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マーガレット・アン・バルクレーの涙  作者: 高城 蓉理
ここまでの登場人物紹介
73/79

神は彼女の秘密を公にした③

■■■■■■



 僕は日頃の運動不足を恥じていた。

 興奮状態で全力で走ろうものなら、呼吸が乱れて酸素を欲してしまう。もっともっと早く走りたいと思っているのに、脳ミソと体の反応が一致しないのが、もどかしくして仕方がない。


 でも今は、椿の方が遥かに苦しい思いをしている。

 だから、こんなことは造作もない。

 今は、細かい事情を考えては駄目なのだ。


 僕は廊下に転がるゴミ袋をすり抜け、一目散に教室を目指す。土足で校内を走り回っているのは、後で反省文を提出するから、多目に見て欲しい。階段を駆け上がった辺りで、僕の肺は痛みを覚えるくらいに限界を迎えていたけど、そんなことはどうでも良かった。



「麻愛っっッ!!!!! 」


 僕は教室のドアを開くなり、彼女の名前を全力で叫んでいた。

 気まずいとか、喧嘩中とか、そんなことは()うに頭からは抜け落ちていて、とにかく彼女の姿を全力で探していた。


「コーセー? 」


「ハァハァ…… 麻愛…… 」


「そんなに息を切らして、どうかしたの? 」


 彼女は教室の隅の方で、箒を片手に床掃除をしていたらしい。僕は息が整うのを待つ間もなく、彼女のいる場所に一目散に駆け寄ると、彼女の耳元に顔を近づける。彼女は僕の意味不明な振る舞いに、さすがにギョッとしていた。だけど次に僕が耳打ちした単語を聞くなり、その表情が険しいものになったのは、気のせいではないと思う。


「椿が倒れた 」


「えっ……? 」


「声を掛けても、返事がないんだ 」


「わかった。ツバキは、今はどこに? 」


「弓道場にいる。匡輔と一緒に…… 」


「わかった。コーセー、念のためにAED(自動体外式除細動器)を持ってきて。体育館の側のベンディングマシーン(自動販売機)の中に入ってるのが、一番近いと思う。あと村松先生も呼んで欲しい 」


「わかった 」


 彼女は僕に短く指示を出すと、自分の鞄を手に取り教室を走り去っていた。



 僕と彼女はこの時、無言のまま覚悟をしていた。

 彼女の平穏な高校生活は、今日をもって終焉を迎えるのだ。



◆◆◆




 これほど迄に、自分が空を飛べたらいいのにと思ったことはない。


 僕がAEDを持って弓道場に駆け付けると、彼女は既に椿に心臓マッサージをしていた。そしてその傍らには、椿の手を握る匡輔の姿もある。


「恒星、椿が……」


「匡輔、お前がそんな顔するなよ 」


「でも…… 」


 匡輔は真っ青な顔をして、ただただ椿に声を掛けている。それなのに椿はその声に反応を見せることなく、静かに目を閉じて規則正しく床に打ち付けられていた。


「ツバキー 麻愛だよっ。わかるかな? 」


「…… 」


 彼女はそう言いながら、一度心臓マッサージの動きを止めると、椿の胸元に耳を当てる。既に彼女の額からは滝のような汗が出ていて、大きく肩で息をしていた。そして再び顔をあげると、再び心臓マッサージを再開する。やはり椿は極めて危険な状態に陥っていた。 


「麻愛、AEDは持ってきた。村松先生は保健室に寄ってから来るって 」


「わかった。コーセー、あと十回したら心マ代わって貰える? 」


「ああ、わかった 」


「私とコーセーと変わったタイミングで30回圧迫したら、私がツバキに息を吹きかける。リズムとしては一分間に90回のリズムね。次、十回したら変わるからね。はい、7、8、9、10 」


「了解 」


 僕は彼女とタイミングよくポジションを入れ替わると、今までと同じリズムを意識して、無心で椿の胸元を圧迫し始めた。ドラマとかでもよく見るけど、心臓マッサージは大変な体力勝負で、交代交代でするのがセオリーらしい。僕は防災訓練でアッパ君相手に何度か練習したことはあるけど、人にするなんて経験は初めてだった。


