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マーガレット・アン・バルクレーの涙  作者: 高城 蓉理
神は彼女に新たな選択肢を赦した
31/79

神は彼女を巻き込むことにした②

◆◆◆


 下呂温泉は、飛騨川の流域にある。


 温泉街から四キロほど離れたところに、湯ヶ峰という海抜1,067mの山があって、ここは約十万年前に噴火した火山といわれている。諸説あるが、下呂温泉は最初この湯ヶ峰の頂上付近で、平安時代の中頃に発見されたらしい。

 下呂温泉は兵庫県の有馬温泉、群馬県の草津温泉と並ぶ【日本三名泉のひとつ】とされる天下の名泉で、室町時代に京都五山の僧である万里集九や、徳川家康から四代の将軍に仕えた儒学者の林羅山が、その泉質を称えとされている。この辺りでは子どもでもそういった歴史を諳じることが出来、僕もその例外ではない。

 泉質は、アルカリ性単純温泉。滑らかな肌ざわりのお湯は、美容や健康づくりにも優れた効果があるといわれていて、効能はリウマチ、運動機能障害、神経症、神経麻痺、病後回復、疲労回復と多岐にわたる。下呂市内にある総合病院では、温泉を利用したリハビリ施設もあって、僕らの生活においては温泉は生活の術としてなくてはならない存在となっている。



「お客さん、湯加減は如何っすか? 」


「ああ、ちょうどイイ塩梅で…… って、匡輔? 」


 僕は思わず足元を軽く浮かせると、反射的に後方を振り向いた。急に動いた反動からか、お湯が勢いよく波を立てる。ズボンはしっかり膝まで捲ったつもりだった  が、水飛沫が掛かったのか、肌が濡れた感覚がした。匡輔は作務衣姿で、木でできたトレーのようなものを持っていて、リネンを山積みにしている。


「で、なに? 何で雄飛閣(うち)に来て、足湯をしてんの? どういう風の吹き回しなんだ? 一体? 」


「あはは。実は、僕も良くわかってない 」


「はあ? 」


「だよなあ。僕も匡輔の立場なら、同じリアクションする 」


 あれから直ぐに、有言実行で僕と彼女は雄飛閣へとやって来た。僕らはもちろんアポも約束もないまま勝手にやって来たし(一応匡輔にはメールして許可は得た)、平日なのでアルバイトの出る幕もない。というわけで、お墨付きをもらった僕たちはちゃっかり社食でまかないのカレーを食べて、時間潰しに足湯やってきた。というのが、ここまでのあらすじだ。


「別に俺は構わないけどさ。いつも世話になってるし。まあ、たまにはゆっくりしていけば? 」


「ああ。ありがとう…… 」


 匡輔は察してくれたのか、あまり多くを語らずに、またどこかへと歩いて行く。夕飯どきで足湯に浸かっている客は、自分しかいなかった。今の僕らは、周りから見ればただの客と従業員にしか見えない世間体というのもあるかもしれないが、こういうときに干渉しないでいてくれる関係性は妙に心地が良い。


 足湯…… というか、温泉に浸かること自体が、僕にとってはかなり久し振りだった。うちは温泉は引いてないし、だからといって、わざわざ近所の温泉に行くことも殆どない。来客があれば、父さんがお湯を車で買ってくることもあるけど、それも年に数回くらいのレアなケースだ。

 雄飛閣のロビーに併設されている足湯は、贅沢にも源泉掛け流しで、体温よりも少し熱い。それほど長い時間浸かっている訳でもないのに、僕の足元はすっかり真っ赤になっていた。


「コーセー、お待たせー! 」


「麻愛…… 」


 彼女は声を押さえつつ、少しだけ駆け足でこちらへと向かってきた。両手には大浴場の前で売られている、瓶入りのコーヒー牛乳が握られている。


「はいっッ、これどうぞ 」


「えっ、あっ、ありがとう 」


 彼女は片手を僕の前に差し出すと、ニコリと笑みを見せた。 今日は珍しく短めのスカートを履いていて、スラリとした素足が露になっている。 僕は目のやり場に一瞬困ったが、彼女は何も気にする素振りもなく椅子を跨ぐと、僕の隣にあまり間隔を空けないで腰かけた。


