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マーガレット・アン・バルクレーの涙  作者: 高城 蓉理
ここまでの登場人物紹介
67/79

神は僕の記憶を消し去っていた

■■■




 最初に、下呂に引っ越すよと言われたときは「ああ、そうなんだ 」くらいにしか思わなかった。


 僕はあの頃はまだ小学生だったし、都会に未練を残すほど、物事を知らなかったのが功を奏した。友達と離れるのは寂しかったけど、当時は人間関係を一から構築することが難しいと考えたこともなかったし、あまり深く考えることもなく、僕は下呂の町に移住した。下呂には夏休みとお正月に帰省していたし、何となくではあったけど、ここで暮らしていくイメージは出来ていたのだ。


 この街の時間の進み方は、都会と比べると実に穏やかだ。僕は地元のメンバーの中に、あっさりと溶け込むことができた。下呂の街は温泉街、一期一会の出会いを大切にする場所だから、新参者にも寛容で過ごしやすいところだと思う。

 放課後になると、匡輔を筆頭に同級生と毎日のように飛騨川の河川敷を走り回って遊ぶようになっていた。休日は父さんが友だちも交えて川釣りやバーベキューに連れて行ってくれたりして、少しずつ新しい楽しみが増えていた。

 いま思えば、周りの配慮には感謝してもしきれない。数ヵ月もしないうちに、僕はすっかりにこの街に溶け込んでいた。子供ながらも雄大な山々と飛騨川の流れに解放感を覚えながら、新生活を謳歌していた。それは僕が十歳のときの話で、ちょうど彼女が大学に入学した頃だった。



 それでもたまに、都会が恋しくなることがあった。

 月に何度も遊びに行っていた、母方の祖母ちゃんと祖父ちゃんには年に数回しか会わなくなった。あの頃は、人の繋がりが途切れる悲しみは良くわかってはいなかった。ただ単に、距離が遠くなったことが恋しかったのだ。


 他にもある。

 僕は文京区の閑静な住宅街で、あらゆる公共施設に親しみながら過ごしていた。生まれならに自分の庭のように慣れ親しんでいた、動物園や博物館にも気軽には遊びに行けなくなったのは、残念だった。それらが如何に恵まれたことだったのか、僕は自分の手から届かなくなってから、初めてその価値に気がついたのだ。


 気が付いてからでは、手遅れなことがある。

 それが普遍性を持つものなら、遠くにあっても繋ぎ止められる。でも脆弱な関係性であれば、そうはいかない。僕の強みは、それを知っていることにあると思う。


 出来ることなら、大切なものは手放したくない。でも僕は親同士の繋がりとかではなくて、確固たる個人的な結び付きを手にしたいのだ。



 いつか僕は、彼女に追い付いてみせる。


 世間知らずな青年の戯言には、決してしない。

 それが僕が恵倫子さんと指を切った、最初で最後の約束だった。



◆◆◆




 修学旅行は、一般的にはワクワクするものだ。

 だけど、今回の僕の修学旅行はドキドキの連続だというのがぴったりだと思う。


 ちょっとお茶目でインテリジェンスな彼女の一面に触れたり、切なくて嬉しい表情を目の当たりにしたり。一緒に暮らしている筈なのに、未だに全く慣れないのだから、僕の神経はどうかしているかもしれない。

 それにだ。いつの間にか、僕と先生とは秘密を盾にサシでやり合う距離感になっているし、匡輔の本音にも一歩だけ近づいた気がしていた。



 僕らは二日目の丸一日を、千葉の某テーマパークで過ごした。

 僕らはいつもの流れで自然と四人で回ることになったけど、女子二人がまさかの絶叫好きで、リピート乗車のトルネードに、僕と匡輔は閉口しっぱなしだった。匡輔と椿はこのテーマパークには初めて来たらしいけど、朝から晩の花火まで大満喫な一日となった。


 まあ、強いて言えばピンチはゼロではなかった。

 彼女がテーマパークで遊んだのは、カリフォルニアの大学に聴講と発表に行って以来と、大失言を噛ましたのだ。僕は途中打ち消しに躍起になったけど、匡輔も椿もカリフォルニアだけが耳に残ったらしく、何とかその場は取り繕えた。でもまあ、その辺りは結構日常茶飯事だから、処理にはもう慣れたといっても言い過ぎではないかもしれない。


