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マーガレット・アン・バルクレーの涙  作者: 高城 蓉理
神は彼女に新たな日常を与えた
14/79

神は彼女の事情を公表した

◆◆◆



 ゴールデンウィーク初日は、あっという間に一日が終わってしまった。

 あの旅館のバイトに駆り出されたのは、春休み以来だからそれほど間隔は空いてはいなかったが、やはり布団敷きの時間は独特の緊張感が張りつめた。今日は彼女が一緒だからまだマシな方ではあったが、限られた時間内に効率よく部屋を回るのは難しい。ましてお客さんと鉢合わせてしまったら気まず過ぎるから、それは何とか回避しなければならない。もしかしたら食事をすぐに切り上げてしまう客もいるかもしれないし、とにかく時間との勝負だった。


「麻愛ちゃん、今日は初めてのバイトで疲れたでしょ? 」


「ええ、とっても。こんなに体を動かしたのは初めてかも 」


 彼女はコップの水を一気に飲み干すと、母さんに返事をした。

 まだ髪の毛は完全には乾ききっていなかったが、頬の血色は良くて、肌はクリームか何かでツヤツヤしている。この半同居生活も何だかんだで一ヶ月位は時間が経ったが、部屋着に身を包んだ彼女の姿には未だに慣れることが出来ないでいる。


「明日は腕とか筋肉痛かもね。今夜はしっかり休みなさい 」


「ありがとう、稜子ママ。コーセーも 」


「ああ 」


 彼女はそう言うとシンクでコップを洗い、器を伏せた。取って付けたようにコーセーも、と言われたのは若干引っ掛かったが、あまり深く考えても仕方がない。

彼女はいつの間にか母さんのことを稜子ママ、父さんのことは侑哉パパ呼ぶようになっていた。そして彼女は今一度居間に顔を出すと、「おやすみなさい」と言って、自分の部屋へと戻っていった。


 ドアがしまったのを確認すると、僕はテーブルに転がっていたバナナを手に取り、それを口に運んだ。 こんな夜更けに果物を食べるのは背徳感しかないが、賄いを食べたのは夕方近かったから致し方ない。


「恒星、あんた十年後、後悔するよ? 」


「いいよ、別に。よくわからない未来よりも、僕は今の幸福を取る 」


 僕はそういうと、また一口バナナを頬張った。母さんは汚いものを見るかのように、僕に生暖かな視線を送り込んでくる。こういう母の対応には慣れてはいるが、気持ちのいいものでもない。このパターンの場合は話題の切り替えを図るのが一番手っ取り早いのは、長年この母の息子をやっている経験だった。


「麻愛は…… 湯冷めはしないんだろうか? 自分の部屋で入ればいいのに 」


「髪は乾かしてるからね。その辺りは平気なんじゃない? やっぱり部屋に一人でいるのは、寂しいのかもね 」


母さんはそう言うと、僕の同意なくテレビのチャンネルを韓流ドラマへと変えていた。


「で、どうだったの? バイトは? 」


「別に、普通だけど…… 」


 正直言って今日は大事件が起きたわけではないが、普通の一日でもなかった。

 個人的にはいろいろあったが、その辺りは母さんに話す必要もないので黙っておくことにする。だけど母さんは何かを感じたのか、テレビの画面を見たまま話をこう続けた。


「匡輔くん。麻愛ちゃんまで肉体労働させちゃってね。ったく、勿体ない人員配置ね 」


「まあ、そうだね 」


 でも今日に限っては、結果オーライだったかもしれない。

 彼女は予想外に、働くことに並々ならぬ想いを抱いていて、今日は少し暴発していた。

 僕はうまく受け止めてあげられなかった。だけどその場に自分がいなかったことを悔やまなくて済んだのだから、それだけでも良しとするしかない。


「あのさあ、母さん。聞きたいことがあるんだけど 」


「何? 」


 母さんは片手間な返事をした。

 この言い方は多分もう今日は店じまい、私はドラマに浸りますのサインだ。

 だけど、僕は熱いうちに鉄を打ちたかった。


「……麻愛ってさ、何でうちに来ることになったの? 」


「突然、どうしたの? 」


「いや、ちゃんと聞いてなかったから。それに彼女、だいたい家にいるから聞く機会もなかったし 」


 母さんが一瞬だけ、僕を振り返ったような気がした。

 僕は少し本音が顔に出ていたかもしれない。

 だけど何故今それを聞く必要があるのか、理由はまだ言いたくなかった。


「麻愛ちゃんを日本で生活させたいって、昔から恵倫子から頼まれてたからよ 」


「恵倫子さんから? 」


「恵倫子は生まれも育ちもイギリスだったんだけど、故郷を知りたいって大学だけ日本の大学を選んだの。恵倫子とは大学の写真部で同学年でね。まあ、学部も一緒だったし。母さんも父さんも二十年来の友達なのよ。まぁ、マブダチってやつかな。って、マブダチって死語か…… 」


 恵倫子さん……

 彼女の母親は、数ヵ月前に亡くなったと聞いている。


「恵倫子さんも…… 母さんたちみたいに、薬剤師になったの? 」


「いいえ。卒業後は彼女はイギリスに帰って、製薬会社の研究員になった。自分の病気を治すために 」


「自分の病気を治す? 」


 僕には母さんの言っていることが、よくわからなかった。だけど母さんは淡々と話を進めた。


「恵倫子は生まれつき心臓に病気があってね。恵倫子はそれを治すために、自分で自分の病の研究をしてた。恵倫子は生きるために、ずっと戦ってたんだよね 」


「……心臓? 」


「これは医療従事者の宿命なんけど、病気の知識があるってことは…… 自分がこの先どうなっていくのか、嫌ってくらいわかるってことなのよ。でも恵倫子は最初から最期まで、自分から逃げない道を選んでた 」


 母さんはそれ以上は言わずに、口をつぐんだ。

僕はというと、想像を凌駕する話の数々に頭がついていかなかった。


「恵倫子は生きてる頃から、麻愛ちゃんが大学を卒業したら預かって欲しいってずっと言っててね。それで逆瀬川くん……に頼まれたってわけ 」


「逆瀬川くん? 」


 って誰だ?

