彼らは彼女にたくさんの愛を託した
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僕は子猫を拾ってきた子どものような心境で、店の前で立ち尽くしていた。
やっぱこの花、目立つよな……
僕は改めて、手元にある花束を確認する。暑さのせいもあるのか、花びらは少しだけクタリとしていて、萎びれ始めていた。
父さんと彼女は配達中だから、まあ問題はない。だけど母さんに会わずに自宅に上がるのは、不可避に近い。こうなったら、あまり深く考えずに強行突破してしまうに限るような気がした。
「ただいま…… 」
僕は少しだけ緊張しながら店のドアを開けると、そこには母さんだけがいて、白衣を着て店番をしていた。キンキンに室内の冷えた空気は、熱を帯びた僕の身体に瞬時に染み渡った。
「随分と遅かったね 」
「うん、まあ、ちょっとね。はい、これレシート 」
僕は額に浮かんだ汗をシャツの袖で押さえつつ、クチャクチャになったレシートを母さんに渡した。母さんは一瞬怪訝な様子を見せたが、それを受けとり内容を確認すると、今度はその視線を僕の手元へと向けた。
「どうも、ありがとね、って、恒星? どうしたの? そのお花 」
「ああ。麻愛に渡して欲しいって人から…… 預かった 」
「そう 」
母さんは最初こそ驚いていたが、僕の想像よりも、案外ドライな反応だった。僕は無駄に構え過ぎていたのかもしれない。そして止しておけばいいのに、ここまで淡白な反応をされると、逆に興味を引きたくなってしまうくらいには、僕はまだ少し子どもじみたところがあった。
「母さん…… 」
「なに? 」
「これ…… その人からは、ドアノブにでも掛けといてくれって言われたんだ。だけど、この暑さじゃ花って痛むよね? 」
僕は母さんの目の前まで、花を持ち上げて見せる。
すると母さんは少しだけ身を引きながらも、花を少し凝視してこう言った。
「そうね。わかった。じゃあ、私が預かったことにするから。リビングに置いておいて 」
母さんはそう言うと、またあっさりと仕事関係の資料に目線を戻した。
僕にとっては、人生の中でも数本の指に入るくらいの出来事だったのに、僕以外の周りの人間には、いつもと変わらない時間が流れている。
その事実が、僕には衝撃的だった。
「誰から受け取ったか、聞かないの? 」
「まあ、大体わかるわよ。その人、変なお菓子をくれたでしょ? 」
「えっ? 」
僕は驚いて、母さんを二度見した。
でも母さんは、いつも以上にいつも通りだった。
「何で…… 知ってんの……? 」
僕は母さんに訊ねてみる。少し口調は、たどたどしくなっていたかもしれない。すると母さんは一息ついて、こう答えてくれた。
「仕事柄、私たちは鼻が利くのよ。あんたから変な香辛料の匂いがしてるからね。彼は昔から味覚のストライクゾーンが広すぎね 」
母さんはあっさりと花の送り主を言い当てると、また何事もなかったかのように、仕事に取り掛かる。
僕はまだまだ大人たちには、勝てそうにない。
そう、思い知らされた。
「あのさ、母さん 」
「なによ? 」
「母さんは、何て説明して、麻愛に花を渡すの? 」
「うーん、そうねえ 」
母さんは一瞬、手元の動きを止める。そして少しだけ微笑すると、僕の方を向いてこう言った。