 僕としてはテーマパークは大満足、腹八分目くらいの充実感ではあった。けれども、僕らの修学旅行はまだまだ終わらない。三日目は班別自由行動で、公序良俗に反しない限り、都内の好きなところを回っていい。僕らにとっては、こちらがメインイベントみたいなものだった。 



◆◆◆




「同じ高層ビルなのに、場所が違うと、見える景色も違うんだな 」


「ちょっ、匡輔! そんなにグイグイと窓に近付かないでよっ 」


「何だ、椿? まだそんなところで、怖気付いてるのかよ? 昨日のジェットコースターは、全然平気だったじゃん? 」


「ジェットコースターとビルじゃ、全然違うのっ。ジェットコースターは一瞬だけど、高いビルからの眺めは雲の上にいるみたいだし、地上が遠すぎて目眩がしそう 」


「ったく、じゃあ一緒に行ってやるから、ちょっと来い 」


「なっ、ちょっ、何で腕を引っ張るの? 」


「何でって。一緒に行けば怖くないだろ? あっちに富士山が見えてるんだ。拝んでご利益を貰わないと。遠くを見てればジオラマみたいなもんだから、大丈夫だよっ 」


「ちょっ、匡輔!? 」





「……何か、匡ちゃんとツバキ、劇団みたいな感じだね 」


「ああ。あれは一般的には、茶番っていうやつだと思う 」


 上京してからの間、有難いことに 天候には連日恵まれている。九月であれば台風が来ることも珍しくはないのに、お天気の神様は僕らに味方をしたらしい。都庁の最上階の展望台には初めてきたけど、遠くの方まで霞なく拝める景色は、清々しい気持ちにさせてくれる。


 僕たちはの自由行動は、朝イチのお台場散策から始まった。テレビでよく見る湾岸エリアは、匡輔と椿には新鮮に映ったらしく、ブラブラとその人工的な海岸線を見て回っていた。


 僕らの街には川はあるけど、海はない。

 水の流れ自体には飢えてはいないけど、潮風と共に香る海の匂いとか、一定のリズムで響く波の音には、一種の憧れみたいな感情があるのだ。


 そして僕らはお台場という近未来都市を後にすると、今度は23区を横断して新宿へと移動をしてきた。

 新宿に来た目的は、副都心の高層ビルの外資系ホテルの見学だった。といっても、僕と彼女はそこに一緒に行くわけではない。

 だけど、いきなり都会ほぼ初体験の匡輔と椿を二人だけにして、お台場から新宿まで自力で移動しろと言うのは、僕としても不安しかなかったので、片道だけは追従することにしたのだ。


 見晴らしの良かった展望台から下界へと降り立つと、再びジオラマの世界に迷い込んだ気分になる。副都心の高層ビルは、都会育ちの僕であっても目を見張るものがある。天に向かって人間の摂理に反する様は、まるでジャックと豆の木の世界のようだ。


「ちなみに、あの辺りが椿たちが行きたがってる、外資系のホテル。南口まで歩くと、鉄道系列のホテルもあるよ 」


「そっか、サンキュー。じゃあ、そっちの方を回ってから、有楽町まで行こうかな 」


「ああ。そうしたら新宿でオレンジの電車に乗ったら、東京駅まで一本だから 」


「ああ、中央線だろ? めちゃくちゃ不安しかないけど、何とか頑張るよ 」


 匡輔は折り目だらけのガイドブックを見せながら、僕にガッツポーズをすると、心配するなと合図を送る。現代社会ではアプリがあれば、真の意味で迷子になどなるはずはないのに、それでも心配は拭えないのだから、僕の性格はそれなりにはお節介と言えるかもしれない。


「ところで、恒星に麻愛ちゃん 」


「何だ? 」


「二人は、この後どこに行くんだ? 」


「私たち? 私たちは、これから上野に行くの 」


「上野? 」


「ああ。麻愛のリクエストで、動物園に パンダを見に行くんだ 」


「へー パンダか…… 」


 本当は……

 僕らの両親の母校のT大学に行くのが主な目的ではあるのだけど、さすがにそれをストレートに匡輔たちに言うとドン引きされそうなので、ここは学校の近所の上野動物園の名前を出してオブラートに包む手筈になっていた。

