神は僕に補習を受けさせた①
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怒濤の二日間が終わった。長い長い濃密な二日間だった。
アルバートから、無事にイギリスに帰国したとの連絡を受けた頃、僕は再び辛酸を舐めていた。
期末テストにおいても、物理は惨敗だったのだ。ということで、終業式が完了しても僕は毎日のように教室にいた。
窓の向こうからは、野球部とかサッカー部の声が聞こえて、さらにその遠巻きでは金管楽器の音が鳴り響いている。だけど僕が今いる空間には、気分が上がるような要素は一個もなかった。
「恒星 」
「…… 」
「俺はお前さんに熱力学第一法則を教えるのは、これで五回は越えてるぞ? 」
「はい 」
「まずな、物体を加熱すると内部エネルギーが増加する。ここまではいいか? 」
「はい 」
「でな、物体に仕事をしても内部エネルギーってのは増加するんだ 」
「はい 」
「だから、物体に与えた熱量をQ[J]、加えた仕事をW[J] とすると、物体の内部エネルギーの増加分ΔU[J] は、ΔU=Q+Wで計算できる。これが熱力学第一法則で、別名がエネルギー保存の法則のことだ 」
「…… 」
「オイ、お前さん、何で黙ってんだよ? 」
「……わからないからです 」
「ハア!? こんなの、極論公式を当てはめたら解けるんだよ。この際、理屈とか抜きにしてさぁ。とにかく公式を覚えろ、つーか唱えろ 」
「はあ…… 」
僕は村松先生とマンツーマンで、くっそ暑い教室の中で補習を受けていた。
最近は考査、補習、考査、補習のサンドイッチが続いている。とても恥ずかしいのだけれど、結果が振るわないのだから仕方がない。
村松先生は椅子に立膝をつきながら、シャツのボタンを何個も開けていて、その間から団扇で風を送り込んでいる。歴とした大人、かつ学校の先生のだらしない姿は、なかなか見る機会はない。だけど先生の醜態の元凶は僕の赤点なのだから、見て見ぬ振りをするしかないのだ。
「ったく。夏休み早々、補習に付き合ってる俺の身にもなれ。何でお前さんは、こうも理系科目が苦手なんだよ 」
「……僕はちなみに、世界史も苦手ですけど 」
「ったく、屁理屈を捏ねてじゃねーぞ。俺はお前を担任として、進級させなきゃならないの。いいから無駄口を叩いてないで、さっさと問題を解けよ。進路希望は知らんけど、進学したいなら勉強しろ 」
「…… 」
村松先生の口から唐突に進路の話題が出てきて、僕は思わず萎縮した。彼女が来てから、僕はあらゆることに翻弄されている。特にこの数日間は色々なことが起こっていて、僕は自分自身のことに向き合う余裕など全くなかったのだ。
「つーか、恒星。なんで、黙ってんだ? 」
「それは 」
「お前は、進路はどうしたいんだよ 」
「……まだ、決めてません 」
「就職か進学かも決めてないのか? 」
「はい。まだ漠然としてるんで 」
「お前なら進学も就職も、どちらでも選べるだろ。物理と数学はともかく、英語と国語は学年トップレベルなんだから 」
「別に、そこまで自慢できるような成績ではないですけど…… 」
「英語の資格を優遇してくれる大学なら、いまの時点でも幾つか押さえられるだろ。けっこういいスコア持ってるみたいだし 」
「仮に僕が進学できたとして、行けるのは私立の文系です。どちらにせよ下呂は出なきゃならないんで、美濃か金沢か名古屋あたり、もしくは都内の大学になるでしょう。でもうちは姉貴と三年被るし、姉ちゃんが院に進めば全部になるんで。学費と生活費も、ってなると考えます。うちの姉みたいに、やりたいことが明確なら進学する意味もあるでしょうけど、僕はまだ漠然としてるんで 」
「家庭の事情はわかってんだな 」
「はい。もう少し将来の目標が明確だったら、良かったんですけど 」
僕が金をかけて進学しても、家業の助けになることは難しい。だから、ただ漠然と将来の目標もなく、だらだらと人生の猶予時間を得るための進学という選択は許されない。でもだからと言って、今すぐ就きたい職業があるわけでもない。姉貴も加央理も、このくらいの年齢の頃には色々と将来を見据えていたというのに、僕ときたらこの様だ。とにかく今の僕は、何もかもが中途半端なのだ。
「あの…… 」
「何だ? 」
「先生こそ、何で教師になったんですか? 」
「俺の動機なんか聞いて、どうするんだ 」
「参考にしたくて 」
「聞いたところで、参考にならないけどなぁ 」
「…… 」
先生は、相変わらず団扇を仰ぐ手を止めようとはしない。そしてその風のおこぼれが、たまに僕の首筋を掠めてた。
「仕方ないな。今日だけ大サービスしてやる。どうせ今は取り繕ったところで、いつかはお前さんにはバレるしな 」
「えっ? 」
「……俺は、ただの安定だよ 」
「はい? 」
「別に子どもが好きとか、教育者になりたいとか、志高く教師になったわけじゃない 」
「えっ? じゃあ、なんで先生になったんですか? 」
「理系だと、専門職で食ってくのは難しいんだ。だから消去法だよ。公務員なら安定してるからな 」
「それ、生徒の前で言いますか? 」
「まあ、称賛してもらえるような発言ではないだろうな。でも世の中の会社員だって、全員がやりたい仕事をしているわけじゃないだろ。生活のために金を優先して仕事をしてる人間もいるだろうし、ケースバイケースだ。教師は幻想を抱かれやすいけど、こっちだって事情は様々さ。ただまあ、俺以外の先生方は、人格的にも優れた適任者ばっかりだからな。一人くらいは、こういう適当な教師がいても何とかなるだろ 」
「じゃあ、お役所に勤める公務員でも良かったんじゃないですか? 」
「おっ、恒星も言うようになったな 」
村松先生は少しニヤニヤとした笑みを浮かべると、肩に巻いてたタオルで、大胆にもシャツの合間から汗を拭った。先生は新卒で赴任してきたらしいからと僕と年齢も近いハズなのに、同性の僕から見ても驚くレベルのとんでもない色気を放っていた。