 彼女に言われた30回を数えて手を離すと、既に彼女はAEDの中身を開いていた。そしてその中からビニール手袋を取り出すと、椿の口元に容赦なく手を突っ込んでいる。

 どうやら吐瀉物はないらしい。だけど、椿の鼻や口からは呼吸が感じられないようだった。 


「人工呼吸して、それでも心拍が戻らなかったら、除細動機を使う。コーセーは、私が息を吹き掛んだら心マを再開して 」


「わかった 」


 もしも椿がこのまま目を開けなかったらどうしようかと、悪い予感が頭を過る。

 駄目だ、今はそういうネガティブな感情を持ち合わせてはいけないっっ。


 僕は彼女の指示の通り、再び立て膝を付くと、次の圧迫の準備にかかる。すると今度は匡輔が椿の手をほどいて、こう彼女に志願した。


「麻愛ちゃん。あのさ、椿の人工呼吸は俺がするよ 」


「匡ちゃん? 」


「俺、こういう心得とか全くないんだけど、コツとかある? 」


「…… 」


 彼女は一瞬だけ匡輔の申し出に、驚いたような素振りをみせた。そして椿に向けて一瞬だけ高校生の表情を見せると、すぐさま匡輔にアドバイスをする。


「こうやって顔を持ち上げて軌道を確保して、しっかり吹き込めば大丈夫 」


「わかった 」


「麻愛、匡輔、もうすぐ25、26…… 」


「はい、匡ちゃん、いまっッ 」


 それは男の僕が見ても、非常に潔かった。

 匡輔は彼女の指示を受けたタイミングで、躊躇なく椿の唇に己の唇を宛がうと、思いっきり息を吹き込んでみせた。匡輔の口付けの間、椿の胸は大きく膨らむと、再びゆっくりと萎んでいく。そして彼女が自発呼吸の有無を確認すると、再び僕に心臓マッサージの指示を飛ばす。

彼女は既にAEDの起動作業を始めていた。


「ツバキー ツバキー 」「椿、椿! 」


 僕には そんな余裕は微塵もなかったけど、彼女と匡輔は 幾度となく椿の名前を呼んでいた。


 アドレナリンが最高潮な自分と、それでもどこか冷静な自分と、異質な感情が交錯する。

 心臓のバクバクが止まらない。

 どんどんと腕に力が入らなくなっている。

 僕らの手に、人の生死がかかっている。

 全身の毛穴全てから汗が吹き出していて、体は燃えるように暑くて仕方ない。


 誰か、助けに来て欲しい……

 僕の脳裏に、そんなことが浮かんだときだった。


 遠くの方で何やら足音が迫ってくるような感覚がした。

 この音には重さがある。

 それは学生ではない、大人の軽快さのない走り方だった。


「あなたたち! いったい何をしているの? 」


「えっ? 」


 緊迫した弓道場に響いたのは、養護教諭の悲鳴のような叱責だった。

 いやいや、見ればわかるだろ。

 今はそれよりも人命救護が優先だろ、と言いたいところだけど、生憎僕の体力は言葉を発することは出来ないくらいに削がれている。

 僕の視界は一面、椿のワイシャツだ。

 よそ見などをする余裕は、一切ない。

 それは彼女も匡輔も同様で、誰ひとりその問いを説明する隙はない。

 だけど直ぐ様、聞き慣れた村松先生(義兄候補)の声が、養護教諭の混乱をあっさりと宥めてくれたのだ。僕はその唯一の味方の声が、心強くて仕方がなかった。 


山本先生(養護教諭)、今は説明している時間はありません。御坂は医者です。責任は私がとりますから、彼女の指示を仰ぎましょう。山本先生は取り敢えず救急車の手配をお願いします 」


「はあ? 医者って? 」


 養護教諭は納得いかないようだったけど、村松先生の要請に応えるように、救急へと連絡を取り始めた。弓道場の外には騒ぎを聞き付けたのか、野次馬たちのヒソヒソ声がこだましている。騒ぎはどんどん加速の一途を辿っていた。


「御坂、大丈夫か? ()()()()()()()()()()()()|」


「村松先生…… 」


 村松先生は彼女を、一人の医者として扱っていた。

 先生は数少ない、彼女の秘密を知る人物だ。

 こんな状況であれば、端からは子供が人命救護にあたっているようにしか見えないのは、彼女が一番理解している。だから彼女は、村松先生を呼んで欲しいと懇願したのだ。


「これからAED使うので、ツバキの上半身は服を脱がせます。なので人払いと、毛布のようなもので周囲を囲ってもらえますか? それが終わったら、コーセーと心臓マッサージを交代をしてください。それと私の鞄のなかに、()()()()のコピーが入ってます。申し訳ないのですが、私が言っても説得力がないので、後で先生から皆さんに説明をして頂いても構いませんか? 」


「構わないんだな? 」


「はい、私は医者なので 」


「わかった 」




 それからは、一瞬の出来事だった。

 彼女は慣れた手付きでAEDを起動すると、椿の胸元へとシールのようなものを張り付けていく。そして電気ショックがかけられると、椿の心臓は再び鼓動を鳴らし始めたのだ。








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