 うちの両親たちの出身大学を匡輔たちは知らないし、言う必要もないことだ。それに蛙の子は蛙的な色眼鏡で見られて苦しい思いをするのは、何よりも僕自身だ。


「じゃあ、待ち合わせは帝国ホテルの玄関前に十七時な。匡輔、ヤバかったら電話しろよ 」


「あはは、そうだな。マジでやばそうだったら、そうさせてもらうよ 」


「じゃあね、ツバキ! また後でね 」


「うん。麻愛もパンダを楽しんでね 」



 僕らはそう言って別れると、各々の目的地へと先を急いだ。





 匡輔と椿は、大都会のおもてなしを体感し、これからの未来を展望する旅に出る。


 そして僕と彼女は……

 自分たちの生存権を賭けた、ルーツを探る航海へと向かうのだ。




◆◆◆



 新宿で匡輔たちと別れてから、僕らは大江戸線に乗って本郷三丁目駅へと移動していた。

 大江戸線は、比較的新しく造られた地下鉄だから、かなり深く潜ったところに線路がある。長いエスカレーターを何回も乗り継いでも、なかなかプラットホームに辿り着かないものだから、彼女は面白く感じたらしく、途中からクスクスと笑っていた。


 僕らの両親の出身校は、とにかくキャンパス広いことで有名だ。

 全国各地に研究施設が点在し、僕らが今回向かっているメインキャンパスは、大体東京ドーム十一個分の面積を誇る。今回は新宿からのアクセスを考慮して本郷三丁目から歩くことにしたけど、最寄りの駅は三ヶ所くらいはある。もはやこの広さを形容するには、一つの街といっても過言ではない。


 地下鉄から解放されて外の空気を吸うと、懐かしい気持ちになる。都会特有の排気ガスと湿気が混じる匂いの中に、夏の緑の清々しさが交錯している。僕は地の利というやつを最大限に生かして、最短ルートで彼女を誘導していた。頭上まで生い茂る桜並木のお陰で、いくらか暑さはマシな気がする。


 この辺りには下呂に引っ越してからは初めてやってきた。六、七年振りに訪れたけど、あまり風景には変化がないように思える。 

 僕らは会話も控えめに赤門の横を通り過ぎると、茶色の壁が途切れたところを左に曲がる。この一画が医学部や薬学部、附属病院が立ち並ぶ、いわゆる僕らの親たちにとって馴染みの深いスポットだった。


「あっちが薬学部のキャンパスで、こっちを真っ直ぐ行ったところが、うちの親が働いてた付属病院の入り口 」


「うん。何だか綺麗な建物だね 」


「確かに。他の校舎は年代物だよね 」


「私の母校(O大学)は、古い建物が多かったから、綺麗な校舎を見ると羨ましいなって思っちゃう 」


「そっか。まあ、うちの高校も大概だしね 」


 彼女はキョロキョロと落ちつかない感じで、薬学部がある大きな建物を見上げていた。僕らの両親が学生だった頃からそうなのかはわからないけど、薬学部はこのキャンパスの中では珍しく、近代的な建物になっている。

 部外者が建物の中には入るのは迷惑なので、それはしないけど、薬学部や付属病院は道路から十分眺めることができる。このあとは三四郎池とか有名なスポットを案内した方がいいのかなと思っていたけど、予想以上に彼女のリアクションはドライな感じがした。


「中に入らなくてもいいの? 」


「うん。外から眺められたら、十分だから 」


 まあ、彼女は半年前まで現役の大学生だったのだから、大学という場所自体にはさほど興味はないのかもしれない。それでも彼女は感慨深そうな視線を建物に送り込むと、その辺りをゆっくりと観察する。

 お昼を過ぎた頃合いだからか、人の流れは疎らだった。彼女は無意識なのか、男女で歩いているカップルを見付けると、自然と二人を目で追っていた。あの二人を自分の両親の青春時代に重ねているのかと思うと、ぼくは色々な意味で居た堪れない感情になった。


「ママは…… 」


「えっ? 」


「ママはパパのこと、とっても好きだったんだって 」


「……そうなんだ 」


「パパを落とすためには、手段は選ばなかったって言ってた。だから既成事実を作ってね、私でパパを繋ぎ止めたんだって。だから藤子お祖母ちゃんが言ってたのは、合ってると思う 」


「…… 」


 急な彼女の言葉に、僕の心臓は一気に高鳴りを見せていた。


 もしかして、彼女は自分が生まれた事情を知っているのか? 

