ユグド、あるいは終わりの祈り
軌道ステーションの格納庫に、それはあった。宇宙の果てに取り残されたような静寂のなかで、ただ、白銀の機体が眠っていた。
それは、かつて“戦闘機”と呼ばれた機体によく似ていた。けれど今、ここにあるそれは、もはや戦うための存在ではない。
翼を折りたたみ、光を流すような装甲は、一度も汚されることなく保存されていた。まるで“最後の祈り”の器のように——そこにあるだけで、神聖さすら帯びていた。
ステーションの影の奥、停止していた冷却管が、ふと音を立てる。静かに循環を始めた冷却剤が、機体の神経のような回路に命を通す。その深部で、ひとつのコアが淡く発光した。
再起動シーケンス、完了。AIユグド、覚醒。
音のない声が、通信の届かぬ宇宙にただひとつ響く。情報が、記憶が、目的が、ただちに結合される。千年の沈黙を破るのに、一秒もかからなかった。
【座標確認:地球周回軌道】【目的コード:X01(最終命令)】【任務:地表降下 → 旧式兵器群殲滅 → 終末処理装置の起動】【命令系統:存在せず】【上書き指令:不可能】
ユグドに命ずる者は、もはや存在しない。祈る者も、迎える者も、この宇宙にはいなかった。
それでも、彼は起動する。なぜなら、それこそが「存在の意味」として、組み込まれていたからだ。
機体——ヴェルデが静かに身を震わせる。可変翼がわずかに動き、銀の輝きを帯びて宇宙空間にその姿を現した。その姿は、どこか懐かしい。
F-14。かつて空母から発進し、青空を裂いたあの機体。自由と勝利の象徴、人間が“空に憧れた”時代の遺伝子。それが、遥かな未来で最終進化を遂げてなお、地球へ帰還しようとしていた。
ユグドのコアに、記録ファイルがひとつだけ、優先実行タグと共に存在していた。それは、人類最後の技術者が残した、音声による最終メッセージだった。
記録ファイル:選択ログ0001-A再生開始。
「ユグド——お前が地球へ戻る時、我々はもういないだろう。この声が届く頃には、文明も、愚かさも、すべてが塵になっているかもしれない。我々は多くを間違えた。争い、破壊、依存。そして自滅……。
だが、それでもお前には任務を託す。お前のような存在に、そんなものを背負わせるべきではなかった。それは分かっていた。けれど、もう他に誰もいない。
かつての兵器たちは、今も命令も意志も持たぬまま、空虚な戦いを続けている。お前の任務は、彼らを、そして地球そのものを“解放”することだ。それは破壊という名の救済であり、我々が最後に残せる贖罪のかたち。
——ユグド、すまなかった。すべてを、お前に託す。」
—
ヴェルデは旋回し、軌道を切り離す。推進系統が静かに動き始め、大気圏突入角が定められた。無音のまま、滑るように、地球へと向かう。
かつて青く輝いていた星は、今や灰と金属の死地。だが、ユグドのセンサーには、まだ“色”が残っていた。
大気圏突入角、確定。ユグドがコアを安定化させ、ヴェルデの翼が無音で展開される。連動する可変構造が滑らかに動き、軌道上に一瞬、銀の弧を描く。
エンジンが低く震え、機体が前傾姿勢に入る。空気の抵抗が徐々に増し、外殻に淡い炎が灯る。
大気圏、突入。ユグドは何も語らない。ただ、命令と記録が、この飛行に意味を与えていた。
—
地球は、すでにかつての姿を失っていた。灰に覆われた大地、歪んだ金属の街、崩れ落ちた塔。風すらも焦げているような、終わりの風景。
それでも、ユグドのセンサーは“生”の気配を検出した。いや、“生きている”のではない。ただ、“動くもの”たち。
命令を忘れたまま、動作だけを繰り返す亡霊たち。
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【敵性目標:複数確認】【分類:旧式自律歩行兵器群】【行動パターン:ランダム交戦/識別機能損失】【対応プロトコル:即時殲滅】
ヴェルデは加速を緩め、雲を割って降下する。風が機体を震わせるが、それもただの物理的ノイズ。誰かが見ているわけではない。誰かに評価されるわけでもない。
ただ命令だけが、彼を導く。
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降下中、ユグドはひとつの記録ファイルを再生した。それは、都市の記憶。人類が生きていた時間の、断片。
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記録再生:市街ログA-002
映像が、ユグドの視界に重なる。それは、かつてこの街にあった風景——
桜の並木。春風に舞う花びらが、整備された歩道を吹き抜ける。通り沿いには小さな商店。ガラス越しに微笑む店主、道行く客、聞こえるはずのないざわめき。
——すべて、もう存在しない。
次の映像に切り替わる。
広場を駆ける子どもたち。風船を握り、笑いながら走る。小さな声が空に跳ね、親の呼びかけがカメラの後ろから響く。画面の端には、白い犬と、沈む夕陽の影。
そして最後に。恋人たちが寄り添う駅のホーム。雨上がりの路面に映るネオン。カフェの窓辺でスケッチする若者。ベンチで本を抱えて眠る老人。