「私ね、コーヒー牛乳を一回飲んでみたかったんだ。いつもお客さんたちが、美味しそうに飲んでるから 」


「ああ。瓶の牛乳ってウマイよね。風呂上がりとか、マジで最高だと思う 」


「ん? って、これはどうなって開けるの? 」


「ああ、これはね。専用の栓抜きがあると楽なんだけど。ちょっと貸して 」


「うん……って、もう空いたの? 凄っ! 」


「蓋の部分を少しだけ親指の腹で押して、そしたら爪を引っ掻けるんだ 」


「ありがとう。んっ、美味しい。けっこうビターな味なんだね。カフェオレみたい 」


 彼女は両手で瓶を抱えると、ゴクリゴクリと音を立て始めた。

 有名旅館の足湯に浸かりながら、牛乳を飲む高校生が二人……

 それは傍から見れば、イレギュラーな光景だと思う。だけど彼女の満足そうな顔を見たら、いつの間にかそんな些細なことは、どうでもいいことのような気がした。


「あのさ、コーセー。さっき、匡ちゃんと話してたじゃん。その…… 怒ってた? 」


「えっ? ううん。ゆっくりしてけ、だって 」


「そっか、それならよかった。押し掛ける感じで来ちゃったから、多分メーワクだったよね 」


「あはは、それはお互い様だからね 」


 チラリと横目で彼女の方を確認すると、間接照明でわかりづらくはあったが、頬が少しだけ火照って見えるような気がした。普段着で、しかも足湯なのに、彼女はそれだけで画になる風情を醸し出している。

 僕らの足元からは湯気が立ち、熱い湯が音を立てて常に注がれている。彼女が足先で波紋を作って遊びだすと、また少しだけ水面が揺れた。そしてその動きをピタリと止めると、こちらを振り向り向いたような視線を感じて、僕は思わず彼女の様子を伺った。


「マリコ…… うまく侑哉パパと稜子ママと、お話が出来るといいね 」


「えっ? 」


「ん? どうかした? 」


「麻愛。もしかして気づいてたの? 」


「気づいてたって? 」


「だから、その、姉ちゃんが、うちの親に進路の相談しに帰ってきたってこと 」


「そっか…… やっぱり、そうだったんだね 」


「…… 」


 無駄に接近している高揚感と暖色の館内の灯りが相まって、彼女の細かい表情は読み取れない。だけど、その口調は何だかいつもの彼女のものではないような、不思議とそんな疎外感があった。


「私は、マリコが急に帰ってきた理由は、知らなかったけどね。何となく、私とコーセーはいないほうがいいと思ったんだ。|グラジュエイトスクール《大学院》目指したいとは聞いてたから、何となくだけど 」


「えっ? 」


「あっ、うん。マリコとは私がU.K.(イギリス)にいた頃から、たまにメールとかスカイプで連絡のやり取りしてたから 」


「えっ? そうなのっッ!? 」


「私も、一応リケジョ? ……だからね 」


 僕に対して『姉貴から相談された』という言葉を選ばないあたり、やはり彼女は思慮深いという単語がピッタリだと思った。まあ、姉貴が麻愛と連絡を取り合っていたのには少し驚きがあったが、何故か、進路相談をしていたという事実には、妙に納得してしまう自分がいる。


「あのさ、麻愛…… 」


「何? 」


「進路を決めるのって、やっぱり難しかった? 」


「どうしたの? そんな話…… 」


「あっ、いや答えたくなかったら答えなくていいからっ  」


 気づいたときには、心で抱いていた疑問が音になっていた。僕は慌てて自分の発言に訂正を入れたが、それはあっさりと無意味な行動に終わった。



「……私は、あんまり悩まなかった、かな 」


「そう…… なんだ…… 」


 彼女はゆっくりと身体を捩ると、少しだけ周りを見渡した。多分ここから先の話は、この街では僕ら荒巻家の人間しか聞いてはならないことで、僕は何故か迂闊にも、その地雷を自分で踏みにいったのだ。


