神は僕にマーガレットの涙を伝えたかった
■■■■■
「あっ、コーセー! おかえり 」
「ただいま 」
「稜子ママが、おやつにプリン焼いてくれたの。冷蔵庫に入ってるよ 」
「ああ、ありがとう 」
「……コーセー? 」
僕は自宅に戻るなり、白衣姿の彼女に目もくれずに部屋へと直行していた。
本屋から慌てて帰ってきたから汗はダクダクだったけど、そんなことに構う余裕もない。僕はシャワーも浴びずに適当に汗を拭うと、直ぐ様ジェームス・ミランダ・バーリーを検索していた。
彼女に纏わる大切な話だったはずなのに、何で後回しにしてしまったのだろう。僕は焦る気持ちを必死に抑えて、スマホを握りしめていた。
ジェームス・ミランダ・バリーなる人物は、エジンバラ大学の医学部を卒業した、一握りしかいない優秀な学生だったらしい。
学業修了後はロンドンで経験を積んだあと、軍医として、当時の大英帝国の植民地であった様々な国に赴いたのだという。その滞在先のジャマイカ、インド、クリミア、南アフリカなど、行く先々で功績を残し、それまで医療などなかった地域に、その礎を築いて回ったのだ。
彼は水質と汚物との間に起因する病気の関連性に注目し、衛生状態の改善に努めた。彼が担当した患者の生存率は、当時では群を抜いて向上したのだそうだ。その実績としては、アフリカ大陸で猛威を振るったコレラやハンセン病などの疫病の蔓延を防止したことでも知られている。また、世界で初めて母子共に救った帝王切開手術を、南アフリカのケープタウンで成功させた医師としても有名だった。
ジェームズは、最終的に軍医としては最高の地位である全国病院総括監察官にまで上りつめ、その生涯を閉じた。
しかし死後、その人生に隠された真実が明るみになると、英国軍は窮地に立たされることになる。ジェームスの葬儀の準備をしようとした家政婦が、そのの遺体に思いもよらぬ発見をしてしまったからだ。
英国軍の高名な軍医、ジェームス・ミランダ・バリーの身体は、実は女性のものだったのだ。
そのとき初めて、ジェームス・ミランダ・バリーの本名は、マーガレット・アン・バルクレーであることが判明することになる。
マーガレットという人物は、アイルランドのコークというところで1789年に生まれたとされている。
彼女の両親はジェレミアとメアリー・アン・バルクレーといい、ジョンいう兄がいた。
幼少の頃から、マーガレットの利発さは誰もが認めるほどだった。後に彼女が名前を拝借することになる、叔父であり芸術家の【ジェームス・バリー】と、その親しい友人で著名なベネズエラ人政治家の【フランシスコ・ミランダ】は、医師になる夢を持っていたマーガレットを支援をすることになったのだ。
しかし、その当時の女性の社会的地位は低く、風潮的に医学を学ぶことは認められてはいなかった。そしてその性別という難関を超えるため、マーガレットは叔父の名前を名乗り、男性として性別を偽る決心をする。
これがジェームス・ミランダ・バーリーがマーガレット・アン・バルクレーという名前を封印した瞬間だった。マーガレットがマーガレット・アン・バルクレーとして生きたのは、僅か10年あまりのことだったらしい。
マーガレットは.1812年にエジンバラ大学を卒業した最初の女性となった。だけど、この業績はその後100年に渡り、マーガレットの本来の性別を含めて、英国軍によって隠匿されることになる。
政治家であったフランシスコ・ミランダは、マーガレットに医療研修期間が終了した暁には、ベネズエラへの渡航を支援すると約束していた。当時のべネズエラでは、既に女性が医者として開業することが可能だったのだ。しかし、ミランダがカディスでスペイン側に捕えられ、その後間もなく亡くなると、計画は頓挫することになる。
そしてこの事件をきっかけに、これ以降マーガレットは自分の本当の正体を、生涯隠し続けなければいけなくなったのだ。
マーガレットは国内で身元が割れることを防ぐため、ロンドンで経験を積んだあとは、軍医として外国に渡る決意をすることになる。軍の外科医として、世界中を巡ることになったのだ。
その後は承知の通り、マーガレットはどこに配置をされても、より高い回復率を達成する衛生学のパイオニアとして、各地でたくさんの命を救うことになる。