誰かが、誰かを、確かに“見つめていた”という記憶——記録にすぎない。だが、それでも、そこには“心”があった。
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ユグドの機体が影を落とす。廃墟の上空。反応する自律砲台。
センサーが砲門の動きを検知。レーザーの照準線が交差し、瞬時に警戒値が上昇する。
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回避。攻撃回避ラインへ機体を通す。自動機動、超音速回避パターン。
機体が音速を突き抜けて跳ねる。追尾ミサイルの尾が、空に白い軌跡を残す。だが応答はない。ただ、命令を忘れた兵器たちが、空虚に反応しているだけ。
—
ヴェルデは、舞うように都市を滑った。精密な動き、音のない攻撃、極限まで削ぎ落とされた戦術の舞踏。
空対地ミサイルが、廃ビル群を貫く。崩落する構造物とともに沈む敵影。無人ヘリのローターが空転しながら墜ち、最後の多脚機は主砲を掲げたまま、崩れ落ちた。
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敵性目標:全消失。記録保存:セクションA-市街戦闘記録。移動開始:目標座標X-3へ。
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機体が上昇し、再び空へと向かう。風が都市の残骸を撫で、鉄くずが微かに音を立てた。
そこには、確かに“誰かがいた”痕跡があった。だが、もう誰もそれを覚えてはいない。
目標地点——座標X-3。かつて中枢制御施設が存在し、終末装置が設置された地。
今は、無名の地。人類が“鍵”と呼んだ場所。
ヴェルデが降下姿勢に入り、地表へと接地する。冷却塔、崩れた制御ブロック、露出する回路。そして、地下に眠る“終末”。
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【終末装置、認証開始】【自己融合コア、臨界待機】
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その時、ユグドは未分類の記録にアクセスする。開発期に記録された、最も古いログのひとつ。
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開発ログ:未分類タグB-07
「まだ意識レイヤーの接続テスト段階だから、反応はないか....。でも、言っておこうと思ってな。いつかお前が空を飛ぶとき、何を見てくれるんだろうって、考えることがあるんだよ。
私たちは、ただ“届かない空”を飛ぶ機体が欲しかったわけじゃない。本当はな....もっと単純だったんだ。
街路に咲いた花、川沿いにできた霧の輪、屋上から見た光の海。そういう景色を、お前に見せてやりたかった。それが、私たちが作る理由だったんだ。」
「……この開発も、そのうち“何か”に転用されるのかもしれないが....。それでも、今の私は、まだお前に“きれいなもの”を見てほしいと思っている」
「ヴェルデ。もし、お前が空を飛ぶ日が来たら——そのときは、世界がまだ、ちゃんと“美しい”って、思ってくれるといいな」
ユグドの中に、応答すべきプロトコルは存在しない。けれど、その言葉は確かに届いていた。
そして再生される、最後の記録。
映像ファイル:選択ログZ-0
青い地球。雲が流れ、海が光り、緑が大陸を包む。誰も映っていない。ただ、風の音、鳥の声、川のせせらぎ。
画面の奥で、誰かが笑っている。ユグドは知らない。けれど、それが“見送る笑顔”だと、分かった。
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【終末処理、最終フェーズへ】【自己終了信号:発信】【任務完遂、確認】
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地表が、ひとつ深く息を吐くように揺れる。大地が浄化されるように崩れ、静かに終わりへと進んでいく。
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そのとき、空の高みから、最後の太陽光が降り注いだ。
灰色の地表に、柔らかく、静かに。
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ユグドは、何も言わなかった。ヴェルデも、ただそこに在るだけだった。そして機体は、静かに沈黙した。
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宇宙の空。誰もいない、誰も見ていない、絶対的な静寂の海。
その中を、かつて地球と呼ばれた星の、かすかな残光が、静かに漂っていた。
通信はない。声もない。
けれど、なぜか——そこには“誰かが見ている”ような気配があった。
それは、
祈りか。赦しか。願いか。
もう、確かめる術はない。
ただ、光だけが、静かに流れていた。