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マーガレット・アン・バルクレーの涙  作者: 高城 蓉理
神は彼女に新たな選択肢を赦した
26/79

神は彼女に雷鳴を聴かせた①

◆◆◆



 あれ? 千円足りない……

 えっッ? マジで何で?


 僕は今一度、札束を手に取ると、枚数をカウントする。

 やっぱり足りない。何でだ?

 お釣りを多く返したのか、金額の入力が違うのか、いろんな可能性が頭を過る。こうなったらレジをひっくり返してでも、トコトン探すしかない。


 というわけで、僕は千円救出作戦に身を投じることになった。


 結局、閉店作業には三十分近く、時間が掛かってしまった。時計を見ると、もうすっかり夕飯の時間になっている。予定外の作業は、意外と精神的な疲労を困憊させるものだ。僕は金庫にお金を納めると、裏にある自宅へと戻った。

 これから両親不在というイレギュラーが始まるのに、不思議と心は落ち着いていた。明日のテストが僕が苦手としていない科目なのは、唯一の救いだった。


「麻愛ー、ごめん! レジの数字が合わなくて手間取ってた! 」


「それは大変だったねー 大丈夫だった? 」


「伝票が一個入力出来てなかっただけだから、もう大丈夫! 」


 僕は自宅に帰って早々、玄関先で彼女に声を掛けた。今日は何となく、彼女の声がいつもより遠くの方で聞こえるような気がする。そして部屋に微かではあるが、換気扇が回っているような低音が響いていた。


 ……?

 僕は少しだけ不審な気持ちを抱きつつも、彼女の声がする方へと向かった。何よりも先に、僕は今日の夕飯をどうするか、彼女と話さなくてはならないのだ。


「これからコンビニ行くけど。麻愛は何が……いい……? って、何してるの!? 」


「あっ、うん。ご飯作ってるの。三食コンビニじゃ、飽きちゃうかなと思って 」


「えっ? 」


 僕は、ただ単純に驚いた。

 彼女が…… エプロンをして、 台所に立っていたのだ。


「私はお料理は苦手だから、コーセーみたいに上手に作れないけどね。でも、これでもドミトリー(学生寮)に住んでたときは、少しは料理をしてたんだよ。コーセーは、私がご飯作るのは不安? 」


 彼女は、照れ臭そうな笑顔を浮かべていた。まな板の上には鶏肉や野菜が並んでいて、コンロの上では味噌汁用の出汁が沸いている。


「いや…… あの、そんなことない! ありがとう。すげー助かる。ぶっちゃけ、もう雨も降ってきてるし。何を、作ってるの? 」


「鶏の照り焼き。稜子ママに冷蔵庫にあるものは、何でも使っていいって言われたから 」


 彼女は包丁を手に取ると、鮮やかな捌きで鶏肉の皮を剥がし、肉を削いでいた。刃は彼女の手に吸い付くように滑らかに動き、スパスパとぶつ切りを完了させている。その無駄のない手つきは、とてもティーンネイジャーとは思えない、勢いと繊細さがあった。


 普段あまり考えないようにはしているが、彼女は医者だ。

 人体の解剖の経験をしているし、心臓外科の医者ならば、将来的にはその手にメスを持つのだろう。彼女の瞳は、僕が一生目にしないような人間の内蔵を知り尽くしている。彼女の鶏肉を捌く手つきは、正にそれを彷彿とさせた。


「イングランドでもね、照り焼きチキンって友達に好評なの。よくお寿司の中に入れて、カルフォルニアロールみたいにしてた。アボカドやキュウリを一緒に入れてね 」


「へー それは旨そうだね 」


「うん、でも私はいつも綺麗に海苔が巻けなくて。いつもみんなに助けてもらってたんだよね 」


 彼女はそう言いながらフライパンに火を点けると、鶏肉を投入してジュウジュウと焼き始めた。料理は苦手という割には、肉を炒めながら味噌汁を作ったりサラダの野菜を切ったりと、手際がいい気がする。


