神は高山で僕と彼女たちの均衡を刺激した
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七月も下旬に差し掛かると、午前中でも汗が吹き出して仕方がない。
岐阜県は面積の八割が森林地帯であり、高山地方は周りを山で囲まれている。いわゆる盆地という地形に属しており、冬場は雪に覆われ、厳しい寒さとなるが、夏場は湿度が高くて蒸し暑い。こうなると、今日みたいな猛暑日は、ハンカチは決して手放せそうにない、灼熱のコンディションだった。
これは昨日の晩にインターネットで拵えた知識だが、高山の朝市の歴史はとても古く、発祥は江戸時代まで遡るらしい。ちなみにこの街で有名な朝市は二つあって、高山陣屋という観光施設の前で開催される【陣屋前朝市】と【宮川朝市】がある。
今回、僕たちが足を運んだ【宮川朝市】は、字の通り、高山の街の真ん中をドンと流れる宮川沿いの路上で、ほぼ毎朝行われている朝市のことだ。何でも、石川県輪島市の輪島朝市、千葉県勝浦市の勝浦朝市と並ぶ、日本三大朝市のひとつに数えられていて、高山市を代表する観光名所の一つとなっている。朝市といっても、午前中いっぱいは営業しているから、今日の僕らは余裕を持っての参戦だった。
「麻愛、ここが有名な宮川朝市だよ 」
「あさいち? 」
「えっと、朝市っていうのは、屋外マーケットみたいなところ。手前の辺りは、野菜とか生鮮食品が多いけど、奥の方は民芸品もあるから 」
「そうなんだ。ありがとう。えっとね、アルバート (This is the morning market. Then………… )」
「(I see. Then will we go to the back? I want to buy tea ceremony tools. Is it here? ) 」
彼女は僕の説明を聞くなり、今度はアルバートに英訳する。さっきから、僕らの会話は殆どこの状態だ。二度手間だし、僕が最初から英語を話せばいいのだろうけど、なるべくならばそれを披露したくない。文法も発音も無茶苦茶だし、稚拙な言い回ししか使えない。いくら色々と諦めているとはいっても、僕にも一応プライドはあるのだ。
「(マイ、通訳どうもありがとう。じゃあ、ちょっと奥まで見に行こうか? )」
「(えっ? あっ、うん…… )」
彼女はアルバートの声かけに、言葉に詰まりながらも返答すると、ゆっくりと歩き出す。そのとき、彼女がチラリとこちらをを振り返ったような気がしたが、僕は敢えて反応しなかった。今日は、彼女だけに集中するわけにはいかない。僕には佳央理を引っ張り出した責任があるからだ。
僕が彼女とアルバートを送り出すと、佳央理の動向を確認する。すると、こちらは入り口付近の店の前でしゃがみ込んで、マイペースに野菜を吟味していた。
「ねえねえ、恒星! 見て! もう国府ナスが出てるの。煮浸しにしたら美味しそうー! それにほら、マクワウリもあるよ 」
「ああ、もうマクワウリが出回る季節か…… 」
マクワウリは黄色の瓜みたいな容姿で、大きさはメロンくらいのずっしりとした重量がある。メロンほど甘くはないけど、さっぱりとさわやかな風味が特徴で、岐阜ではポピュラーな夏の果物の一つだ。食感はサクサクしたものから、柔らかいものまで様々で、食べてみるまでは何が当たるかはわからない。そういえば、都内に住んでいたときも、夏になると祖父ちゃんが送ってきてくれていたっけ。
「マクワウリって、確か侑哉おじさんが好きだったよね? 買って帰ろうか? 」
「あっ、うん。そうだね。父さんはこの時期になると、よく食ってるから、新物は喜びそうだ。でも買うなら、僕がお金を払うよ。メインで食うのは、父さんだろうし 」