 いや、確認するような真似は避ける他ない。

 僕はあくまで部外者だし、あれは不可抗力だっただけだ。それに彼女が全てを知る必要があるのかと問われたら、今の僕には判断がつかない。


「だから、ママたちの思い出の場所に来ることが出来てとっても嬉しかった。コーセーにとっては、あんまり興味はないのかもしれない場所かもしれないけど、連れてきてくれて、ありがとう 」


「あっ、うん。どういたしまして。僕も久し振りに自分が住んでた辺りを歩いたから、懐かしい感じがして楽しかったよ 」


「そっか。それなら、良かった。じゃあ…… 」


 彼女はそう言うと、唐突に僕の鞄を引っ張ってUターンするような素振りをみせる。

 僕はその彼女の自由奔放で、先の読めない動きに、少しだけ声を上げそうになっていた。


「ちょっ、麻愛? 急に、どうした? 」


「今は三時を過ぎたところだよね。早くしないと、上野動物園に間に合わなくなっちゃう 」


「えっ? 動物園? あれは…… 」


 匡輔たちに、僕らの行き先を誤魔化すために言っただけのつもりだったんだけど…… と言いかけて、僕はそんな言葉を掛けられる雰囲気でないことを悟っていた。彼女の目は至って真剣で、次に口を開いたときには、


「私は、もう一回 パンダを見たいんだ 」


と、僕に提案をしていたのだ。




◆◆◆




 歩けなくはないけど、T大から動物園まではまずまずの距離がある。桜の季節は不忍池の脇に一面の薄紅の花が咲き誇り、秋には見事な紅葉で目を楽しませてくれる。

 帝国ホテルに十七時の約束を守るためには、十六時半には動物園を出発しなくてはならない。僕らは若干の小走りで、ここから最短ルートの池之端門を目指していた。彼女がここに来て動物園に行きたいと言い出したのは、予想外のことだった。


「こっちの門から中に入ったら、パンダ舎まではモノレールに乗れば近いのかな? 」


「えっ? 麻愛は、ここに来たことあるの? 」


「あっ、うん。小さい頃に一回だけ…… 」


「そうなんだ。よく覚えてたね。でも確か、モノレールは今は運行してないんだよ 」


「えっ? そうなの、じゃあ急がなきゃ 」


「ちょっ、そんなに慌てなくても、まだまだ閉園時間は来ないし。それに大人の足出歩けば、東園まではすぐだから 」


「そうなんだ。でもね、せっかく来たら他の動物も見たいんだ 」


「そっか 」


 それにしても……

 彼女はいったい、いつ誰と上野動物園に来たのだろう? 僕は小首を傾げてはみたものの、彼女や恵倫子さんの交遊関係が荒巻家だけとも限らないだろうし、何だか釈然としない気がする。


 もしかして、僕たちと一緒に来たのだろうか?

彼女と小さい頃に一度だけ出会ったときの記憶は、断片的にしか覚えてはいない。

 どんなことを話したのか、どんなことをしたのかは殆ど思い出せない。


 だけど…… 

 あの日を境に、僕は彼女のことが気になる存在になっている。しかもそれが十年も継続しているのだから、僕が勝手に自分の都合のいいように記憶を美化している可能性も否めないけど、強烈な経験であったことには違いはない。


 僕がもし忘れているとすれば、彼女には悪いことをしてしまったことになる。


 気になる…… でも……

 僕は頭の中で、よくわからない好奇心と葛藤しながら、不忍池を横目に彼女に付いていくしかなかったのだ。



◆◆◆




 上野動物園に来るのは、僕自身も約六年振りのことだった。その間にパンダ舎では新しく赤ちゃんが生まれて、お祝いムード一色だったらしいけど、残念ながら僕はそのときには下呂に引っ越していたから、その情報は人伝に聞いただけだ。


 僕たちは、とにかく東園の入り口に急がなきゃと躍起になっていた。

 僕らに与えられたのは、実質的に一時間弱しかない。限られた猶予で効率的に園内を回るために、僕らは門を潜って早々、巨大な案内図の前で選抜会議を行うことにした。


「んっ? コーセー…… 」


「どうかした? 」


「……ジャイアントパンダ舎は、西園って書いてあるよ? 」


「え゛っ? 」


「赤ちゃんパンダは東園にいるけど、お父さんパンダとお母さんパンダは、西園に新しくできたパンダ舎に引っ越ししたんだって 」


「……そうなの? 」


 昔の記憶というのは恐ろしいもので、パンダは東園にいると思いこんでいたし、あちら側にはトラやゴリラ、ゾウといった派手な動物が沢山いるから、そちらに時間を割こうと思っていた。だけど西園にパンダがいるなら、作戦は変更しなくてはならない。

