神は彼女に無理をさせた
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長かった大型連休も、あと二日。
今日を乗り切れば、僕らは晴れてお役ご免になる。
結局この数日、僕らは部活とバイトばかりで楽しいこととは無縁の生活を送ってしまった。
そして彼女はというと、ソファーで横になり寝息を立てながらお眠モード真っ最中だった。今日の昼間の清掃作業は彼女が仕事に慣れてきたということもあり、いつもよりも担当する客室が多くアサインされたので、彼女も草臥れたのだろう。
カーテンの隙間から差し込む日差しは、この時間でもまだ光が濃い。無造作に乱れる彼女の髪の隙間からは、長い睫毛がチラリと覗く。僕は時刻を確認して、手にしていた文庫本をテーブルに置くと、小さな声で彼女にこう声をかけた。
「麻愛…… そろそろ時間だよ 」
「…… 」
リビングには、彼女の規則正しい呼吸と時計の秒針だけが響いている。彼女はしっかりと瞳を閉じていて、目を開ける気配はなかった。
「麻愛 」
「…… 」
僕は再び声を掛けてみたが、相変わらず動かない。彼女は体を丸めて、何も警戒することなく無防備な姿のままだ。今まで彼女が朝寝坊するようなことは、一度もなかった。むしろ僕が起こされるような場面ばかりだ。
よほど疲れている? のだろうか……
もしかしたら無意識のときは【麻愛】よりも英国で慣れ親しんだという、もう一つの名前で呼んだ方が、心に響くのかもしれない。
僕は少し迷うところもあったが、彼女の肩に手を伸ばした。
彼女のもう一つの名前……
それは、ある花の名前だ。
少し突いても起きないようなら、その名を呼んでみようか。
まだ彼女を麻愛としか呼んだことがないから、ミドルネームで声をかけるのは、少し緊張するような気がした。
「麻愛 」
僕はそう声を掛けながら、彼女の肩を軽く叩いた。彼女が薄手のブラウスを着ていたせいもあると思うけど、肩の辺りは皮一枚と骨の感触しかなかった。
「んっっ? 」
彼女は唸るように声を放つと、ゆっくりと状態を起こした。
起きた…… のか……?
いつもさらさらに纏まっている髪の毛はあちこちに乱れていて、目もまだ完全に開ききっていない。
「麻愛。そろそろ雄飛閣に戻らないと。もうすぐ五時だから 」
「えっ? もう、そんな時間? 」
彼女は目を擦りながら、壁の時計に目をやった。そしてストレッチをするように、その場で少しだけ腕を伸ばす。寝起きだからか彼女の頬は紅潮していて、少しだけ額には汗が浮かんでいた。
もう少し早く起こしても良かったのかもしれないけど、彼女の寝顔を長時間独占できることなんて滅多なことではない。今日だけはと邪心が勝り、声かけをギリギリまで粘ってしまったことは、厳重に秘密にしなくてはならなそうだ。
「ごめん。私、ソファー独占して寝ちゃってたね 」
「別に気にしなくていいよ。僕もさっきまで自分の部屋でゴロゴロしてたし 」
「ごめんね、いま支度するから 」
僕は彼女に咄嗟に無意味な嘘を付くと、財布とスマホをポケットにさして簡単に身支度をした。
そして彼女もソファーから立ち上がった……と思ったときだった。
それは、あまりにも一瞬だった……
彼女はその場で大きく揺れて、前によろけたのだ。
よく皿が割れる瞬間とか、そういう特別な一瞬は、スローモーションに見える。そしてまさに今が僕にとってのその状態で、低速再生で彼女が倒れる風景をコマ送りで見ているような錯覚に陥った。
僕は反射で、彼女の両腕を掴んでいた。
彼女自身もこの状況に驚きが隠せないのか、吃驚した様子でこちらを見上げている。彼女と接触したらドン引きされるだろうと感じるほど、いろんな意味で僕の鼓動は早くなっていた。
「大……丈夫……? 」
「うん、ありがとう 」
彼女は僕の腕を優しく振りほどくと、平気平気と笑って見せた。
「ごめん。急に起き上がったから、立ちくらみかな? 起き抜けは気を付けなきゃね 」
彼女は何事もなかったかのように、そう繕うと、ごめんねと言って台所に向かう。
彼女の足取りは、普通に見える。
だけど、何となく僕の手のひらに伝わってきた熱は、自分のものより高く感じた。
「……麻愛、もしかして具合悪い? 」
「えっ……? 」
彼女はビクッとした様子で、コップの水を飲むのを止めた。
一瞬だけ、彼女が真顔になった気がした。
「コーセー、私はいつも通り元気だよ。さっきのは、ただの立ちくらみだからっ 」
「ホントに? 何かダルいとか、風邪っぽいとかない? 念のため、熱計った方がよくないか? 」
「ヘーキヘーキ!コーセー、私を何者だと思ってるの? 」
「それは…… 」
彼女はそう言うと、謎のガッツポーズを見せて健在ぶりをアピールする。病気の専門家である彼女にそんな言い方をされたら、素人の僕には何も抵抗できるカードはない。
そして彼女はニヤっとすると、慌てて洗面所に向かい身支度を整え出した。
今日は土曜日だけど輪番で店は開いてるから、顔見せがてら僕と彼女はそちらから出入りをする。店は急に風邪を引いた観光客やら、遠くから処方箋を取りに来た患者数人が薬を待っていた。
「ゆーやパパ、稜子ママ、行ってきます 」
彼女はそういいながら調剤室を覗くと、うちの両親に律儀に挨拶した。その様子に気づいた父さんは店頭に出てきて、僕ら……というか彼女を見に店頭に顔を出した。
姉貴は父さんのことを暑苦しいと毛嫌いしている節があるから、どうやら彼女が編み出したゆーやパパという呼び方で話しかけられるのが、嬉しくて仕方ないらしい。
「おっ、二人とも。これから夜の布団敷きか? 精が出るねー 帰りは暗いから、道中気を付けるんだぞ。恒星は全力で麻愛ちゃんを変態から守るように 」
父さんの常軌を逸した物言いに、僕は少しばかり言葉を失った。父さんはいたって真面目な顔で、よくわからないことを口走っているのだが、彼女はそんな気持ちの悪い発言を気にする様子もなく笑顔を浮かべている。 調剤室の向こうでは母さんが頭を抱えている様子が見えて、僕は思わず同情した。
「……ああ。気を付けるよ。じゃあ行ってくんね 」
「行ってきまーす 」
僕は若干父さんの発言には引いていたが、彼女が気にしてないのならばツッコミを入れるのは野暮だと思い自粛した。
彼女はいつも以上に、普通にニコニコしていた。
だけど僕はこのとき、まだ彼女の異変に本当の意味で気づくことができていなかった。
あのとき、僕が彼女に手を差し伸べることが出来ていたら……
あんな事は起きなかったかもしれない。