僕が尻ポケットから財布を出そうとしたが、佳央理の手がそれを止める。そして鞄から茶封筒を取り出すと、その中から千円札をちらつかせた。
「稜子おばさんから、お使いを頼まれてるの。お金も預かってきてる。漬物とお野菜、いいのがあったら買ってきてって 」
「母さんったら、いつの間に! そういうところは、ちゃっかりしてるよな。だから車にクーラーボックスが積んであったのか 」
「まあね。朝市は高山にしかない、お野菜もたくさんあるし、車だと気兼ねなく買えるじゃない? 」
「それは確かに…… 電車だと、帰りが荷物で重くなるし、何より朝一番で買っちゃうと、持ち歩きをしなきゃならないからね 」
「そうなんだよね。でも、これじゃあ観光しに来たっていうより、ただの買い出しみたいな感じだね 」
「それもそうだな。だけど僕ら三人は家族みたいな感じだからね。家族で旅行に来れば、こんなもんだろ 」
「……私も家族にいれてくれるの? 」
「そりゃ、そうだろ。つーか、麻愛は一緒に暮らしてはいるけど、どちらかと言うと佳央理と僕の方が家族に近いだろ。血が繋がってるんだから 」
「…… 」
佳央理は手にしていた野菜を元の位置に戻すと、僕の方を振り向いた。そして一息つくと、
「……でも、それもこの先はわからないじゃん? 」
と言い放った。
一体、何が言いたいんだよ……
僕は心の中で深い憤りを覚えたが、この場はその感情はゆっくりと飲み込むしかない。それはどっちの意味とも取れるような気がしたが、佳央理からのアプローチはこれからもない。それは、お互いが一番良くわかっていることなのだ。
「将来のことはよくわからない 」
「…… 」
「だけどどちらにせよ、僕と佳央理は死ぬまで再従兄弟だよ 」
「……それもそうだね 」
佳央理はけしかけておきながら、歯切れの悪い返事をする。店の店主は何の話だろうと小首を傾げていて、何だか無性に恥ずかしくなる。つーか、お天道様が昇り切らないうちから、さらりとそんなことを言わないで欲しいものだ。
僕と佳央理の言い合いは、端から見れば完全に痴話喧嘩の形相だけど、そんな既存の枠組みに収まってくれるような代物でもない。
僕は、些か怯んでいた。
だけど佳央理は、なに食わぬ顔でいくつかの野菜を購入すると、両手いっぱいにそれを抱え込む。そしてすくりと立ち上がると、僕にこう言ったのだった。
「あのさ、私、荷物を車に置いてくる 」
「あっ、それなら僕も行く。ちょっと距離もあるし、アルバートのスーツケースが手前にあるから邪魔だろうし 」
「大丈夫だよ。私は重い物持つのは慣れてるから。恒星は、あの二人の側にいてあげないと 」
「でも…… 」
「大丈夫。お姉さんの優しさには素直に甘えるものよ 」
「はい……? 」
佳央理は自分のことを、急に姉呼ばわりすると、回れ右してあっさりと駐車場へと向かっていった。
確かに、年齢は僕よりも二つ上。
今日だって車を出してくれてるし、もうすぐ酒も合法的に飲めるようになる。僕よりも先のステージを歩んでるは事実で、そういう関係にならないのは確定事項なはずなのに、佳央理に冷たくされたりするのは心が痛い。そして自分が彼女を傷つけるのは、もっと嫌だと思っている。
何故、世の中には、愛してるとか恋しいとか以外の、好きを伝える手段がないのだろう。
佳央理と、どうこうなりたいとかはこれっぽっちも考えてないけど、彼女が幸せでいて欲しいと思っているのも、また事実だ。
だけど、その気持ちを上手く言葉で表現することができない。それは、僕がまだその結論を突き付けることを迷っているからだ。
血が繋がっているから……
それは互いに納得できる理由にはならない。それは僕も承知している。
さっきよりも、汗は勢いよく吹き出してくる。
これは気のせいではない。
それが暑さのせいか何なのか、僕にはもう良くわからなくなっていた。




