第2章 クラスメイトとの接触
ホームルームが終わると、そのまま1時間目の数学が始まった。
担任の山田先生は、数学科の教師を兼任している。
三十代半ばのやや太めの男性で、いつもネクタイが少しだけ歪んでいるのが特徴だ。
数学の授業はわかりやすいと評判だが、生徒を当てるのが大好きという困った癖がある。
「これは微分方程式の応用問題です。さて、誰か解いてみたい人は?」
山田先生が教室を見回す。
誰も手を挙げない。
もちろん俺も机に体を低くして、視線を合わせないようにした。
こんな精神状態では、複雑な数式なんて解ける状態じゃない。
「じゃあ……都倉くん」
突然名前を呼ばれ、心臓が跳ね上がる。
「え?」
「黒板に出て解いてみなさい」
さも当然のように言う山田先生。
逃げ場はない。
他の生徒たちの視線を感じながら、重い足取りで黒板に向かう。
頭が真っ白になり、冷や汗が背中を伝う。
黒板の前に立ち、チョークを手に取る。
白い粉が指につく感触。
手が震えている。
何とか集中して、問題を見つめる。
なんとか解き始めるが、積分の途中で詰まってしまう。
焦りで息が苦しくなってくる。
背後からクラスメイトの視線が突き刺さる。
この状況だと黒板に書いてある問題すら正確に読めない。
俺の耳が真っ赤になっているのが自分でもわかる。
心拍数が上がり、額から汗が滴り落ちそうだ。
この緊張……どうしよう……まさか、また……?
その瞬間、背後から小さな悲鳴が聞こえた。
「きゃっ!?」
振り返ると、前列に座っていた女子数名が突然立ち上がっていた。
顔を真っ赤にして、スカートを押さえながら。
「ど、どうした?」と山田先生。
女子たちは互いに目配せをし、一斉に「すみません、ちょっとトイレに!」と言って教室を飛び出していった。
教室に混乱が広がる。
男子たちは首を傾げ、残った女子たちも不安そうな表情を浮かべている。
俺はチョークを握ったまま、その場で固まってしまった。
そのとき、ふと視線を感じた。
教室の後方、窓際の席に座る一人の女子が、じっと俺を見つめていた。
有栖川凛。
クラスでもトップレベルの成績を持つ優等生で、その美貌から男子たちの間では密かな憧れの的だった。
今日も完璧に整えられた制服に身を包み、長めの黒髪に左側だけ小さなヘアピンをつけている。
スレンダーな体型で、スカートから伸びる脚線美は男子生徒の視線を集めるほどだ。
しかし、彼女の最大の特徴は「近寄りがたい雰囲気」だった。
常に冷静沈着で、感情をあまり表に出さない。
クラスでも一部の女子としか話さず、男子とはほとんど会話したことがない。
彼女の紫がかった青い瞳は、驚くほど鋭く、まるで俺の心を読み取るかのように見つめていた。
他の女子たちと違って、彼女だけが冷静に状況を観察していることに気づいた。
しかし、次の瞬間、有栖川もまた顔を赤くして立ち上がった。
彼女は周囲と違って騒ぎ立てることなく、「失礼します」と小さく呟いて教室を出て行った。
「都倉くん、集中して」
山田先生の声で我に返る。
なんとか問題を最後まで解き、大きなため息をつきながら席に戻った。
「おい、陸、大丈夫か?」
隣の席の佐々木が小声で話しかけてくる。
彼の茶色い髪が朝日で少し明るく見える。
「あ、ああ……」
「なんか変だぞ、お前。朝からボーッとしてるし」
◇
授業が終わるのを待って、俺は佐々木を廊下に連れ出した。
「なあ、さっきの女子たち、何があったか知ってるか?」
「聞いた話だと、なんか突然下着が消えたって騒いでたみたいだぜ」
佐々木は不思議そうな表情を浮かべた後、急に目を輝かせる。
「ひょうっとして幽霊の仕業だったりしてな」
冗談めかして言う佐々木に、俺は無理に笑顔を作る。
冗談でもなんでもない。
もっと恐ろしいことが起きている。
「なあ、俺……」
言いかけて、言葉を飲み込む。この状況を説明したところで、信じてもらえるだろうか?
