僕は彼女の真意が分からないでいた
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あの温もりが、もし唇に触れていたらならば……
僕はあの場で卒倒していたかもしれない。
頬には、まだあのときの温もりが生々しく残っていて、思い出す度に僕の鼓動は今にもはち切れてしまいそうだ。
僕の人生史上、瞬間最大衝撃の振り幅を記録した修学旅行は、盛大に幕を下ろした。
そして僕らはその余韻を味わう余韻もなく、定期考査の渦中にいる。テストが終われば、みんなが楽しみな体育祭・文化祭とイベントが続くのだけど、その前の【下呂・中間考査の乱】の方が僕にとっては重要な問題だ。
その日、僕は一人で自宅でゴロゴロしていた。といっても、一応教科書は眺めているから、ギリギリ勉強していると言い張っても許されるとは思う。
修学旅行から帰ってきて、僕は肉体的にも精神的にも疲労困憊だというのに、彼女はどうやらそうではないらしい。今日は土曜日でやっと休みになったいうのに、彼女は父さんと一緒に在宅医療の患者さんの元に行ってしまった。
ヒヤリと肌に纏わりつく風が、気持ちよく家の中に吹き込んでくる、秋を感じる昼下がりだった。季節の移り変わりがこれ程までに鬱陶しく感じることは、今までにはなかったと思う。僕はパラパラと捲りそうになる教科書を指の腹で押さえ込むと、見慣れた天井を仰いでいた。
次の秋を迎える頃も、僕は今までと同じように、この場所で何一つ変わらない、いつもと同じ日常生活を送っているはずだ。
そしてそこには、僕の頭を悩ませるイレギュラーは存在しない。まだまだ彼女と過ごす時間には一年弱くらいの猶予はあるはずなのに、色々な事があり過ぎて、冷静を装おうことが難しくなっている。
本能を許したら、確実に破綻する。
彼女の好意のレベルも、如何ほどなのかは判りかねるけど、ワンチャンくらいはあるかもしれない。でも個人的な感情が暴走するようなことがあれば、僕と彼女の関係性だけでなくて、周りの人たちにもバランスも崩れ去ることになる。
一瞬の綻びの受け止め方がわからない。
現状維持が最適解であることは、重々に承知している。
それでも頬を掠めた微かな甘さが、夕日の眩しさと重なって定期的に僕の脳裏を刺激する。
無償の愛を貫くのが、最初から難しいことなのは承知していた。でも、それは僕が抱いた感情が一方通行であることに限った話だった。
時間はまだある。真意がわからない以上は、冷静であるべきだ。
このときの僕は悠長にもそんなことを考えていた。未来のことなど、誰にも見透すことは出来ないのに……
「恒星っ 」
「…… 」
「ちょっ、恒星っッ ! 」
「えっ? ……うわっッ! なっ、何で佳央理がうちの中にいるのっッ! しかも上から覗くなよ。吃驚するからっ 」
「何でって言われても、家賃を払いに来ただけだけど? 」
「じゃあ、薬局の方に行けばいいじゃないか。母さんは店頭にいるんだから 」
「そう思って、店に顔は出したけど…… おばさんは今は忙しいみたいで、恒星に渡しといてって 」
「そう…… 」
夢現の中、いきなり声を掛けられ、しかも目を開いた瞬間にここに居るはずのない人間がいたら、誰だって叫びたくもなるだろう。
僕は佳央理から現金が入った茶封筒を受けとると、金庫の中に閉まっておく。親戚なのに家賃を取るんかいと血も涙もない対応に思えるけど、税金とか色々な都合があって、無料にするわけにもいかないらしい(減額はしている)
「恒星。そこにある雷おこし、一個貰ってもいい? 」
「どうぞ。一個と言わずに、沢山食べなよ 」
「いいよ。一気に幾つも食べたら太るし。それにしても、恒星は本当に雷おこしとか人形焼きとか好きだよね 」
「別に。そういう訳でもないけど。つーか、それを買ってきたのは麻愛だし 」
「そうなの? じゃあ、恒星のお土産は? 」
「冷蔵庫の中に、フルーツゼリーが入ってる 」
「まあ…… 恒星にしちゃ、高級な物を買ったんだね 」
「……母さんから頼まれたんだよ。沢山買ってきたから、好きなの持っていっていいよ 」
「へー それなら、ご遠慮なく 」
佳央理はそういいつつ冷蔵庫を開けると、フルーツゼリーを物色し始めた。
「そう言えばさ、久し振りの東京はどうだった? 」
「別に…… 普通だったよ。回った場所も、佳央理や姉貴のときと同じような感じだと思うし。まあ、少しだけ懐かしい感じはしたけど 」
僕は当たり障りのない返事で、佳央理の質問を誤魔化していた。久し振りの東京の土地には何の感慨もなかったけど、そこで起きた出来事の感想については永遠と語れそうなくらいの衝撃があった。
「でさ、麻愛ちゃんとは進展はあったの? 」
「ブッっっ! 」
僕は佳央理の良くわからない発言で、ほぼ反射の域で思いっきり吹き出していた。
有り得ない……
アンタ、僕に対してただならぬ空気を醸し出してるじゃないか、と言ってやりたかったけど、寸前のところでそれを飲み込む。
だから……
女心というのは良くわからないのだ。
「特に、何もないけど? 」
「ふーん 」
こっちが必死に冷静を装った返答をしているというのに、ふーん、って一体なんだよ。そんな微妙な反応をするくらいなら、僕にそういうセンシティブな内容を話さないでくれ、と思ったけど、そこはグイっと口をつぐんだ。
「なんで、そう思ったの? 」
「えっ? だって最近、麻愛ちゃんの機嫌が良さそうだったから 」
「へっ? 」
「アルバートが帰ってから、ずーっとニコニコしてるじゃん。だから良いことでもあったのかなって、思ったんだよね 」
「そう……か? 」
僕は突っ込みたくなるような言葉の数々を寸前のところで押し込めると、逃げるように雷おこしを頬ばった。
確かに……
彼女には、不可解な行動と言動は沢山あるように思う。でも、僕には彼女は至っていつも通りに見えていた。
僕が人の機微に疎い部分は、否定はしない。
でも彼女は喜怒哀楽の概念が曖昧で、僕にはよく判りかねる部分がある。
彼女は、感情の起伏が穏やかだ。
それが彼女の元々の性格なのか、医者というものを志して、意識されて出来上がったものなのかは、未だに良くはわからない。
喜んだり、楽しんでいる表情は知っている。時折見せるちょっとだけ無邪気で、少しだけ強引なそのまま表情に、僕は滅法弱いのだ。もちろん、泣いている姿を見たのも一度ではない。自分の不甲斐なさに悔しくなるけど、こればっかりはまだまだ僕にはどうしようもないことだから、今は見守ることしか出来ないでいる。
だけど……
彼女が怒っているような姿を、僕はまだ一回も見たことがない。
この世界に怒らない人間などいるのだろうか、と思ってしまうけど、現に彼女はこの半年の間、その感情を表面に出したことは一度もない。
彼女の本心が、良くわからない……
僕はこの限定的な感情への向き合い方が、未だによくわからないでいた。