 レイアウトが変わったとなれば、僕にとってもここは初めて訪れる場所みたいなものだ。折角、お台場からここまで地図も見ずに都会に慣れた感じできていたのに、最後の最後で僕はガイドブックの世話になっていた。





「麻愛は、動物は好きなの? 」


「えっ? そうだね…… うん、好きだよ。ワンちゃんとか猫は飼ったことはないけど、大人になったら飼いたいなとはずっと思ってる。コーセーはどうなの? 」


「僕? 僕も、どちらかというと動物は好きだよ。昔は文鳥を飼ってたし 」


「そうなの? 鳥が好きなのは意外かも!?


「そうかな。東京に住んでた頃は、社宅だったから犬猫が飼えなかったんだ。今は飼いたいと思えば飼えるかもしれないけど、学生寮はペット禁止だから、大家の息子って肩書きではちょっと厳しいかな 」


「そうなんだ…… 」


 他愛もない会話をしながら歩いていると、僕らはあっという間に新しくなったジャイアントパンダ舎へと到着していた。

 時間もないし、僕としては期間限定の東園の赤ちゃんパンダを勧めてみたけど、彼女がどうしても大人パンダに会うのを優先したいのだと主張した。何でも、リベンジマッチとやらだそうで、日本に来ることがあったら起きて活動している彼らの姿を、この目に焼き付けると心に決めていたらしい。



「おっ、今日は二人とも起きてるね…… うわっ、しかも歩いてるよ! お尻をフリフリしてて、可愛いね 」


「ああ、珍しいよね。あっ、今度はリンゴを食べ始めたかな? 」


「あっ、本当だ! 私が小さい頃に会ったパンダさんはどっちだったんだろ? 」


「そうだね…… どっちだったんだか 」


 パンダに対して二人と言う表現が合っているのかは分からないが、彼女はガラス越しのパンダたちを食い入るように見つめていた。少しだけ列を並ぶ形にはなったけど、お昼を過ぎれば家族連れは帰ってしまうから、比較的早くパンダを見ることが出来たとは思う。


「この二人は夫婦なのに、一緒じゃなくて寂しくないのかな? 」


「あっ、それは僕も昔思ったことがある 」


「えっ? やっぱり、そう思うよね? 」


「ああ。でも、パンダは寂しくはないらしいよ 」


「えっ? 」


「パンダは、群れを作って暮らす動物じゃないんだって。だからオスもメスも、野生でも基本的にはひとりで過ごすらしい 」


「そうなんだ…… 」


「納得いかない感じ? 」


「うーん、そんなことはないけど。一人じゃつまらないだろうなって 思ってしまう辺りが、人間の固定概念なのかと思うと、反省しなきゃと思って 」


「また、そんな難しいこと言って…… 」


「えっ? 」


「あっ、ごめん。今のは…… 忘れて 」


 自分で口にしたにも関わらず、僕は思わず出てしまった本音に、少しだけ焦っていた。

彼女が賢いのは素晴らしい特長なのに、それを否定するようなことを言っては、身も蓋もない。僕は完全に後の祭り状態になっていたけど、彼女の方はどうやらその限りでもないらしい。


「うふふ 」


「えっ、ごめん。何か変だった? 」


「ううん。違うの。そんなこと言われたの久し振りだったから 」


「えっ? 」


「そんなこと、ママとパパにしか言われたことないもん。腫れ物を扱うように、みんなそういうことは、私には言わなかったから。でも、そうだね。もうちょっと、簡単に考えるのも大事だよね 」


 彼女はそう言いながらクスクス笑うと、しばらく手すりに体重を預けながらパンダたちを眺めていた。

 大人ではないけど、子どもでもない。

 僕が彼女の立場なら、感情のコントロールが出来なくて、癇癪を起こしていただろう。

彼女はどんなときも、自分を強靭な精神世界に引き上げようとしている。

 僕は、そう思った。




◆◆◆




 お日様はすっかり傾き加減で、旅の終わりを告げていた。

 結局、リベンジマッチを果たしてからは、ホッキョクグマとか大きな動物たちに夢中になってしまって、あっという間にタイムオーバーを迎えていた。赤ちゃんパンダに会うことは叶わなかったし、常にマラソン大会みたいな慌ただしさだったけど、彼女も僕も充実した動物園巡りになっていた。