だけどその偉業の対極には、常にマーガレットが抗わなくてはならないことがあった。
マーガレットは自分が女性である事実を隠そうと努めたものの、少女として子供時代を送ったこともあり、その人柄と癖で、度々トラブルに巻き込まれることがあったらしい。時には、男性らしさを疑う発言をした人物に対しピストルを向けたこともあったくらい、無理やり押しきることもあったのだ。
1864年7月25日、ジェームス・ミランダ・バリーことマーガレット・アン・バルクレーはイギリスに帰国後、程なくして亡くなった。
医学の発展に人生を捧げた著名な人物であるにも関わらず、今日に於いても誕生日すらわかっていないのは、彼女の生い立ちに複雑な事情があったからだ。
性別を隠し、医療に人生を捧げたマーガレットは近代医学の発展に大きく貢献した。
しかしそのマーガレットの輝かしい功績は、その死後100年に渡り英国軍によって隠匿されることになった。再び彼女の存在が世に知られるようになったのは、ごく最近のことなのだそうだ。
女性や、人種、そして恵まれない人々などに権利がないと考えられていた時代に、平等な待遇を確保しようと努めた人道主義者でもあったイギリス初の女医マーガレット・アン・バルクレー。彼女の残した医療衛生観念は、今日の現代医療においても深く浸透している。
マーガレットが亡くなったとき、彼女が女性であることに気づいた家政婦は、遺体のお腹に妊娠の痕跡を見つけていたいた。
マーガレット少なくとも一度は出産を経験したとされている。子供の父親は誰なのかは、未だにわかっていないらしいけど、少なくとも彼女の秘密を全て抱えて、影で支えた存在がいることは確かなのだ。
僕はスマホを床に捨て置くと、見慣れた天井を仰いでいた。
彼女がアルバートを選ぶというなら、それを止めることはできないけど、僕には悔しがってもいい権利はあると思う。
僕はアルバートの彼女への思いを肯定したり、背中を押すことはできない。
でもアルバートが、本気で天才的な頭脳を持つ彼女の将来を心配していることだけは、僕は認めざるを得ない。
あの日、アルバートは彼女をマーガレット・アン・バルクレーにはしないでくれと、僕に念を押した。
つまりアルバートは、彼女が彼女らしく、偽りのない生活をしてほしいと思っているということだ。
でも、僕にはわからない。きっと彼女もわかってない。
麻愛にとって、一体どの姿が本来の彼女であるのだろう。
彼女がイギリスの大学で大人に囲まれながら、成人のような振る舞いをこなし、医学部を卒業したことは事実だ。だけど、そのキャリアをひた隠しにして、下呂の街で普通の高校生活を送っていることも、彼女の選択で意思でもある。
もしマーガレット・アン・バルクレーの人生に彼女の現状を当てはめるとするなら、アルバートは何を危惧していたのだろうか。
一つだけ、確かなことがある。
彼女は、どのステージにいても本来の自分を偽っている。そうせざるを得ないのだ。
イギリスでは子供であることを辞めて大学生になってしまったし、この街では医者であることを秘密にしている。
彼女は十八になったら、医者になる。
そうしたら、そのとき彼女は本来の名前である、麻愛・マーガレット・ミサカに戻れるのだ。
僕に出来ることは何もない。
いや、むしろ逆だ。
僕らの存在が、彼女の叡知を阻んでいる。
麻愛がこの下呂の街から離れた瞬間、彼女は初めて自分に偽りのない世界を歩めることが出来るのに。
最初から、わかっていたことだ。
引き留めるつもりもないし、彼女にとってこの下呂温泉での時間は通過点でしかなく、ただの思い出にしかならない。
元来住む世界が違いすぎる。同じ道を歩む未来など、そもそもないのだ。
僕はまざまざと見せつけられた現実に、頭を抱えるしかなかった。
ーーーーー
※参考webサイト
https://www.imishin.me/james-barry2/
http://www.rcpe.ac.uk/journal/issue/journal_42_3/dupreez.pdf
http://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/james-barry




