査してみましょう。どんな接触なら効果があるのか……どれくらいの時間効果が続くのか……」
彼女の理論的なアプローチに、思わず笑みがこぼれる。
「さすが優等生」
「それって皮肉?」
少し拗ねたような表情を見せる彼女に、心が和らいだ。
「いや、本心だよ。俺なら絶対にそこまで考えられない」
夕焼けが二人を赤く染め始めていた。風も少し冷たくなってきている。
「とりあえず……これからどうする?」
彼女が真剣な表情で尋ねる。
それは「このまま別々に悩み続けるのか、それとも……」という問いを含んでいた。
「一緒に解決策を探さない?」
俺の言葉に、彼女は少し驚いたような、でも嬉しそうな表情を浮かべた。
「そうね……二人なら、きっと何か見つかるわ」
そして再び、自然と二人の手が触れ合う。
今度は偶然ではなく、互いの意思による接触。
その温もりが、これまでの孤独を少しだけ溶かしていくようだった。
「明日から……どうやって?」
彼女の問いに、俺たちは顔を見合わせた。
学校でどうやって「触れ合い続ける」か。
それは新たな挑戦の始まりだった。