「何か、手伝うことある? 」


「えっ? じゃあ、お皿出してもらっていい? あとサラダのドレッシングも 」


「わかった 」


 意識し過ぎは良くない。のは、わかっている。


 彼女は僕と同い年だ。

 けれど彼女は既に学生生活というものを、一旦は完了していることも事実で、僕よりも何年分も前にいる。


 何気ない彼女の仕草から、時折垣間見えるその大人の世界の片鱗は、いつも僕を見えない力で正面から突き飛ばしてくるのだ。


◆◆◆


 少し遅めの食事を終えると、僕らはそのまま高校生の本業に取りかかった。

 彼女は食後にミルクティーを入れてくれて、それを傍らに僕らは参考書を広げている。しんとした部屋の中では、窓を叩く水の音と遠雷が微かに響いていていた。

 彼女はそんな静けさも物ともせず、机に向かっている。彼女はこちらなんて見向きもせず、視線を下に固定して自習に励んでいた。 


 僕は正直、集中力に限界が来ていた。

 ぶっちゃけた話、僕にとっては苦手な理系科目が集中していた今日が今回の試験のピークで、明日はほぼ惰性に近いラインナップだった。だけど日本語が得意でない彼女にとっては、明日の現文こそが山場の一つらしく、熱心に漢字の書き取りをしている。ここ(下呂)に来たときは小学生のドリルに取り組んでいたが、最近は中学生レベルのものに一気にジャンプアップしていた。

静まり返ったリビングには、秒針と雨音と彼女のペンの音だけが、ただひたすら響いている。


「ねえ、コーセー  」


「……ん? 」


 長い沈黙を破ったのは、彼女だった。

 僕が教科書から視線を外して前を向くと、彼女はこちらにドリルを向けていた。



「あの、ちょっと、わからないところがあって 」


「それ、僕が…… わかることなの? 」


「さあ、それはわからないけど 」


 何だか、意地悪なことを言ってしまった。 

 だけど彼女は僕の不穏当な発言を気にする素振りも見せずに、ドリルの例題を指差すと、こう話を続けた。


「あのねっ、()()て、どういう意味? 」


「はい? 」


 僕は、彼女の質問の意味がわからなかった。

 そして急な彼女の発言に、ドキリとする。

 いきなり()は、どういうことかと聞かれても、何だかよくわからない。すると彼女はドリルを叩きながら、今度は力強くこう言った。


「違う違う。この【恒星が光輝く】って例文、これはどういうこと? 恒星は、普通の星と違うの? 」


「えっ? あっ、恒星って…… 」


 単語の意味のことね。

 彼女は僕の名前じゃなくて、恒星という物が何かを知りたかったらしい。

 何だか拍子抜けというか、少しがっかりというか、安堵というか……

 僕は何だか、複雑な気分になっていた。


「えっとね、自ら発光する天体のことを日本語では恒星っていうんだよ 」


「へー そうなんだ。星にもいろんな名前があるんだね 」


「ああ。僕もそんなに詳しくはないんだけどね。ちなみに太陽系には恒星は一つしかないんだって 」


「ああ、なるほど。太陽だけしか、自ら光を放ってないね 」


「うん、当たり 」


「コーセー、さすがに詳しいね 」


「そうかな? まあ、一応自分の名前だしね 」


「恒星は、その名前通りの人だね 」


「えっ? 」


「いつも、温かいもん 」


 僕はほぼ反射で顔をあげると、彼女のいる方を振り向いた。


 僕が温かい……?

 彼女は、時折とても不思議なことを言う。


 僕は別に冷めているつもりもないが、熱くなることもない。他人からは自分はそういう風に見えるのかと思うと、それは少々意外だった。


「そうかあ?  名前負けしてないか、不安になることの方が多いけどね 」


 僕は一応日本人らしく謙遜すると、適当にしか読んでない教科書に視線を戻す。彼女もまた再びドリルを開き直すと、漢字の書き取りを再開していた。


「あのさ、麻愛…… 」


「なに? 」


「麻愛には、名前の由来とかあるの? 」


「えっ? 私? 」


 彼女はペンを置くと、うーんと少し考え始めた。そしてゆっくりと口を開くと、こう語り始めた。


「麻愛は…… パパが付けてくれた名前だって聞いてる。健康で愛をいっぱい受けて育つようにって。麻は厳しい土壌でも、真っ直ぐ育つ植物なんだって 」


「へー。その話、初めて聞いた。素敵な由来だね 」


 名付けたのは、お父さん……?

