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マーガレット・アン・バルクレーの涙  作者: 高城 蓉理
神は彼女に嫉妬した
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神は彼女に決意させた

◆◆◆



「恒星。どうした? 今日は元気ねーじゃん。腹でも痛いのか? 冴えない顔してさ 」


「ああ、匡輔…… 別に、何でもないよ 」


 部活の稽古の休憩時間に、いつものように匡輔が僕の隣へとやって来た。匡輔は僕がここに引っ越してきてからだから、付き合いはもう十年近い。交友関係の狭い僕が仲良くしている、数少ない友人の一人だ。


「いや、それは嘘だね。今日、お前全然(あた)ってないじゃん。らしくねーよ 」


「そうかあ……? 僕は至って、いつも通りのつもりだけど 」


 精神統一が重要な武道である弓道で、図星を当てられたのは少し癪だったが、僕は必死に冷静を装った。匡輔は半分凍らせたスポーツドリンクをグイっと煽ると、ざっくばらんにタオルで汗を拭っている。


「なあ、恒星…… 」


「ん? 」


「……俺、知ってんぞ。お前さんは昨日の夜、可愛い子と、橋の辺りを歩いてただろ 」


「なっ…… 見てたのかっッ……!? 」


 僕は思わず声を上げ、匡輔のいる方を振り返った。匡輔は、悪い顔をしてニヤニヤしている。


「昨日の晩、ローソンでアイスを食ってたらさ、お前がスーツケースひいてガラガラ歩いてくるんだもん。しかも見たら、美少女が横にいるからさ 」


「なっッッ…… 」


 見られている。バッチリ押さえられているっ! っていうか、なんで夕飯時にローソンに居るんだよっッ!


 こんな小さな街だ……

 どうせ明後日には、新学期早々生徒全員が彼女の存在と僕の関係性を、根掘り葉掘りする未来が待っているのは理解している。


 だけど

 だけどっッ

 せめてっッ、今日くらいは、

 平和的に過ごしたかった……


 ツッコミどころが満載だったが、僕はグッと堪えると、沈黙を貫いた。だけど匡輔の攻撃は、そんなことぐらいでら止むことはない。


「あの子は…… おまえんとこの寮の新入りさん? 」


「うん…… まあ、そんなとこ…… 」


 半分正解で半分は間違っているような気もするが、僕は匡輔の問いを肯定すると、ハァと息を吐いた。

 匡輔はこの辺りでは老舗の有名旅館の跡取り息子で、他人に対しての洞察スキルが高い。そして僕は、どうやら彼のスイッチを押してしまったらしい。ヤツに見つかったら、もう降参するしか手立てはない。



「なあ、今度紹介してよ。年上? 年下? いくつくらい……? 」


「歳は()()同い年だけど…… 」


 だけど彼女と僕らの精神年齢は、決して同い年ではない。彼女は僕らなんかより、圧倒的に濃密な十六年を生きている。もちろん匡輔にも、彼女の事情を詳しく教えるつもりは断じてない。だけど、まだ彼女の設定が定まっていない以上、僕には秘密を貫く自信がなかった。

匡輔に見られていたのは想定外だったが、僕は墓穴を掘る前に、仕方なく先制情報を放つことにした。


「っていうか、紹介もなにも、彼女にはもうじき会えるよ 」


「えっ? そうなの? 」


「ああ。彼女は、うちの学校に編入するから 」


 匡輔は新情報を聞くと、手のひらを返したようにテンションが上がっていた。人の入れ替わりの少ない温泉街の子どもたちは、小中高の青春時代を同じ顔ぶれで過ごす。僕たちも、例外ではない。だから自分も逆の立場なら、彼女の編入は楽しみに思うはずだ。そしてその感情を抱くことは、自然なことだというのも、僕は知っていた。


◆◆◆



 部活が終わると、匡輔は文実に顔を出すと言って弓道場を後にした。僕は弓道だけで手一杯なのに、委員会を掛け持ちをして両立をさせるなんて、到底なし得なそうにない。一人で帰るのもつまらないから、母さんがまだ学校にいるようなら車に乗せてもらおうか……とも思ったが、既に家に着いたと連絡があった。


 それならば、仕方はない。

 僕は、自宅まで一人で帰ることにした。高校から最寄り駅までは二駅だけど、電車の本数は少ないから、一人で登校すると道のりは長く感じられる。


 下呂に着いたころには、辺りは既に夕日に変わっていて、山の向こうに赤橙色の空が広がっていた。この時期だけは、向こうの山全体が桜で白く染まっている。その花びらは、まるで吹雪のように風になびいて川に落ち、勢いよく水に流れていた。


 僕がいつものように川を眺めながら橋を渡っていると、遠くの風景を眺めている人影を見つけた。そのシルエットは少し小柄で線が細く、服や髪が風にひらりと舞っている。僕はその人物を確認するように少しずつ距離を詰めた。