 逆瀬川って珍しい名字だけど、どこかで聞いたことがある響きだった。


「麻愛ちゃんのお父さんよ。恵倫子とは籍をいれなかったから、事実婚ってやつね。逆瀬川くんは学部は違ったけど、同じ写真部でね 」


「じゃあ、逆瀬川って人の家で暮らすのでも良かったんじゃないの? 」


 母さんは僕の話を聞いて、一瞬困ったような表情を見せた。ここまできたらちょっとやそっとじゃ驚かないけど、何だか複雑そうか事情が絡んでいることは、容易に想像がついた。


「逆瀬川くんは…… 仕事の関係で世界中を飛び回ってるのよ。恵倫子の両親は今もイギリスで暮らしてるし、逆瀬川くんは自分の親戚とは疎遠みたいで、麻愛ちゃんのことをきちんと説明してないらしいから。それでうちに声を掛けたみたいよ。うちは学生寮もやってるし 」


「なるほど 」


 僕は頭のなかで相関図を思い浮かべる。控えめに言っても、僕の頭はただただ混乱していた。


「それに逆瀬川くんも、今さら年頃の娘と急に二人で暮らすとか無理でしょ。そもそも彼は自由人だし、麻愛ちゃんとも年に数回会うか会わないかくらいみたいだしね。今さらお互いに難しいんじゃない? 」


「確かに、それもそうだね 」


 彼女が逆瀬川さんとやらと一緒に暮らしても、ウィンウィンにはならないだろう。だから夫婦共通の友人である父さんと母さんに託すことにしたのか……


「恵倫子はね…… 麻愛ちゃんが小さいときから、ずっと心配してたからね 」


「ずっと? 」


「そうよ。麻愛ちゃんがどんどん飛び級して大学に入って、どんどん世間一般の子よりも先に先に進むようになって…… 自分があんまり長くは生きられないのはわかってたみたいだから、麻愛ちゃんのことが気がかりで仕方なかったんだろうね 」


「じゃあ麻愛を置いていくのは…… 辛かっただろうね 」


「そうね…… 恵倫子はまだ死にたくなかっただろうね。私も母親だから、その気持ちはよくわかるよ 」


「…… 」


 僕は急な母の言葉に、何と言っていいのかわからなくなった。そしてそれが贅沢な悩みであることも同時に理解する。

 母さんは相変わらず韓流ドラマに目線を合わせているけど、少しだけ顔を歪めながら話をしているように見えるのは、僕の気のせいでもないような気がした。

今は、母さんが少しだけ悲しい顔をしているように見えた。


 重苦しい空気とは今のこの状態みたいなことを指すんだろうな、と思った矢先のことだった。


 次の瞬間、母さんは踵を返すように僕にいきなりこう言い放った。


「っていうか、恒星っ。 今さらだけど急にそんなこと聞いて。やっぱり今日何かあったんでしょ? 」


「いや、別に…… 本当に何もないから 」


「いや、怪しいわ。私もあんたの親を十六年やってるから何となくわかるもん 」


「だから、違うって。ただ興味本意で聞いてみただけで…… 」


 僕は少しアタフタしていた。都合が悪いことには、蓋をしてしまうに限る。

 僕は少し言葉を考えて話を畳もうとした。

 そのとき……

 母さんは、いきなり僕にこう言い放った。


「っていうか、あんた明日もバイトでしょ? 朝早いんだから、早く寝なさいっッ 」


「なっ、急になんだよ 」


 母さんはそう言うとまたリモコンを握りしめ、テレビに向かって体を戻した。

 僕は慌てて座椅子から腰をあげると、自室へと退散する。


「明日は起こさないからね。自分で起きなさいよ 」


「はい 」


 母さんはいつも通りのテンションに戻っていた。

 こういうとき大人は強くて、まだまだ親には敵わないと僕は思ってしまう。


「母さん…… 」


「何? 」


「僕って…… 恵まれてるんだね  」


「今さら気づいたの? あんたって本当、バカね 」


「おやすみ、母さん 」



 それは、自然と出た言葉だった。

 別に麻愛が幸せでないとか、恵倫子さんに同情してるとか、そういう気持ちが働いた訳じゃない。


 僕は今まで一回も自分が幸せか否か、考えたことはなかった。

 考えたことがないというのは、生まれてからずっと僕は満たされていたから、その思考すら発動しなかったということだと思う。


 大事な人と一緒にいられる。

 それは本当に貴重で、奇跡みたいなことなのだ。


 どんなに美しい言葉を並べても、どんだけ理想を言おうとも、それを無くす痛みを知る彼女のハートはきっと強い何かに覆われていて、僕には到底敵いそうもないと思った。




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