「ああ、楽しかったー! 十七時に帝国ホテルの約束、間に合うかな? 」


「今からなら、ギリギリ間に合うだろ。山手線も京浜も、今の時間ならすぐに来るし 」


僕らは時計とにらめっこをしながら、上野公園を勢いよく直進し、一目散に駅を目指していた。


「あっ、コーセー! 」


「んっ? 」


 彼女は僕の名前を呼びながら、急にシャツの袖を引っ張ると、前方に見えた建物群を指差した。


「懐かしい! あっちにあるのは、国立科学博物館だよね。こっちは西洋美術館だ 」


「うん、そうだけど…… よく知ってるね? 」


「西洋美術館はモネが常設されてたから、印象 に残ってるの。ル・コルビジェの建築も当時の設計を考えると、大胆さと繊細さが兼ね備えられていて、凄いなって感じたの。世界遺産にもなったし、もう一度見ることができて良かった 」


「ああ、麻愛は何でも詳しいね。もしかして、調べたの? 」


「ううん。前に来たとき見たのを覚えてるだけ。私、記憶力いいから 」


「前に…… 来たことがあるの? 」


「うん。動物園も博物館も美術館も、小さい頃にコーセーたちと、一緒に来たんだよ 」


「えっ? ごめん。何となくそうかと思ってたけど、僕はあんまり覚えてなくて 」


 疑視感の一つや二つでも抱いていれば、気がついたかもしれない。でも、僕にとっては()()()()()()という事実ばかりが記憶の大半を支配していて、何処(どこ)でとか、どんなシチュエーションでとか、そういう外回り的なことは印象には残っていなかったのだ。


「大丈夫。気にしないで。私はそういうことよくあるから、あんまり気に止めないんだ 」


「でも…… 」


 僕だって、そういう些細な感情のギャップを目の当たりにすると、精神的に堪えることがある。それに記憶力がいいというのは、良いことばかりでもない気がしていた。


「それにね、ちゃんと約束も守ってもらったし 」


「約束? 」


「うん。私が直接約束した訳じゃないけどね。でもね、約束は約束。結果的には達成されたから、私の勝ち 」


「……? 」


 彼女はそういうと、僕の前に立ちはだかり、後ろで手を組んでいた。視線の向こうの西日が眩しくて、彼女の細かい表情は逆光に遮られて見えなかったけど、それでも満足そうな笑顔であることには変わりはなかった。


「T大学はママとパパが出会った大切な場所だから、来てみたかった。上野動物園は私とコーセーが初めて会った思い出の場所だから、どうしてもコーセーと二人で来てみたかった。だからツバキにお願いしたの 」


「……えっ? 」


 訳がわからなくなってきた。

 椿にお願いしたって、何のことだ? 

 話が全く見えてこない……

 僕らが今日二人きりでここに来たのは、匡輔たちがホテル巡りをする副産物だと思っていたけど、それは女子同士で図られていたということだろうか? 


「高校生って身分じゃ、なかなか東京まで来ることはできないでしょ? だからね、お互いに丁度良かったの 」


「…… 」


「あのとき…… 私がコーセーに初めて会った十年前は、私は高校に通っていて、同い年の子と遊ぶのは初めてだったんだ。でもコーセーは私のことを特別扱いしたりしなくて、嬉しかったんだよね。前に来たときは寝ていたパンダも、今度は起きてる姿で会えたし、モヤモヤしてたことがスッキリした感じ 」


 彼女はそう言うと、一歩づつ距離を詰めるように僕の方へと近づいてくる。 

 そして次の瞬間、彼女が目の前からいなくなったと思ったとき、頬に何かが柔らかいものが触れた気がした。


「へっ? 」


「私と、恒星の秘密ね 」



 僕は……

 呆然と立ち尽くしていた。

 一体、これは何が起きているのか、僕には訳がわからなかった。


 イギリスの頬キスって、どんな意味があるんだろう?

 僕は冷静と情熱の間で、脳ミソが大混乱に陥った。









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