 その人物は……

 やっぱり、彼女だった。


「麻愛ちゃん……? 」


「コーセー? 」


 僕は彼女の顔を確認すると、思わず小走りで駆け寄った。

 川幅があるこの橋は、長さが百メーター近くあり、川からの高さもある。彼女の履いているヒラヒラしたズボンは風を纏い、シャツもペチペチとしなっていた。


「どうしたの……? こんなところで 」


「昨日、暗くてよく見えなかったから。飛騨川を見てみたかったの。凄く立派なんだね 」


「そうだね。僕も小さい頃、祖父ちゃん達に会いに来てたときは、凄いって思ってた。今はもう、見慣れちゃったけどね 」


「そうなんだ、なんだか贅沢な話だね。ここは…… 川の流れ、水の音が心地いい 」


 彼女はそう呟くと、少しだけ橋の手すりから下を覗き込んだ。高所恐怖症の人ならば、こんなに高さがあったら閉口するのだろうけど、彼女はやはり動じなかった。


「今日はね…… ずっとコーセーの教科書を読んでた。古典と漢文は難しいね。日本語は奥が深い 」


「そうだね。僕も古典は嫌いだ。内容も説教臭いしね 」


 いや、正確に言うと、僕は古典以外の漢文も現国も好きではない。というか好きな科目はないと断言出来るくらい勉強は嫌いなのに、彼女に対してその感情を披露するのは野暮に思えた。


 彼女は、相変わらず川の底を見つめている。

 僕が色眼鏡で見ているのかもしれない。だけど、彼女のその行動一つ一つは意味深に感じられて、僕には彼女のことが今一つよくわからない。

 僕は意を決すると、思いきって昨日からの疑問の一部を彼女に質問することにした。


「あのさ、麻愛ちゃんは…… 今さら高校生になるの、嫌じゃないの? 」


 彼女は少しだけビクッとした様子を見せたが、相変わらず遠く下を雄大に流れる川の風景を見つめていた。


 少しの沈黙が、永遠のように長く感じる。

 そして彼女はさらに俯くと、今度はゆっくりと僕の方を振り向いた。


「コーセーは、何でそう思うの? 」


「だって君は…… 本当は、い…… 」


「…… 」


 僕は途中まで言いかけて、その単語を音に出すことを止めた。多分、母さんもまだその単語は彼女に対して口にしていない。


 彼女は黙って、僕を見ている。

 その目は、まるで見るもの全てを吸い込むような、力強さに溢れている。

 でも僕は、彼女の本心を知る必要があった。 


 夕日を浴び逆光に抗う彼女の姿は、まるで暁の国の姫のように神々しく見えて、僕は目が離せなくなる。そして何か見えない力が秒針をせき止め、僕らの周りの時の流れだけが変わったかのような、錯覚に陥った。


 風の音が耳元で、ゴーゴー鳴り響く。

 髪が乱れ、視界がざわめく。


 今の心境を白状するならば……

 僕は、動けなくなっていた。


 だけどその時、

 この謎の時間の歪みを打ち破るかのように、聞きなれた高い声が、後ろから近づいてくる気配がした。


「こうせーい、まいちゃーん 」


「佳央理? 」


 金縛りにあったように体が硬直していたが、僕はその声の主を振り返った。佳央理は着替えるのが面倒だったのか、白衣姿のままウィンドブレーカーを羽織り、年季の入った自転車に乗っている。


「どうしたの? 恒星も麻愛ちゃんも。こんなところで…… 」


「ああ、ちょっと散歩してて 」


 僕は苦し紛れに、適当な理由を彼女に伝えた。部活帰りの僕は制服姿にスポーツバックを持っているから、本当はただの帰宅途中なのだが、彼女は本当に散歩していたのだから嘘はついていないはずだ。


「あらっ、二人とも青春だねぇー。おばさんが心配するから、日が沈む前には帰りなよ 」


「……そうするよ 」


 佳央理は僕の返事を聞くと、彼女に対して「またね」と手をあげて、チャリで颯爽と立ち去った。佳央理は、あっという間に米粒みたいに小さくなると、橋を渡ってすぐの角を左に曲がる。


 偶然なのはわかっている。

 だけど今だけは、佳央理が救世主にすら思えた。


 青春だね、の言い種だけは気になった。けれども取り敢えずは、彼女の登場が有り難かった。


「麻愛ちゃん、そのさっきは急にごめん。僕は帰るよ。麻愛ちゃんは……その、ゆっくりしていって 」


 僕は地面に置いていた荷物を持ち上げ、彼女に軽く頭を下げた。

 どうも人と適切な距離感を保つのは苦手だ。難しい。相手が異次元級の天才であるなら尚更だ。


 だけど次の瞬間、意外なことが起きた。

 彼女がいきなり、大きく声を上げたのだ。


「私もっッ…… 」


「……えっ? 」


 僕は驚いていた。多分、間抜けな面をしていたと思う。

 彼女には、川のせせらぎに負けない強さがあった。

 そして僕は、彼女の本来の声はこの音なのだと思った。


「麻愛ちゃん、じゃなくていい。私のことは麻愛でいい 」 


「えっ? 」


「イングランドではファーストネームで呼び会うのは普通なの。麻愛って英語では紛らわしいから、イングランドではミドルネームで呼ばれてたけど。だからその方が、私には自然なの 」