「私が預かったって、言っちゃおうかな。それなら麻愛ちゃんも、いろいろ気にならないでしょ? 」
「ああ、うん。そうだね。ありがとう 」
それなら、万事解決かもしれない。
母さんが、何処まで何を知っているのかは分からないし、それを確認する訳にもいかない。でも今、僕の頼まれ事なのに力量不足で母さんを巻き込んでしまったことについては、単純に申し訳ないと思った。
僕は無意識に母さんに頭を下げると、奥の自宅の入り口へと向かう。
すると今度は、母さんが僕を呼び止めた。
「恒星…… 」
「ん? 」
「彼、格好良かったでしょ? 」
「……うん 」
僕は小さく返事をした。
僕の周りの大人たちは、察しが良過ぎる。
母さんの口調は、何か懐かしいものを頭に思い浮かべたような、そんな雰囲気だった。
僕はそのまま奥に引っ込むと、居間にある植物図鑑を手にして、索引のページを開いた。薬剤師が使用する図鑑だから少し専門的な本ではあるが、そんなことに怯んでいる余裕もない。
そして、僕はそれを見つけたとき「やっぱり」と思った。
僕が預かった花の名前は……
マーガレットだった。
マーガレットは七月に咲くことはない。
開花時期は十一月から五月頃なのだそうだ。逆瀬川さんが、どんな入手経路で手にしたかはわからない。だけどの夏場の時期にマーガレットを手にするのは、容易ではないはずだ。
僕は今一度、食卓に置いた花束を手にして、それを覗き込んだ。僕はあまり花を貰ったことも、あげたこともないから、詳しくはない。でも確か大抵の場合、ブーケの中には白い小さめの花とか、ユリとか葉っぱとか、沢山の種類の花が集まっている印象があった。
でも逆瀬川さんの花束は、マーガレットだけしかない。
もしかして……
僕はハッとして、マーガレットの花の本数を数え始めた。
いち、にー、さん…… じゅうろく、じゅうなな
マーガレットの花の本数は、彼女がまもなく迎える年齢の数だった。
その数字は、彼女が普通の女の子として過ごせる最後の年齢と一致していて、僅か十七本のマーガレットは、あっと言う間に数え終えてしまう。そしてそれと同時に、僕の心の底からはやりきれない感情でいっぱいになった。
逆瀬川さんは、この花束は麻愛に渡せば彼女はわかるからと言っていた。
これは僕の勝手な予想だけど、逆瀬川さんは毎年、麻愛の年齢の数だけマーガレットの花を送り続けているのだと思う。そうでなければ、きっとあんな言い方はしたりはしない。逆瀬川さんはフォトグラファーで世界中いろんなところに行くみたいだから、フットワークは軽いのだと思う。でも、今年はわざわざ岐阜の山の中まで届けに来た。逆瀬川さんは、やっぱり彼女をとても大切に思っている。
彼女は以前【麻愛】という名前はお父さんがくれたと言っていた。
麻は真っ直ぐに育つ植物で、健康で愛のある人生を送って欲しい、確かそんな理由だと言っていたと思う。
そしてミドルネームの【マーガレット】
これは麻愛は英語の私を指すmyという単語と同音だからと、お母さんが名付けてくれたと言っていた。イングランドでは、こちらの名前をメインで使用していたとも聞いている。
マーガレットは、花の名だ。
高貴な人の名前でもよく聞くし、イギリスではポピュラーな名前なのかもしれない。
そもそも外国の人の名前は、どういう風に名付けるのだろう……
意味とか音とか…… 好きな花…… 花言葉……
花言葉?