 麻愛は、お父さん……逆瀬川さんとは一緒に暮らしたことは、ほぼないと聞いている。だからここで逆瀬川さんの名前が出てくるのは、僕にとっては少し意外に感じられた。 


「ありがとう。でも麻愛は英語圏だと、私って意味だからちょっと紛らわしいの。だからママがマーガレットってミドルネームをくれて、イングランドでは、そっちの名前をメインにして生活してたの 」


「そうなんだ 」


「だから家族以外に麻愛って呼ばれるの、まだちょっと変な感じがするときがあるんだよね。イングランドでは、マーガレットって呼ばれることしかなかったし 」


「じゃあ……僕が麻愛って呼ぶのも、違和感があるんだ 」


「コーセーって、たまに変なこと言うよね。コーセーからは小さい頃から麻愛としか呼ばれてないから、そんなふうに思ったこと一回もないよ 」


「じゃあ、僕は家族枠(かぞくわく)ってこと? 」


「あはは、そーだね。コーセーは家族枠って言うよりは、どっちかというと特別枠って感じかな 」


「……? 」


 彼女は自分で言ったことを、勝手に自己完結すると、またペンを握り勉強を再開した。

 お父さんから貰った、もう一つの大事な名前。

 だから彼女は、日本では麻愛って名前を選んでいるのか……


 僕は以前から、彼女は底知れぬ神童と呼ばれる才能と大人の事情の板挟みで、難しくて苦労の多い人生を送ってきたのだと思っていた。


 だけど、実際の彼女はとても愛されていて、本人もそれをきちんと自覚している。

 世の中には、声にして聞いてみないとわからないことが、まだまだ沢山ある。

 僕はそう思った。



「……マーガレット 」


「えっ? 」


「ちょっと、呼んでみただけ 」


「なっ、いきなり何っ? 急に……ビックリするじゃん 」


「そうなの? 」


 彼女は珍しく赤面すると、少し気まずそうに咳払いをした。そして側にあったミルクティを飲み干すと、少し息をついてこう続けた。


「だって、日本に来てからマーガレットって呼ばれたの初めてだし 」


「初めて…… ね 」


「それに、コーセーにマーガレットって呼ばれたことないし 」


「あはは…… 」


 僕の一世一代の勇気は、なかったことになっていた。何だか僕は肩の荷が降りたように、ガッカリした。


 僕の事情を一切知らない彼女は、キョトンとした顔をしながらこちらを見ている。

 彼女は悪くない。

 だけどいくら高熱で記憶が曖昧になっているとはいえ、あれだけ続けてパワーワードを並べられたら、僕にも気持ちの切り替えとゆうのが必要だ。この調子だと、あのハグすら彼女の記憶に残っているのか怪しすぎる。

 僕は席を立ち少し深呼吸をすると、窓の方へと歩き出した。


「コーセー? 」


「雨戸を閉めるだけだよ。風も出てきたし。麻愛も雨が酷くなる前に、今日は早めに部屋に戻った方がいいよ。明日家に帰ったら、すぐに名古屋へ行くんだろ? 泊まるなら、準備もしなきゃだろうし 」


「あっ、えっ、うん。そうだね…… もう九時過ぎてるしね」


 彼女はハッとした表情を浮かべると、机に広げていた参考書一式をまとめ始めた。

 僕らそれを横目で見つつ、雨戸に手を掛けて外を眺めた。雨足はさっきよりも一段と強さを増していて、風も容赦なくこちらへと吹き付けてきている。梅雨入り前にこんなに天気が荒れるのも珍しい気がしたが、こんな日もたまにはある。


 その時だった……

 空にピカッっと絵に描いたような稲妻が走ったのが見えた。

 そして、僕がそれを雷と認識したのとほぼ同じタイミングで、バリバリっと空を抉るような爆音が響きわたり、それと同時に視界が急に真っ暗になった。






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