しかも、もしこれが本当なら……俺はとんでもないセクハラ魔になってしまう。
「ん? なんだよ?」
「いや、なんでもない」
廊下の向こうから、さっき教室を出て行った女子たちが戻ってくるのが見えた。
彼女たちは体操着に着替えており、恥ずかしそうに小声で話している。
そして、その集団の後ろから歩いてくる一人の女子が目に入った。
有栖川凛だ。
彼女も体操着に着替えていたが、他の女子たちとは少し距離を置いて歩いている。
彼女と目が合った瞬間、有栖川は一瞬立ち止まり、何か言いたげな表情を浮かべた。
だが、次の瞬間には視線を外し、俺たちの横をすっと通り過ぎていった。
「有栖川だけなんか様子が違う……」
思わず呟いた言葉に、佐々木がニヤリと笑う。
「へえ〜、陸が有栖川に興味あるなんて珍しいじゃん」
「ち、違うよ! ただ……」
何が「違う」のかを説明できない。
だが、確かに有栖川の反応は他の女子たちとは違っていた。
彼女は驚いたり慌てたりする様子はなかった。
それよりも、まるで何かを見極めようとするような……観察しているような眼差しだった。
◇
教室に戻る途中、廊下の窓から見える校庭に目をやると、体育の授業をしているクラスが見えた。
初夏の日差しが降り注ぐ中、女子たちがバレーボールをしている。
爽やかな風が彼女たちのスカートをわずかに揺らし、青春の一コマを切り取ったような光景だった。
だが今の俺には、それが地獄のようにも思える。
もし体育の授業中に、また「あれ」が起きたら……想像しただけで冷や汗が出てくる。
教室に戻ると、朝よりも一層騒がしくなっていた。
生徒たちの間で「下着消失事件」の噂が広がっているようだ。
クラスの中央付近では、藤宮美咲を中心に女子たちが輪になって話し込んでいた。
藤宮は有栖川の数少ない友人で、明るく社交的な性格の持ち主だ。
ボブヘアに様々なアクセサリーをつけており、いつも笑顔が絶えない。
「まじで消えたの? 信じられなーい!」
「やっぱり幽霊なのかな? 怖すぎるんだけど〜」
彼女たちの会話が教室中に響く。
その横では、クラス委員長の鷹宮詩織が腕を組んで冷静に状況を見ていた。
長身でスラリとした体型に黒髪のロングヘア、知的な印象を与える眼鏡をかけた彼女は、クラスの秩序を守る「規律の番人」的存在だ。
「騒ぎすぎよ。何か合理的な説明があるはず」
鷹宮の冷静な声も、興奮した女子たちには届いていない様子だった。
俺は自分の席に戻り、机に突っ伏す。
頭の中で状況を整理しようとするが、どうにも理解できない。
この世界には超常現象なんて存在するのか?
そして、なぜそれが俺に降りかかってきたのか?
「もしかして……俺が興奮すると、周りの女子の下着が消える?」
その恐ろしい推測が頭の中で形になった瞬間、心臓が鉛のように重くなった。
これが本当なら、俺はもう普通の学園生活を送ることはできない。
誰にも相談できない。
もはや俺は、歩く「性犯罪者」なのだから……。
そんな絶望的な思いに沈みながら、ふと後ろの席を振り返ると、有栖川が再び俺を見つめていることに気がついた。
彼女の視線には、今度は明らかな疑念が浮かんでいた。
まるで「あなたも何か知っているでしょう?」と問いかけているかのようだった。
その視線から逃れるように前を向き直すと、次の授業の鐘が鳴り響いた。