「私が大学に入ったときは、他に勉強したいこともなかった。それにまだ、世の中のことを知らなさ過ぎて、医者以外の選択肢が浮かばなかったというか、知らなかったというか…… 」


「そっか 」


「あの頃、世界の仕組みとかを、もっと知っていれば、選択肢は広がったかもしれないけどね 」


 でも……

 やっぱり、医者になる道を選んでいたと思う。


 彼女は、そこには明言しなかった。

 だけど、僕は何となくだけど、そんな文章が続くような言葉尻のように感じていた。


「コーセーは、将来はどんなことしたいの? 」


「えっ、僕? 」


 僕は急な彼女の質問に、一瞬考えをまとめた。それが決まっているならば、こんなには悩んでいない。小さな頃は何とも思わなかったこの質問は、年を重ねるごとに、僕の心を揺るがしてくるのだ。


「そうだね。進学はしたいと思ってるけど…… 」


 理系科目は壊滅的に苦手だし、家系の期待に応えることは難しそうだ。それを考えると、あまり自分の実力を大幅に解離した発言は慎むべきだと思うけど、彼女が丁寧に答えてくれた手前、僕もここは誠実な気持ちを伝えるべきだと思った。


「親の姿を見てきてるから、何となく直に人を助ける仕事がしたいとは思ってる。我ながら、安易な考えだとは思うけど 」


「医療関係ってこと? 」


「うん、漠然とだけど。世の中にある仕事って、全部人のためになるものしかないと思うけど、僕は直接相手と関わる仕事に興味がある。でも、僕の理数科目の能力的に現実には厳しいと思うから、別の道を探る感じにはなると思う。まあ、親と同じ道を進むのは、守りに入ってるってなりそうだけど 」


 下呂に残るなら観光業もありだし、一応都会暮らしもしてたから、都心で進学して企業に就活するのも選択肢の一つかもしれない。

 だけど、そういうふうな生活を将来送っている自分のビジョンが沸いてこない。

 僕は、ずっとそう思っていた。


「私は選択肢が沢山ある人生は、豊かで素敵なことだと思う。だけど、それが絶対の価値ではないんじゃないかな 」


「……えっ? 」


 本心を見透かされたような言葉が彼女から出てきて、僕は思わずハッとした。 


「私も小さい頃から、侑哉パパや稜子ママが頑張ってる姿を見てたら、同じ感情を抱くと思う。それは身近な人がイキイキ仕事をしてて、それに憧れたからでしょ? 迷わなければこの分の時間を有効に使えるし、知らないことイコールが可能性を狭めることには繋がらないって私は思う。コーセーをその気にさせた侑哉パパも稜子ママもすごいと思う 」


「ああ…… 」


「新しい世界に踏み出すことだけが美徳だなんて、決めつけてしまうの勿体ない。確かにパイオニア(先駆者)は素晴らしい。だけど、世界はそれだけじゃ成り立たない。挑戦は新しいことだけに使う言葉じゃない。当たり前の生活を、当たり前に送れるように社会を支える。私はそういう大人に憧れたから 」


 彼女は、あまり自分の考えを口にしない……と思う。それは彼女が考えなしに生活してるとか、何も信念がなく生きてるからとかじゃなくて、敢えて言わないようにしているのだと思う。


 彼女が紡ぐ言葉には、力がある。

 それは少なくとも、僕には良く効く魔法みたいなものだと思う。そしてその一語一語は、僕にだけ向けられたものではないような気がした。


「コーセーがなりたいものになれるかどうかは…… 私にはわからない。だけど、恒星は優しいから、人を助ける仕事向いてると思うよ 」


「あ、ありがとう…… 」


 彼女はそういうと、また足元を少しだけパシャパシャとさせた。


 僕は、まだ世界をよく知らない。

 だけどそれを武器に無知を貫ける猶予は、あと僅かしかないことも、理解だけはしているのだ。




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