僕はゆっくりと、図鑑へと視線を戻した。
人の心の中を覗き見しているような罪悪感と、目の前の霧が晴れていくような高揚感が混在する、不思議な感覚が僕を支配する。
マーガレットの花言葉は、沢山並んでいた。
どうやら花言葉は、国によっても違いがあるらしい。
僕は図鑑の細かな字を、少しづつ確認した。
日本では一般的にマーガレットの花言葉は、【心に秘めた愛】【真実の愛】といった意味があると書いてあった。
不意打ちで、彼女の出生の秘密を聞いたとき、僕はどう向き合えばいいのか内心不安があった。恵倫子さんの行動も、逆瀬川さんの本質も、普通の高校生である僕にはまだ難し過ぎた。
だからこそ、いま僕は安堵の境地に至っていた。
心に秘めた愛も真実の愛も、僕らの文化的には、なかなか口にするタイミングは少ないのかもしれない。こんなふうに花言葉に気持ちを込めるのは、日本人ならではの発想かもしれない。
いや、ちょっと待て……
僕は一瞬閃きかけた正解を前に、一度冷静になった。
恵倫子さんは日本とイギリスの両方の血を引いている。となると、生活の思考は両国をベースにしているのかもしれない。
僕はすぐにスマホを取り出すと、マーガレットの英国の花言葉を検索する。
何だかまた妙に、鼓動がバクバクしてきた。もしここで驚きの意味がある花言葉が隠されていたら、どうしようかとも思う。僕は震える手を押さえ付けて、検索ボタンをタップする。
すると画面には一瞬で、英国でのマーガレットの花言葉が表示された。
「秘密の恋と信頼…… 」
僕は誰もいないガランとした部屋の中で、無意識にこの二つの単語を声に出していた。
秘密の恋……
僕はその単語を口にした瞬間、全身が脱力していく感覚に陥った。そして時間差で少しずつ笑いが止まらなくなって、最終的には視界が段々とボヤけてきて、慌ててシャツで目頭を押さえた。
僕はとても堪らない気持ちになって、その場でフローリングに突っ伏して、冷たい床の感触を身体で感じた。
僕は思った。
あくまでもここから先はただの推察で、もう今となっては、本人に確認することは出来ない……
きっと恵倫子さんは、子どもの父親は誰でも良かった訳ではなかったのだと思う。
それは有能な遺伝子を残したいという、動物の本能的な話ではなくて、人間だけが唯一神様から赦された文化的・感情的、すなわち精神的な方法で逆瀬川さんを選んだということなのだと思う。
恵倫子さんは逆瀬川さんに、秘密の恋をしていた。
でも恵倫子さんは、逆瀬川さんの事情も知っていた。秘密の事情は、簡単に克服できる代物ではない。どんなに恵倫子さんが思いを寄せようと、逆瀬川さんは恵倫子さんの気持ちには答えることは出来なくて、彼女の前には大きな壁があった。
二人は恋人同士にはなれない。
だけど、恵倫子さんも諦めるわけにはいかなかった。
だから自分の天秤に自分の心臓をかけて、命懸けの作戦に出たのだ。
麻愛は自分の出生の秘密を知らない。
麻愛が自分で悟れば話は別だけど、逆瀬川さんは娘には告知しないと言ったし、僕にも遠巻きに口にしないように求めていた。あの、たった数分で逆瀬川さんは僕の麻愛に対しての感情を見抜いた上で、秘密を共有したのだろうと思う。正直言って、それはちょっと悔しく感じる部分もなくはないけど、僕は責任を持ってこのことは墓場まで持っていかなくてはならない。
麻愛はこれから先、この事情を知ることはない。
だからこそ、恵倫子さんは自分の本当の気持ちを、日本と英国のマーガレットの花言葉に込めた。いつか麻愛と逆瀬川さんのふたりが気付いてくれることに期待して、娘にあの花の名前を名付けたのかもしれない。
一人の女性が描いた飛躍した願いと、それを受け止めたのは常識的な理性。
でも、それは決して無茶苦茶に思い付いた願いではなくて、自分が恋する気持ちを精一杯叶えようとした、一人の女性の生き方の話なのかもしれない。
そして、恵倫子さんは逆瀬川さんの人を愛するという気持ちを、天国まで持っていって結局独占してしまった。
そう。だから、僕はさっきの自分の発言を訂正しなくてはならない。
恵倫子さんの作戦は失敗なんかではなくて、本当は大成功だったのだ。
恵倫子さんと逆瀬川さんは、彼女に愛をたくさん授けている……
彼女が、すべての意味に気づいているのかはわからない。
家族のあり方には、色んな形がある。
確かに彼女を取り巻く環境は複雑で、僕はその事ばかりに目を向けていて、本質に気付けていなかったのかもしれない。
彼女は両親からとても愛されているし、きっと人を愛することも知っている。
命を繋いで産んでくれた、お母さんのために……
彼女は貰った命と自分の才能を生かして、医学の道で、これから人の命を救うために生きていくと決めている。
二人の宝物は、今の僕には眩しすぎて、とても抱えきれないそうにない。
僕の前にある選択肢は二つ。
彼女のことを諦めるか、彼女に相応しい人間になるかの、どちらかということだ。




