神は彼女に弓を魅せた
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「おい、恒星…… 御坂さんのこと、椿に任せちゃっていいのか? 」
「わからん。別に僕がずっと一緒にいる必要もないだろうし、いいんじゃないの? 」
椿は、あれから彼女を離さなかった。
早速椿は彼女の手を引き、弓道場へと向かっていた。 そして現在、僕と匡輔も彼女たちを追いかける都合上、自主練という名目をつけて弓道場に向かっている。
今日は始業式ということもあり、ホームルームは自己紹介と簡単なオリエンテーションで終了し、解散となった。
田舎街に外国からの編入生が来るなんて滅多なことではないから、内心クラスメートの反応はどんなものか不安ではあったが、それは僕の杞憂に終わった。
彼女は帰国子女であることと、特技はルービックキューブだと自己紹介した。もちろん彼女が既に大卒であることは、クラスメートでは僕以外は知らないし、イギリスでの学校生活に関する質問は適当な嘘で誤魔化していた。
弓道場に入ると、僕たちは弓道衣に着替えた。
本当は長居をするつもりもなかったから、ジャージで練習してもいいのかもしれないけれど、もし先輩が来たら何か言われそうなので、そこはキチンとしておくに越したことはない。
着替えを終えて更衣室を出ると、彼女は床に正座して、道場にデカデカと掲示されている心得や作法の貼り紙を眺めていた。
彼女が何かを見つめるとき、僕は彼女に声をかけられなくなる。彼女の瞳に映るものを、何故か邪魔してはいけないような気がしてしまうのだ。
「麻愛、おまたせー 」
「ううん 」
椿は更衣室から出てくると、長い髪の毛を徐にまとめていた。椿は新二年生唯一の弓道経験者で、僕も匡輔も彼女に誘われ(というか半ば強制的に)部活を始めたといっても過言ではない。
「麻愛、これが弓。ちょっと持ってみて 」
椿は道場の壁に立て掛けてある練習用の弓を手に取ると、彼女に手渡した。いつの間にか、椿は彼女を名前で呼ぶまでに距離を縮めていて、僕は思わず感心してしまう。
「見た目より、かなり重いね 」
「そうだね。でもこのくらい重さがないと、的に矢が届かないんだよ 」
椿はそう言いながら、彼女から弓を受けとると、静かに床に置いた。そしてキュッっとこちらを振り向くと、何だか悪い顔をしてこちらを見てくる。
「ていうか、ここは一つお手本を見た方が、麻愛も弓道のイメージが付きやすいよね 」
「はっ? えっ? 」
しまったっッ……
僕は椿と目が合ってしまい、思わず変な声をあげてしまった。すぐさま僕は隣に助けを求めるが、匡輔は何故かこのタイミングで弓形の調整をしていた。
やられたっッ……
だけど、こればっかりは致し方ない。
やっぱり椿の扱いは、生まれたときからの付き合いである匡輔の方が何枚も上手なのだ。
「恒星、射法八説(射法の一連動作)見せてよ 」
「はあ? なんで僕がっッ 」
「だって恒星、今日まだ引いてないじゃん 」
「それはそうだけど 」
「それに、私は麻愛に説明したいし 」
「なっ 」
彼女の前で、弓を引く?
ただでさえ精神力が問われる競技なのに、彼女の前で的に当たるんだろうか。
雲行きは、怪しすぎる。
だけど残念なことに、断るという選択肢はない。この部にいる以上、弓道をしている間だけは、椿に逆らうことは暗黙の約束で許されないからだ。
「わかった。でも目線の先にはいないで 」
僕は溜め息混じりに返事をすると、少し身体を回して準備運動をした。
彼女はというと、椿の説明に熱心に耳を傾けている。
だいたい、何で椿は僕を指名するのだ?
命中率は匡輔の方がいいのに、何だかとても腑に落ちない。
僕は自分の弓を取ると、的に向かう。
気づいたときには、自分の手が少し震えていた。
「椿は恒星に対して、相変わらずスパルタだね 」
「じゃあ、匡輔がやる? 」
「いや、遠慮しとくよ。お手本はアイツの方が適任でしょ 」
「まあね。恒星は、所作が綺麗なんだよね 」
「ねえ、ツバキ。コーセーって、弓が上手なの? 」
「そうだね。麻愛も見て見れば、きっと理由がわかるよ 」
向こうの方で、小さく匡輔と椿の声、
そしてそれに頷く彼女の声が聞こえた。
精神を集中するのは苦手だ。
いつも雑念ばかりが頭を過る。
今だって、聞こえてはいけない声が容赦なくバンバン頭へと入り込んでくる。
何でこんなことになったのか、可能ならば誰か状況を説明して欲しい。
ぶっちゃけ匡輔と椿はどうでもいい。
彼女が後ろで僕を見ているかと思うと、緊張する。
僕は弓と矢を手に取ると、数回深呼吸をした。
的の向こうに広がる濃い新緑の木々たちは、微かに揺らめいている。
ここからは、一旦全てを忘れる。
彼女との再会も、いまのこの状況も。
まずは足踏み、そして胴造り。そしてゆっくりと弓を構える。
考えるな。無心だ。
ここからは筋力との勝負だ。
僕は決意を決めると、両手を上に伸ばした。
打ち起こしから、弓を均等に引き分ける。
そして僕は会を取った。
お腹の力を意識する。満ちるのを待つ。
呼吸が浅くなりそうだ。だけどここで自分に負けてはいけない。
ゆっくりと落ち着いて気を溜める。
弦が頬に当たり、己の生を感じる。
今、この瞬間…… 矢の先には的だけしかない。
気合いが発動する音がした。
今だ……
僕は胸廓広く開いて、矢を放った。
中った? のか?
僕は目を細めて、矢の所在を確認する。
矢は中心ではないが、的に当たっていた。
取り敢えずの使命は 果たせたハズだ。
僕は背後のギャラリーを振り向いた。
椿と匡輔は、静かに的を見ていた。
そして驚いたことに彼女とは……
目が合った。
一瞬、静寂を感じた。
たぶん時間にするとほんの二、三秒……
僕は彼女の紺碧色の瞳を独占した。
彼女がスッと息を吸い口を開くのが、スローモーションで見える。
そして魔法が解かれた瞬間、彼女は頬を紅潮させてこう声をあげた。
「コーセー、凄かったッ! 見せてくれてありがとう! とってもカッコ良かった! 」
「あっ、その…… 」
僕は言葉に詰まった。
それよりも何よりも……
僕は彼女の笑顔に、すこぶる動揺していた。