「わかった。じゃあ今日から僕は君のこと麻愛……って呼ぶよ  」


 僕は少し圧倒されながらもそう答えると、彼女の要望を受け入れた。

 彼女が何故そんなことを突然言い出したのかは、僕にはわからない。でも、彼女とは家族同然に暮らすのだ。

やっぱり彼女の方が、よっぽど物事の順番をわかっている。


「それに、私は…… 」


「麻愛ちゃ…… いや麻愛、その話は無理にしなくていいから…… 」


 僕は遮るように、彼女の話に割り込んだ。

 まだ僕たちには信頼がない。

 それは僕たちの関係性は、ほぼ他人同士と言っても過言でない。

 どんなに気心が知れていても、踏み込んで欲しくない一線があるのと同じで、そんな脆弱な……よく知りもしない相手に対して、本心や本音を話せというのが無理な話なのだ。


 だけど彼女は、そこで話を止めなかった。

 彼女は少し手を挙げて僕に合図をすると、ゆっくりと口を開いた。


「ううん、私の方こそ、ごめんなさい。これは私のことなんだから、自分からきちんと話さなきゃいけないことなのに 」


「…… 」


 僕は黙って彼女を見ていた。

 彼女は今一度、川を見つめている。

 山の稜線の先からは、夜の気配が近づいていた。


 彼女もまた、自分が何者なのか確信をつく単語を避けている。そしてその言葉を発さなくても、伝わる言葉を考えているのだと思った。


「確かに…… 私は大学を卒業してライセンスを取った。でも、それは今の私にはそれほど重要なことじゃない。結局資格は手段でしかないのだから。ライセンスは欲しくて仕方なかったけど、もうママもいなくなっちゃったしね 」


「…… 」


 僕は彼女に何と声をかけていいのか、わからなかった。

 彼女のママは、もうこの世界にはいない。

 母さんからは、彼女は最愛のママを救うために頑張って勉強してやっと免許まで取ったのに、それが叶わなかったと聞いた。


 僕と彼女は同じ時間この世界で過ごしているのに、彼女の悲しみは十六年の人生で受け止めるには重すぎる。

 神は、平等ではない。

 だから神は選びし者には、時に残酷な試練を与えるのだと、僕は思う。


「私は…… 勉強ばかりしていたから、まだまだ世の中のことを知らない。このままじゃ社会で通用しない。それに私は母国なのに、日本のこともよく知らない。パパにも言われたの。君は少し人生を急ぎすぎた。でも日本の人は誰も君を知らない。高校に通って友達もたくさん作って、普通に生きることも出来るって 」


 僕は彼女の言葉を、黙って聞いているしかなかった。

 彼女が自分自身を普通でないと言ったのは、僕も心が痛くなるような気がした。 

 そして彼女は一回深呼吸すると、僕をもう一度振り返ってこう告げた。


「だから、私はここに来たの。だから迷ってなんかない 」


 僕が知りたかったことを、彼女はいとも簡単に言い放った。

 僕は何かいい返しをしたかったけど、やっぱりうまく言葉が出てこなかった。


「コーセーや荒巻のみんなには、迷惑を掛けると思う。ごめんなさい。先に謝りたい 」


「…… 」


「十八歳の誕生日が来たら、労働許可が出る。そしたら私はイングランドに帰って就職する。ここを離れたくなくなることはしない。ここに未練も残さない。迷惑も、極力かけないようにする。だから…… それまで私と仲良くして欲しい 」



 彼女はそう言うと、優しく右手を前に出した。

 その手は細くて白くて、夕焼けにも眩しいくらいに美しかった。


「……うん、ごめん。ありが……とう…… 」


 僕も手を出すと、彼女の右手に手を重ねた。

 その手には、生を感じる温かさがあった。

 彼女の瞳には、今にも沈みそうな夕陽が煌々と宿っていて、紺碧色の瞳がまるで虹のように揺らめいて見えた。


 いま僕に時間の流れを示してくれるのは、絶え間なく吹きすさぶ風の流れだけだった。

 そしてこんな状況なのに、どこかに冷静な自分もいて、これでは今年も直ぐに桜が散ってしまうのだろうとどこかで考えていた。


 僕は、彼女の紡ぐ言葉の数々に圧倒されていた。

 正直、僕は彼女のことを誤解していた。


 彼女は自分の意思で、ここに来た。

 僕はそんな簡単なことを理解した。

 僕は彼女はただ勢いに流されてここに来ているのだと

思って、勝手にいろいろ決めつけていたのだ。



 でもその言葉を、僕は口にできなかった。

 というより、正確に僕の心情を表すのならば、口にするのが躊躇われた。


 僕の人生経験では、そこまで察知ができなかったし、言葉で聞かなきゃわからなかったことが、もどかしかった。


 そんな浅はかな自分を、僕は心底軽蔑した。




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